伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

食、二話

2008年07月26日 | エッセー

 おととい、年に一度の鰻重をやっと三分の一食した。これで一年間は喰わずに済む。 …… 無理してなぜと問われれば、雷同不和、大勢に順ずるが生まれついての質(タチ)とでも答えようか。世間が挙げて興ずるものを指を銜えて見ているわけにはいかない。
 幼少のころ、「土曜」日でもないのに牛ではなく鰻を食べる理由(ワケ)を訊いて周囲の嗤いを誘ったことがある。大地の気が働いて新しい季節が始まる。その四つの「土用」のうちでも夏に備えようと始まった風習である。肉食(ニクジキ)は御法度。そこで鰻と相成った。ウナギさんには受難の時季だ。
 さて、その鰻。またもや偽装騒ぎが起こった。今度は産地を偽った。昨今流行(ハヤリ)の食品偽装は、ほとんどが内部告発によって明るみに出ている。今回の通報もそんなとこでは。消費者、分けても食通の舌が選り分けたものではない。先日、丁髷(チョンマゲ)姿のお笑い芸人が、「どうして中尾彬が見抜けなかったのか?」とネタにしていた。その通りともいえようが、はたしてどうか。中尾クンにしたところが至難の業であろう。
 つまりは、その程度のことなのだ。こいつはどうも中国の臭いがすると騒いだ者はいない。中国産の例に漏れず大腸菌や農薬が出てきたそうだ。三日に空けず喰えば話は別だが、ひとりとして腹痛を起こした者はいない。実害もなく、違いも判別できないものを産地で仕分けることに何の意味があるだろう、といえば乱暴に過ぎるか。ましてや鰻は回遊魚である。産卵は赤道からフィリピン東方沖。孵化して海流に運ばれ、アジア各地の川を遡上する。もちろん、水や餌、育つ風土の影響はあろうが、出自に違いはない。養殖とて事情は大同小異。中国の養殖場で育つ稚魚は欧州産だ。アメリカ産もあれば、台湾の養殖鰻もある。もはやトレーサヴィリティーの外である。
 断っておくが、騙していいといっているのではない。商いの基にも人倫にも背くこのような非道が許されてよい筈はない。だからといって、規矩準縄の網を張れば事は収まるのか。JAS(日本農林規格)法の網目を細かくすれば捕獲できるのか。ウナギだけにヌルヌルと容易には掴ませまい。この先どうなるか、ウナギに訊いてくれでは落語の下げだ。いっかな埒は明かない。ウナギならぬ、モグラ叩きが繰り返されるばかりだ。ウナギに罪はない。罪作りはヒトだ。やはり、人為の網ではなく天網に任せるべきか。「恢々疎にして漏らさず」こそが、『セーフティーネット』であろうか。
 
 もうひとつ、埒の明かないことがある。食糧自給の問題だ。07年11月4日付本ブログ「2007年10月の出来事から ―― 「赤福」餅、消費期限偽る」でこう書いた。
 〓〓分けても賞味期限。賞味期限切れで廃棄される食品は年間2千万トン以上に及ぶ。2001年に「食品リサイクル法」が施行されたが、賞味期限がある限り廃棄の現実に変わりはない。食糧自給率40パーセントの国が、この体たらく。ここにこそ目を向けるべきではないか。飽食ニッポンのマンガのような転倒の姿。〓〓
 「貿易立国」日本は農地を工場に替え、製品を輸出して食糧を輸入する道を歩んできた。否、疾走してきた。とどのつまりが「40%」である。人数にすると、自給可能が7700万人、5000万人が輸入食糧で生き延びている計算だ。ただ、この日本の路線に翳りが見えはじめた。中印を中心にしたパラダイムシフト。原油・食品の高騰はその表徴だ。これについては稿を改めたい。
 ここで愚考を巡らす。
 「衣食住」とはいうが、本当のところは「食住衣」であろう。食がファーストプライオリティーだ。生命に直結する。日本はここを海外に委ねている、更には生殺の権を握られている。だが、俟て。視点を変えれば、アプリオリに「平和国家」の与件を負うことではないか。一国では喰うに喰えない。「食」が立ち行かないとは、つまり国際の友好、平和がなにより形而下で希求されているということだ。絵空事の論議ではない。平和憲法に実質を与えているのは、自衛隊は軍事力ではないという詭弁や、非核三原則などの漠たる能書きではない。一国の「食」と国際平和が分かち難く繋がっている事実こそが、平和憲法の最大にして最強の担保だ。食と平和との緊縛こそ、9条の実態的意味ではないか。
 先日のテレビニュースで、輸入が途絶えたらスーパーからどれだけ品物がなくなるかを試していた。棚はほとんどすっからかんになる。家畜の肥料でさえ海外から入る。油がなければ魚も獲れない。日本列島は絶海の孤島なのだ。この地理的条件は動かない。それに、「食」のレベルも簡単には変わらない。自給率の本格的回復も途方もない時間と産業構造の激変を伴う。はたしてできるか。できっこない。
 できもしないことに憂き身を窶すより、「塞翁が馬」を決めるのが賢明ではないか。連れ帰る駿馬は国際信用であるかもしれず、落馬によって紛争の当事者たることを免れるかもしれない。
 喰うための戦争から、喰うための平和へ。これは、人類史的挑戦ではないか。 □


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