極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

I am grateful that I can freely write my daily thoughts

日本人の心、吉田松陰

2016-01-09 17:51:57 | 日本文化等

現代に於いて、日本人の心とはを問われたら、答えるのは難しいと思いますが、私達に解り易く日本人の心とも言われる、滅私奉公、無為無私を教えてくれるのは吉田松陰かも知れません。
私達日本人が忘れてはならない先人、日本の国体、本体を熟知していた吉田松陰、戦後、GHQ等により残念ながら吉田松陰を学校で学ぶことは殆ど有りません。

吉田松陰は文政13年(1830年)8月4日、長州藩の下級武士、杉百合之助の2男として萩の松本村に生まれました。
生家は萩城下町を一望できる通称、団子岩と呼ばれる場所にある古い一軒屋、父、杉百合之助は下級武士、農業中心の生活をしている、貧しい暮らしであったと言われています。

松陰には兄、弟、4人の妹がいましたが、父は農作業に兄と松陰を連れて行って、そこで農作業をしながら武士の心得、尊王(天孫降臨の神国思想に 基づき皇室を政治的権威の源泉として尊崇すべきであると説く思想)の精神教えられていったと言われています。松陰には、他家に養子に行き家督を継いでいた吉田大助と玉木文之進という2人の叔父がいました。

吉田大助の養子先、吉田家は長州藩の兵学師範(山鹿流兵学)の家柄、大助に跡継ぎがなく、松陰は幼くして吉田家へ養子になります。まもなく吉田大助が急死してしまった為、松陰は6歳にして吉田家の家督を継ぎ、藩校明倫館の兵学師範になります。松陰の兵学教育にあたったのが山鹿流免許皆伝の玉木文之進です。

玉木文之進は自宅で松下村塾を開いた人物、松陰の教育は、主にこの玉木文之進という叔父によってなされましたが、甘え、妥協を許さない、厳格なものだったと言われています。

玉木文之進の教育により松陰は成長、松陰が11歳になった時、藩主毛利敬親の前で講義をすることになりましたが、松陰は山鹿流、武教全書戦法篇(攻城、守城などの戦法、築城、兵具などの軍事技術を取り扱っている山鹿流兵学の百科全書ともいうべき著作で、軍隊統制法との関連で武士のあるべき姿等を記しています。)を朗々と講じ、講義は藩主をはじめ居並ぶ重臣たちも目を見張るほどのものであったと言われています。その日から松本村に天才ありと大二郎(後の名は松陰)の名は萩城下に知れ渡ったそうです。

松陰は19歳で、玉木文之進らの後見人を離れ、藩校、明倫館(享保3年、1718年に5代藩主吉元が毛利家家臣の子弟教育のために萩城三の丸に建てた藩校)の独立師範(兵学教授)に就任、21歳の時、見聞を広めるために、藩に九州遊学の希望を申し出、10ヶ月の遊学許可が下りることになりました。
教育の原点となった野山獄(萩では牢が区別されており、士分の身分が入る上牢を野山獄、庶民などが入る下牢を、岩倉獄、松陰の獄中生活は1年2カ月)に松陰が投獄されてから1年2か月が経ち、野山獄を出た松陰は藩から自宅謹慎を命じられ、実家の杉家に幽囚(捕らえられて、閉じこめられること。)の身として戻ります。出獄後、松陰は自宅に設けられた幽囚室で、親族、近隣の者を相手に孟子の講義を再開、幽囚室での孟子講義は、単なる解説ではなく、松陰独自の解釈で高い評判となり萩城下に広がっていくこととなりました。

その頃、松陰の叔父、玉木文之進が開いた松下村塾は、近所で塾を営む久保五郎左衛門が名前を引き継いでいました。松陰の幽囚室での講義に久保五郎左衛門が聴くようになると自然と松陰が塾の主となります。
当初は3畳という僅かな幽囚室で行なわれていたものの、受講するものが増え杉家の納屋を塾舎に改修、松下村塾が誕生、その後、松下村塾の存在は萩城下に知れ渡り、萩だけでなく、長州藩全体から才能ある若者達が集うようになりました。松下村塾は、武士や町民など身分の隔てなく塾生を受け入れました。

松陰が松下村塾で塾生たちの指導に当たった期間は、安政3年(1856年)8月~安政5年(1858年)12月までの2年余りです。その期間に、松陰は自分の信念を塾生たちにぶつけ、しかし一方的に教えるのではなく、塾生たちと一緒になって問題を考えていったと言われています。講義は室内のみならず、農作業を共にしながら行なわれるなど、心身両面の鍛錬に重点が置かれたようです。

松陰は学問を、人間とは何かを学ぶことであると言っています。
学者になってはいけない、実行しなければならないとも言い、学んだことを活かし実行に移す大切さを強く説きました。
脱藩、密航を試みるなど、実行に実行を重ねる松陰であったからこそ、若者達の心は強く揺さぶられ、惹き付けられていったと言えると思います。
門下生達は、後に京都で志士として活動した者、明治維新で新政府に関わる者など幕末、明治において大きな活躍を果たすことになりまする・・・久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖等々・・・

門下生達に行動を説く一方で、自ら行動することも止めませんでした。幕府の老中、間部詮勝が朝廷を厳しく取り締まろうとしていると聞き、松陰は激怒し、間部詮勝要撃計画を実行しようと萩に残る塾生に声をかけ要撃隊をつくり、藩には武器・弾薬の提供を願い出て、藩を驚かせたと言われています、この行動が、藩にとって危険なものとして松下村塾の閉鎖を命じられ松下村塾は閉鎖に追い込まれることとなり、松陰は再度、野山獄に入れられることになりました。後、ついに幕府から松陰を江戸に送るようにとの命令が届きました。

安政6年(1859年)5月25日早朝、松陰は野山獄から護送用の籠に入れられ江戸に向かうこととなりました。
松陰が江戸に送られた理由は、安政の大獄(江戸幕府が、尊王攘夷派に対して加えた過酷な弾圧)で獄死した梅田雲浜(小浜藩士・京で活躍した尊皇攘夷の志士、安政の大獄で逮捕者第一号となった人です。)が萩で松陰に会った事を話したためでした。

江戸の評定所(幕府の最高司法裁決機関)が松陰に問いただしたのは、梅田雲浜と話した内容と、京の御所に文書を置いたのではないかという2点で・・・松陰の主張は受け入れられました。松陰は幕府に自分の意見を言う絶好の機会だと捉え、間部詮勝要撃計画をも告白してしまいます。
人間を絶対的に信用し、必ず自分の思いは届くはずだと考えた松陰ゆえの告白でしたが、幕府評定所の役人は予想もしなかった老中暗殺計画に驚愕、この時、松陰の命運は決まった。

評定所の役人の態度から死を覚悟したと言われる松陰は、家族への、永訣の書と門下生達に向けた、留魂録(最後に参考文として載せて起きます。)を伝馬町牢獄で記しています。留魂録は、門下生達によっていくつも複写され、志士たちのバイブルとなっています。

安政6年(1859年)10月27日、評定所から死罪が言い渡されました、吉田松陰30歳という若さでした。死に際しても平静かつ潔い松陰の姿に、首切り役人の山田浅右衛門などは胸を打たれ、その様子を後々まで回顧しました。いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、御苦労様と言って端座しました・・・その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆したと言われています。
維新の先駆者となり、その死を持って門下生達へと強烈に引き継がれた松陰の想い、志は、後の世で大きく花開くことになります。

吉田松陰の心(大和魂)は、心ある志士たちに受け継がれ永遠のものとなりました。今も、日本人の心として色褪せることなく生き続けていると思います。


留魂録
今日、私が死を目前にして落ち着いていられるのは、四季の循環というものを考えたからです。
おそらくあの穀物の四季を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬それを蔵に入れます。

秋や冬になると、人は皆その年働いて実った収穫を喜び、酒などを造って、村は歓声にあふれます。

未だかつて、秋の収穫の時期に、その年の労働が終わるのを哀しむということは、聞いたことがありません。

私は享年30歳。一つも事を成せずに死ぬことは、穀物が未だに穂も出せず、実もつけず枯れていくのにも似ており、惜しむべきことかもしれません。
されども私自身について言えば、これはまた、穂を出し実りを迎えた時であり、何を哀しむことがありましょう。

何故なら人の寿命には定まりがなく、穀物のように決まった四季を経ていくようなものではないからです。

10歳にして死ぬ者は、その10歳の中に自らの四季があります。
20歳には20歳の中に自らの四季があり、30歳には30歳の中に自らの四季があり、50歳や100歳にも、その中に自らの四季があります。
10歳をもって短いとするのは、夏蝉を長寿の霊椿にしようとするようなものです。
100歳をもって長いとするのは、霊椿を夏蝉にしようとするようなものです。
それはどちらも、寿命に達することにはなりません。

私は30歳、四季は己に備わり、また穂を出し、実りを迎えましたが、それが中身の詰まっていない籾なのか、成熟した粟なのか、私には分かりません。
もし、同志のあなた方の中に、私のささやかな真心に応え、それを継ごうという者がいるのなら、それは私のまいた種が絶えずにまた実りを迎えることであって、収穫のあった年にも恥じないものになるでしょう。同志の皆さん、このことをよく考えてください。

吉田松陰・ 雅昭 著、松蔭神社、別冊宝島・吉田松陰と松下村塾等の資料を参考にしています。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする