以前に紹介した清華大学蔵戦国楚簡ですが、先日『国学網』を見ていたら続報がアップされており、精華簡の一部で『尚書』の逸篇と見られる『保訓』の内容が紹介されてました。
李学勤「“清華簡”研究初見成果:解読周文王遺言」
(元記事は4月13日づけの『光明日報』)
内容は周文王の武王に対する遺言で、その中で舜や殷の祖の上甲微の話などが言及されているとのこと。上記の李学勤氏による記事の中で原文が部分的に引用されているので、以下に抜き出しておきます。
「惟王五十年、不瘳、王念日之多鬲(歴)、恐墜宝訓。」
「王若曰、発(武王の名)、……」
「戊子、自靧。己丑、昧爽……」
「昔舜旧作小人、親耕于歴丘、恐求中、自稽厥志、不違于庶万姓之多欲。厥有施于上下遠邇、迺易位邇稽、測陰陽之物,咸順不擾。舜既得中、言不易実変名、身滋備惟允、翼翼不懈、用作三降之。帝堯嘉之、用受厥緒。」
「昔微假中于河、以復有易、有易服厥罪。微無害、迺帰中于河。」
(微由此把「中」)「伝貽子孫、至于成湯」
最後の文は現代中国語による補足を交えて原文を引用している部分です。全体を通して「中」の概念がキーワードになっています。
篇名の『保訓』は元から付いていたタイトルではなく竹簡の整理者が付けたものということで、おそらく最初の文の「恐墜宝訓」という句から採ったのでしょうけど、この「宝訓」が通仮によって「保訓」と読むべきだと判断したのか、(金文などで「保」・「宝」の2字が通用する例がある。)それとも単なるワープロの変換ミスなのかはっきりしません(^^;)
しかし以前紹介されていた『傅説之命』はどうなったんでしょうか。また、昨年こちらの指導教授に聞いた話では『尚書』の逸篇とされる書に『×公之預命』(「×」は現段階で隷定出来ない字)なるものが含まれているということでしたが…… まあ、おそらくは今回紹介された『保訓』を含めて『尚書』の逸篇と見られる書が複数存在するということなんでしょうけど。
今回紹介した記事の末尾に『保訓』の図片と釈文は間もなく公開出来るみたいなことが書かれていますが、購入からわずか1年足らずで精華簡全体の図録が出せるとも思えないので、(郭店楚簡や上海博物館蔵戦国楚簡は発見から5年後ぐらいにようやく図録が発行されている。)『文物』などの専門誌に取り敢えず『保訓』だけが紹介されるということなんでしょうね。何にせよ楽しみであります。
李学勤「“清華簡”研究初見成果:解読周文王遺言」
(元記事は4月13日づけの『光明日報』)
内容は周文王の武王に対する遺言で、その中で舜や殷の祖の上甲微の話などが言及されているとのこと。上記の李学勤氏による記事の中で原文が部分的に引用されているので、以下に抜き出しておきます。
「惟王五十年、不瘳、王念日之多鬲(歴)、恐墜宝訓。」
「王若曰、発(武王の名)、……」
「戊子、自靧。己丑、昧爽……」
「昔舜旧作小人、親耕于歴丘、恐求中、自稽厥志、不違于庶万姓之多欲。厥有施于上下遠邇、迺易位邇稽、測陰陽之物,咸順不擾。舜既得中、言不易実変名、身滋備惟允、翼翼不懈、用作三降之。帝堯嘉之、用受厥緒。」
「昔微假中于河、以復有易、有易服厥罪。微無害、迺帰中于河。」
(微由此把「中」)「伝貽子孫、至于成湯」
最後の文は現代中国語による補足を交えて原文を引用している部分です。全体を通して「中」の概念がキーワードになっています。
篇名の『保訓』は元から付いていたタイトルではなく竹簡の整理者が付けたものということで、おそらく最初の文の「恐墜宝訓」という句から採ったのでしょうけど、この「宝訓」が通仮によって「保訓」と読むべきだと判断したのか、(金文などで「保」・「宝」の2字が通用する例がある。)それとも単なるワープロの変換ミスなのかはっきりしません(^^;)
しかし以前紹介されていた『傅説之命』はどうなったんでしょうか。また、昨年こちらの指導教授に聞いた話では『尚書』の逸篇とされる書に『×公之預命』(「×」は現段階で隷定出来ない字)なるものが含まれているということでしたが…… まあ、おそらくは今回紹介された『保訓』を含めて『尚書』の逸篇と見られる書が複数存在するということなんでしょうけど。
今回紹介した記事の末尾に『保訓』の図片と釈文は間もなく公開出来るみたいなことが書かれていますが、購入からわずか1年足らずで精華簡全体の図録が出せるとも思えないので、(郭店楚簡や上海博物館蔵戦国楚簡は発見から5年後ぐらいにようやく図録が発行されている。)『文物』などの専門誌に取り敢えず『保訓』だけが紹介されるということなんでしょうね。何にせよ楽しみであります。
清華簡の尚書系文献については色々です。『金縢』は伝世の『金縢』と同じく説話的な文体ですし、諸侯封建のことを記録した『封許之命』や冊命のことを記録した『摂命』は西周金文の文体と酷似しています。
自分が聞きたかったのは、春秋(と殷代)の漢文は戦国以後の所謂「漢文」とは違っていましたが、新しく見つかった尚書のような文献は古い文体だったのかという事です。
申し訳ありません、どうも話がよくわからないのですが、ひょっとして文言と白話とで、たとえば「日」のことを「太陽」と呼ぶとか、そういう類の話でしょうか?清華簡の『尚書』の逸篇などは文言に属することになると思います。
漢文って二種類ありましたよね?論語とかの古典文言とそれ以前の文体(首が頭で攸が所で惟が是、といえば良いのでしょうか?一般人なのでまともな説明ができなくてすみません。)
その、楚簡の「尚書』の逸篇の文体はやはり古い方なのでしょうか?Pre-classical?
「隹王×年」、「王若曰」などは西周金文と『尚書』の共通の表記ですね。こういった表記があることが『保訓』を『尚書』の逸篇であるとする決め手になったんでしょう。