伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

欠片の瓦版 16/01/29

2016年01月29日 | エッセー

■ ふたたびSMAP
 それにつけても、“フォーライフ・レコード株式会社”(FOR LIFE RECORDS)である。
 75年、音楽業界に電撃が走った。売上100億円(今では200億くらいか)にもなろうかという新しいレコード会社が生まれたのだ。当時海外では、自分のレコード会社を持ち録音した曲を既存の会社に売るというスタイルはあった。しかし、“フォーライフ”は曲の制作から広報、営業、販売まですべてを自前で行う正真のレコード会社である。J-POP史どころか本邦音楽史に残る快挙であった。
 アーティストは商品、レコード会社が生殺与奪の絶対の権限をもつ。そこに風穴を開けたい。提唱、主導したのは吉田拓郎。小室 等が賛同し、井上陽水を誘い、泉谷しげるをも引き込んで旗揚げしたのだ。
「今のレコード会社の年功序列的な組織の中ではプロデューサーとしては何もできない。俺たちの力ではくずせない壁がある。プロデューサーという価値観が会社の方でも解ってない。日本ではプロデューサーの評価が全然ない。ミュージシャンだけでなくそれに携わった全部の人が評価されるシステムを作りたい」
 そう拓郎は語った。彼が29歳、小室が最年長で32歳。まさに「三十にして立つ」であった。当初、稿者は“Four Life”だと勘違いしていた。水と油の融合にそんな連想を抱いたのかもしれない。
 「幕末の志士のようだ」と賞賛はされたが、当然、業界は反発した。日本レコード協会は“フォーライフ”の販売拒否を理事会で決め、制作会社にはプレスを請け負わないように通達した。プレスと流通という首根っこを押さえる作戦であった。マスコミは狂騒し大きな社会的イシューとなった。のち紆余曲折を経てプレスをキャニオンレコード(当時)、販売をポニーレコード(当時)が引き受け設立に漕ぎ着ける。当初は業界全体のおよそ2割のセールスを誇ったものの、理想と現実の狭間で呻吟しやはり水と油に分離して2001年に解散、資産・事業を譲渡するに至る。その26年間、所属アーティストには長渕剛/杏里/今井美樹/江口洋介/坂本龍一/原田真二/水谷豊などなど、錚々たる顔ぶれが居並んだ。
 設立時のコピーは、「私たちに音楽の流れを変えることができるでしょうか」であった。元の“フォーライフ”は退いたものの、宣伝・配給は大手、制作だけを担うというスタイルのレコード会社が続出した。アーティストがプロデューサーとしての権限を強める動きが生まれ、マネージャーやタレントも含め独立の流れが社会的認知を得ていった。してみると、「流れ」は確かに変わったといえる。「フォーライフの設立は革命であり、サブカルチャーからメインカルチャーに躍り出た“70年代フォーク”の一つの到達点だった」とする見解もある。
 『商品』からの開放と下克上。70年代初頭熱い学園闘争は徒花に畢り、続いて社会に鮮やかなをコンヴァージョンを刻した熱い若者たちもいた。決してガキとはいえまい。明らかに「三十にして」苦難の道に「立つ」と決めたのだから。
 木村クンの意外で妙な浪花節に、頻りに“フォーライフ”が回想されてならない。

■ 甘利氏 辞任
 日本に30万あるといわれる姓の中で、五郎丸ほどとはいわないまでもかなり珍しい。調べてみると、武田家の家臣で譜代家老であった甘利虎泰の子孫であるそうな。先代の信虎時代には武田四天王の1人に数えられた。戦国の世の非情というべきか、その偏諱を賜った主君の追放を主導したらしい。
 疾風が吹き殴り砂塵が舞う寂寥たる街角に、1人佇立する托鉢僧。身を窶した信虎である(乱破の設定だそうだが、稿者には信虎に見えてならぬゆえ勝手にそう解釈している)。黒澤映画『影武者』の忘れ得ぬシーンだ。
 そうやって虎泰は信玄を担ぎ上げ、国盗りの攻防戦に奮闘する。50歳、初めて武田が大敗を喫した信濃国上田原の戦いで信玄を護りつつ戦死する。
 話はそれまでで、なんら寓意染みたものはない。ただ、01/25版で孫引きした大瀧詠一の箴言「真に新しいものはつねに思いもかけないところから登場する」が落想されてならぬ。
 ひょっとして終わりの始まりかもしれぬし、そうではないかも分からぬ。他力に任せた淡い期待はアマリよくない。 □