極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

I am grateful that I can freely write my daily thoughts

アウンサン・スーチーの裏

2015-08-30 14:53:11 | 戦後

ミャンマー(旧ビルマ)と言うと連邦共和国ですが、戦前の一時期イギリスの植民地でした。現在はテイン・セイン大統領(2011年3月30日就任・任期5年)が就任、1948年から1989年までの国名はビルマ連邦、ASEAN加盟国で通貨はチャット、人口5,142万人、首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)です。多民族国家で、人口の6割をビルマ族、他に、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ヤカイン族、シャン族、北東部に中国系のコーカン族などの少数民族がいます。

ミャンマー軍事政権はミャンマー発足以来、日本の2・26事件の将校たちの純粋な思いを参考にした政権作りに邁進してきたと言われています。

昨今は有望な天然ガスが発見されています。ミャンマーは天然ガスに匹敵する、麻薬の原料、けし栽培地でもあります。某国が関与するのはこの2件があるからと言われています。

内外のミャンマー報道等により、多くの政治犯が逮捕され苦しんでいるように思われがちですが、逮捕者の殆んどが国家防御法(国家防御法、第22条には、制限命令若しくは禁止命令に反対する、違反する又は背く行為を行った者は、3年から5年の禁固刑若しくは5000チャットの罰金又は双方の刑罰に処する。)です。

軍事政権と言うと全て悪と思いがちですが、アラブ等々国によっては強い政府でないと統治、統制できない場合も有り、欧米流民主主義が全てではないように思います。最終的には自国民が幸せを享受し、対外的に問題なければ他国が何と言おうと問題ないと思います。軍事政府であっても、自国の法を犯した人を裁判で裁くのは法治国家として当然でしょう。

アウンサン・スーチー氏の場合、国家防御法違反です。本年5月3日に米国人(CIA関係者)が同氏に侵入したことに関し、同人を住居に入れた(幇助・ほうじょ)こと、及び当局に通報しなかったことが同条に規定する制限命令に違反するとして訴追されていました。3年の禁固刑でしたが1、5年の禁固刑に減刑し、更に自宅軟禁と言う形にしています・・・極めて優しい裁判結果です。政治犯の多くの逮捕は報道のようには無いとも言われています。ミャンマーの自国法令違反ばかりです。

アウンサン・スーチー氏の亡くなったご主人マイケル・アリス(1997年に前立腺ガンと診断、その後で末期癌死去)は、MI-6英国情報部の幹部で、普通の夫婦ではないと思うのが正常感覚でしょうし、当然彼女も大きく関与してると言う方が多いようです。現、ミャンマーの裏は英国流の過去の植民地政策の延長のように見えないでもないです。
アンサン・スーチー氏は知ってか知らずか、民主化の名の下に、今後ミャンマーの天然ガス開発、インフラ整備等々、世界銀行、IMF等々が虎視眈々と・・・欧米流の民主化、資本主義化等して、豊富な天然ガス、世界2位の麻薬等の権益を取ろうとする魂胆が一部見え隠れします。世界銀行、IMFの真の姿を理解することは、何故AIIBが出来たかを理解することが出来るかも・・・AIIIBは勿論、現状は完全ではありません。

元夫マイケル・アリスは、アウンサン・スーチー氏のオックスフォード時代の後輩で、表向きはチベット研究家となっているようですが、本当は英国諜報部MIー6の幹部であり、ある確かな意図を持ってアウンサン・スーチー氏に近づいたのは明白であると言われています。
アウンサン・スーチー氏については、軍政府に何十年間も自宅軟禁された可哀想な人、民主化の闘士だと思われがちですが、自宅軟禁と言っても自由に自宅敷地内では反集会等々もできるし、我々が考えるような不自由さは無いようです。

麻薬地帯・・・タイ、ミャンマー、ラオスの3国がメコン川で接する山岳地帯で、ミャンマー東部シャン州に属する、別名ゴールデン・トライアングル(Golden Triangle)と呼ばれ、アフガニスタン・パキスタン・イラン国境付近の黄金の三日月地帯(Golden Crescent)と並ぶ世界最大の麻薬地帯と言われています。アフガニスタンは某国の侵攻以来、C●●の最大の収入源でもあり、生産が大きく増大し、豊富な資金がC●●に入っていると言われています。この潤沢な資金が・・・

少し古いですが、覚醒剤密造地帯UNODC(国連薬物犯罪オフィス)が、ヘリコプターや衛星、村々への調査などで調べたところによると、東南アジアでのけし栽培面積は、昨年に比べ、16%増えているそうです。2006年から見ると、けしの栽培は倍増しているそうです。
(http://info.publicintelligence.net/UNODC-Drugs2011.pdf)

アフガニスタンに次ぐ世界有数のアヘン、ヘロイン(アヘンの中の麻酔作用を持つモルヒネを抽出し、精製したもの)の原料になるけしの生産国であるミャンマーは前年比37%と大きく増えています。ミャンマーでアヘンけしの生産に携わる人口は25万人に達すると言われています。少数民族の紛争地が中心だそうです。北東部のシャン州、そして北部のカチン州といわれています。これらの地域は、某勢力は武力ででも確保したいでしょう。

アウンサン・スーチー氏は英語が堪能なイギリス育ち!驚くべきは軟禁にあったという自宅も、アメリカ大使館の隣りにあると言う不思議さ・・・一説ではMI-6、CIAが深く関わっていると思うのは極自然でしょう。
ビルマ僧侶ウィラトゥは、アウンサン・スーチー氏の支持母体はムスリム(イスラム教徒を意味 するアラビア語)を排除しようとしているミャンマーの僧であり、学生グループのリーダーです。(サフラン色の袈裟を着ています。)

ミャンマーで経済活動をしていながら、イスラム教徒であるということだけの理由で、ミャンマー国籍を与えず、無国籍状態に置かれているロヒンギャ族は、ミャンマーでの民族浄化運動の対象となっております、暴動が起こるたびに犠牲者が多く出ていると言われています。

過去、英紙ガーディアンでは、僧侶ウィラトゥを、ビルマのビンラディンと書いておりビデオ・インタビューも行っているようです。

アウンサン・スーチー氏は、こうした過激な連中からの支持を失いたくないがために、ウィラトゥ一派のロヒンギャに対する虐殺行為を、半ば容認するかのように見てみぬふりを続けているように見えます。アウンサン・スーチーは、「暴力でなく対話」でを口にしますが、我々が思ってるような人物ではないように思える時があります。

我々が、内外の報道から知るミャンマーの実態は、真実とはかなり違っている可能性が大で、騙されないように、自分なりに少し違った角度から見る着意が必要に思います。

近代世界では資源、麻薬等がある地域には必ず・・・は支配し、利権を得ます!

必ず、大規模な資源が見つかる地域には世界銀行、IMF等々が高金利?資金供与・・・殆んどの当事国の国民は貧しい生活を余儀なくされ貧しい国に成り下がります、ごく一部の特権階級を除き・・・
アウンサン・スーチー氏は自国を食い物にする、世界の信用できないリーダーの一人であるように思われないような、国民の幸せを考えた、明確な行動を示すことが今後必要だと思う昨今です。

元ミャンマー大使、山口洋一氏等々の話を一部参考にしています。


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自国益を守り命を捧げた、エクアドル、ハイメ・ロルドス大統領

2015-08-24 10:31:38 | 戦後
エクアドルのハイメ・ロルドス大統領とは・・・飛行機事故で亡くなった大統領位で殆どの人は分からないと思います。

ハイメ・ロルドスは大統領就任後2年経っていなかった1981年5月24日、アンデス山脈のウアイラプンゴ山に大統領専用機が墜落し、死亡したとされています・・・専用機は小型機で、大統領夫妻、国防相夫妻、操縦士を含む軍人4人、女性乗務員1人の計9人(全員)が死亡しました。

南米の国エクアドルでは、長い間アメリカによって操られる傀儡政権の右派の独裁政権が続いてきました、アメリカの支配グループは、この国に深く食い込んでいました。エクアドルの一般国民は貧困の生活をしていました。

1960年代の終わり、アマゾン川流域で石油の大規模な採掘が始められ、エクアドルの利権がらみの支配層は、まんまと国際金融機関の術中に陥っていました。
石油収入が見込めると説得されて、悪●高●世界銀行、IMF等々から膨大な借金をし国中でインフラ等開発をしました。国際的な建設会社(アメリカの大企業、べクテル社等)は、インフラ整備で巨額の大儲けをしました。一般庶民には関係ないインフラが殆どでした。巨額の借金を返済するのはインフラとは縁が無いと言われる一般庶民です。この典型的な借金パターンが世界の貧困国を作っていると言われています。

少しでも貧困国の負担減対策としての一部側面がAIIBにはあると言われていますが、否定的な側面のオンパレード報道ですが、精査する必要はありそうです。

彗星のごとく、ハイメ・ロルドスがエクアドルの指導者として登場しました、彼は大学教授で、30歳代の終わりでカリスマ性があり、大衆の意思を重んじる政治家で、賄賂、利権には屈しませんでした。
1979年の大統領選挙で初当選、ハイメ・ロルドスは、現状と闘うことを恐れない、自国益、国民益を目指す、稀に見る政治家で、欧米諸国にしては支配が難しい人物で民族主義者であるハイメ・ロルドスは絶対に許せない人物でしょう。

ハイメ・ロルドスはアメリカ資本の石油会社を糾弾し、アメリカに本部を持つ福音派の伝道団SILが石油会社と共謀していると告発しました。
SILは、石油が埋蔵されている可能性が高いと地震学者が報告すると、そこへやって来て、住民に伝道組織の居留地に行けば、豊かな生活ができると勧めていました。
(地震を分析すると、地中に何があるかが分かります。実は、地震学者の多くは、地中の資源を分析するのを主にしている。)

SILは、住民を居留地に移住させるために、様々な手段を使いました。SILは、ロックフェラー財団から資金を得ており、ハイメ・ロルドスは、SILは、土地を奪い石油開発をするための隠れ蓑だと主張しました。
ハイメ・ロスドスは、過去のエクアドル傀儡政権と違い、自国の運命を決める権利は、自分たちの手にあると考える愛国主義者でした。内政不干渉原則を超える国際人権規範制定を働き掛けるなど進歩主義外交を展開し、米政府と対立していました。ニカラグアのサンディニスタ政権とも友好関係を維持していたましが、81年1月就任した極右のロナルド・レーガン米大統領は、ニカラグアに反革命のゲリラ戦を仕掛け、ニカラグアは80年代いっぱい内戦の巷と化しました。


カーターが米大統領だった事が幸いしました。カーター大統領は、石油企業の圧力にも関わらず、干渉を控えました。他の政権だったら、そうはいかなかっただろうと言われています。
ハイメ・ロルドスは、テキサコ社などの石油会社と、対等の関係になれるように交渉を始めた。

1980年11月に、レーガンが大統領選挙でカーターに勝利しました。
石油依存を軽減しようと心を砕いていたカーターから、あらゆる石油を管理下に置くことを目指すレーガン大統領に代わりました。
有名な話として、カーター大統領はホワイトハウスの屋根にソーラーパネルを設置していたが、レーガン大統領は就任と同時にそれを撤去させました。
振り返ってみれば、カーターはアメリカの理想を取り戻そうとした、愛国的な異例な大統領だったようです。
対してレーガン大統領は、アメリカの支配グループの・・・と言えると思います。一見すると彼に仕えているようでありながら実は政府を動かしている人々(副大統領のブッシュ、補佐官等々・・・)が大統領をコントロールしてると言われており、大統領は操り人形だと言われています。これらは世界の常識だといわれて言われています。

1981年初めに、ハイメ・ロルドスは国会に石油や天然ガスに関わる法案を提出したしました。これが施行されれば、国と石油会社の関係を改めることになります。石油会社は、予想通りの反応を示しました。

アメリカでロビー活動をし、ハイメ・ロルドスをカストロの再来のように色づけしました。しかしロルドスは屈せず、SILの締め出しを命じました。そして全ての外国企業に対して、エクアドル国民のためになる計画を実行しない限り、この国から追い出すと警告しました・・・
1981年5月24日に、ハイメ・ロルドスは飛行機爆発事故で落命しました。当然殺害と言われています。

次期エクアドル大統領の座は、傀儡政権とも言われるオズバルト・ウルタドが継ぎました。彼はSILと石油会社を復活させ、テキサコ社などによる石油開発の計画を許可しました・・・
世界中の愛国者、民族主義者等々がことごとく過去殺害されています、何故殺害されるか・・・

参考文献等
(Conscience of an Economic Hit Man)
「エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ」ジョン・パーキンス/古草秀子〈ふるくさ・ひでこ〉訳(東洋経済新報社、2007年)
是非、エコノミック・ヒットマンでネット上で簡単にヒットすると思います、信憑性は高いと思います。

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朝食は有害か?

2015-08-22 12:16:02 | 健康等々
人間は古来食事は一日2食でした。日本では江戸時代中期までは一日2食で、後期から武家が一日3食にし始め、一般庶民は明治時代から一日3食になったようで、日本人が一日3食を摂るようになったのは僅か100年前からです。

決定的に大きな影響を与えたのは、発明王エジソンが、パン焼き用コースターを発明し、売り上げを上げる為「朝食を取ろうとPR」した結果多くの人達が、朝食を取る様になったと言われています。結果、生活習慣病の激増を生み出したようです。

昨今の学校等では、朝ごはんを食べた子と食べなかった子では、集中力に差が表れ、毎日朝ごはんを食べている子は、毎日食べていない子に比べて成績が良いというデータを示し、必ず朝ごはんを食べるように指導してるようです。農林水産省も同様の指導をしていますが・・・精査する必要はありそうです。

胃に食べ物がない状態のほうが脳はよく働くとの研究結果もあり、朝食を摂ることが成績向上につながるとは怪しいような気がします。

科学的には空腹時の方が集中力が高まると実証されています。お腹に食べ物が入っているときは、消化活動のために身体中の血液や神経の働きが内臓に 集中してしまうため、脳の働きが衰えると言われています。そのため、満腹になると眠気に襲われることがありますが、それは内臓に身体の働きを集中させるためで、食べることはかえって集中力の妨害に繋がると言われています。

朝は胃腸がまだ十分に未覚醒で、そこへ無理に食物を詰め込むことは負担が大きく当然十分に消化されない。無理して朝食を摂り続けると、胃酸の出が悪くなり、胃を弱める可能性があります。朝食を摂る場合でも、起きてから数時間空けることが望ましいと思うべきでしょう。

一例として、飢餓の人体は病体のタンパク質をエネルギー源として消化していると言われ、結果的に破壊せしめるという自己融解現象が発生するそうです。簡単に言えば、空腹時間を確保、飢餓状態が免疫力が向上する・・・長寿遺伝子、抗老化遺伝子と呼ばれるサーチュイン遺伝子は、飢餓状態の時に活性化し延命効果を生むそうです。
 
空腹は、内臓を休める時間、内蔵は消化活動をしていない時には体の機能を高める働きに力を使うと考えられており、数日絶食すると、血色が良くなり、肌にツヤが出てくるようです。逆に、夜寝る直前に食事をした場合など、寝ている間にも内臓が働き続けるため、朝起きたときには何となく体が重いように感じます。

人体の原理原則に基ずく理想的な日常生活・・・米国のナチュラル・ハイジーン運動そのものは古いですが、生活習慣病等克服の為1980年代から米国で本格的に運動が始まったと言われています。

一日の体のサイクルは、8時間毎に3つに分かれます。
AM4時~正午   排泄のサイクル(体内の老廃物と食物カスの排出の時間帯)
正午~PM8時   摂取と消化のサイクル(食べることと消化の時間帯)
PM8時~AM4時   吸収と利用のサイクル(からだへの同化の時間帯)え
「つまり食事は、正午からPM8時」までの間ということです。
一例として、朝、フルーツだけをを食べることで、極めて排泄をスムーズに行うことができます。

この運動の結果は、医療機関にとっては患者の減少を意味し経営難を起こす可能性があり、残念ながら日本で報道されることは全くありませんでした。
驚異的なのは、過去、米国の生活習慣病等のがん等が50%削減したと言われており、明確に朝食等々の取り方等々を教えています。

理想的な食事は・・・朝に起床・・・朝食は摂らずに12時頃以降に昼食を摂り、夕食は20時以降は摂らないと言うサイクルが最も理想的で健康的です!仕事の都合で夜が遅い、接待などで夕食や飲み会があるという人も、そのような場合、朝食時間は果物、野菜ジュース等に限定する!なるべく肉など胃にもたれるものは遅い時間帯に食べないようにし、寝るまでの時間を確保するようにしたら、かなり生活習慣病が減ると思います、言うは簡単ですが・・・やはり果物、野菜が人体にいいのは事実のようです。

 胃腸が弱い人、便通に悩んでいる人、寝起きが悪い人など、体調不良に悩んでいる人は、一度騙されたと思って朝食の回数を減らしてみてはどうでしょうか・・・夜寝る前の数時間と、朝起きてからの数時間を食べないようにする・・・驚くほど体の調子がよくなり、特に内臓の機能が高まるのを体験できると思います!

お勧めの本!
朝食有害説(一日二食)で健康に生きる:渡辺正、情報センター出版局
生活習慣病に克つ新常識―まずは朝食を抜く!:小山内博、新潮社
栄養学常識のウソを突く―長生きしたければ朝食は抜きなさい:著:東茂由、監修:甲田光雄、                                    河出書房新社
朝食を抜くと、なぜ健康になるのか:松井二郎、サンマーク出版
朝食を抜くと健康になる:石原結實、PHP研究所
豊田美里、管理栄養士、フードコーディネーター
米国、ナチュラル・ハイジーン運動
等々を参考にしています。

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一番いじめを受けるのは、心優しい子供

2015-08-16 18:37:15 | 日本社会
後を絶たないいじめ問題、表面に現れるのは氷山の一部だと言われており、多くの心優しい子供達が理不尽な暗い学校生活を送っていると言われています。登校拒否等々の根底にはいじめ問題があるように思えます。
いじめを受けるのは、本当に心やさしい、真面目な子供達が多いと言われていますし、我々大人にとっても、到底許すことは出来ません!

人間の世界は社会等があり、弱肉強食の暮らしている人はほとんどいません。人間には攻撃本能をコントロールするための共存能力があると思います。このコントロール能力が十分に身についていない子供は、弱い立場、優しい人等を攻撃することで、自分自身を守るいじめ行為?を止められないと思います。

いじめ問題が大きく社会問題化するようになったのは、戦後の昨今のように思えます。いじめ問題が昔は無かったかと言うと当然あったでしょうが、旨く処理してるように思えます・・・やはりいじめ問題の根底は、道徳規範、教育等に行き着くと思います。

昔は道徳規範等が明確で、理屈、理論でいじめ問題を考えると言う馬鹿げたことは無かったように思えます。

平成26年10月21日、道徳教育の改善策を議論してきた文部科学省の中央教育審議会(中教審)は、道徳を必修教科にして検定教科書を使って指導するという内容の報告をまとめ、下村文部科学大臣に提出しています。

なぜ道徳を必修教科に・・・滋賀県大津市の中学生がいじめを受けていたのを苦に自殺したことから、いじめの未然防止策の一つとして、安倍総理直属の教育再生実行会議(実行会議)が提言したと言われており、むしろ遅かったくらいに思えます、本当に良策と思えます。

いじめの問題は、人としての生き方・在り方にかかわる問題であると思えます。子どもたちの規範意識や豊かな人間性を育んでいくために何が必要か・・・下村博文文部科学相は成績評価にはなじまないとしながらも国として、どこでも使える教材をつくりたいと述べています。

全国統一の教材で授業を行い、それに基づいた尺度で規範意識を測る・・・いじめの未然防止策の一つとして安倍総理直属の教育再生実行会議(実行会議)が提言したものです。これを受けて、文部科学省の専門家会議(道徳教育の充実に関する懇談会)は、子どもたちがこれからの時代を生き抜くためには道徳教育の充実が必要だとして、道徳を「特別の教科 道徳」(仮称)に格上げして、検定教科書を使って授業をし、記述式で成績をつけるべきだとする報告をまとめています。やはり諸教育を実施したら教育成果を確認するのは当たり前でしょう。

蜂の巣をつついた様に賛否両論が出てるようですが、道徳規範等を作り、素直に良いこと、悪いことを子供達に分かりやすく教え、身につけさせることは極自然でしょう。
昨今のお粗末ないじめ問題対応・・・理屈、理論で対応、処置は極めて難しいでしょう。

戦後、GHQは教育勅語、修身等は禁止しました・・・日本は貧しい時期でしたが、いじめはいつの時代にも存在したようですが、当事は十分とは言えませんがそれなりに克服しています、何故でしょう・・・当事の先生、親等々は教育勅語、修身等を自分自身が身につけており、子供達にそれなりの対応が出来たからと思います。特に戦後、当時の学校現場の先生方がいなくなった時期から、いじめが少しずつ増加してるように思えます。

過去の雑誌、雑誌歴史街道の中で、渡部昇一氏の論があり、ある校長先生のコメントが紹介されていました。
非行に走る子供たちでも、その親が教育勅語を学んでいた世代は、行いを改めさせることは、そう難しいことではありませんでした。ところが、親も教育勅語を知らない世代になると、なかなか手も足も出ません

いじめ問題・・・親、教師が道徳的な拠り所を持っていなければ根本解決は難しいでしょう・・・ここでいう道徳は、現代でいうところの宗教的真理から逃れて、同時に何らかの精神的なものを教えるための、アリバイとしての浅薄な記号・道徳ではありません。戦前、戦中、我々が心のより所としていた教育勅語等・・・教育勅語といえば、軍国主義、右翼等々条件反射的にマイナスのイメージがあるようです。

教育勅語は明治天皇の意向で作られました、教育勅語の骨子を作ったのは井上毅と言われています。井上毅は日本の古代からの歴史を踏まえ、原案を作りました。特に特定の宗教、思想、信条、特定の政治団体を排除しない、全国民が受け入れられるものにしようとしました。
井上毅以外にも原案が作られましたが、キリスト教色が強すぎたり、儒教の色が強すぎたりして、井上毅がそれらの綜合を試みました。

井上毅は、本当に普遍性を求めています。古代社会、貴族社会、武家社会、近代国家でも通用する普遍性を求め、現代社会でも十分通用すると言えますし、世界でも憲法草案、道徳教育等々の参考にされていると言われています。

天皇が、国民に向けて届けたいわば「手紙」みたいなものが教育勅語です。戦争の時に、軍人に利用されたという面はあったかもしれません。
国を治める政治家は、徳をもって仏神の心、そして国民の心を鏡に映す。
そして、教育においては、普遍的な宗教心を教える必要があると言われています。

井上毅が求めたように、特定の宗教、宗派を排除するものでなく、普遍性、つまり世界人類にも通用する普遍性をもった宗教心を教える必要がある・・・正しい宗教心の復活なくして「いじめ問題」の根本的解決は難しいと思われます。

教育勅語現代語訳 

私が思うには、我が皇室の先祖が国を始められたのは、はるかに遠い昔のことで、代々築かれてきた徳は深く厚いものでした。

我が国民は忠義と孝行を尽くし、全国民が心を一つにして、世々にわたって立派な行いをしてきたことは、わが国のすぐれたところであり、教育の根源もまたそこにあります。

あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は仲むつまじく、友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、徳と才能を磨き上げ、進んで公共の利益や世間の務めに尽力し、いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい。

もし危急の事態が生じたら、正義心から勇気を持って公のために奉仕し、それによって永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい。

これらのことは、単にあなた方が忠義心あつく善良な国民であるということだけではなく、あなた方の祖先が残した良い風習を褒め称えることでもあります。

このような道は、実にわが皇室の祖先が残された教訓であり、その子孫と国民が共に守っていかねばならぬことで、昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理です。

私はあなた方国民と共にこの教えを胸中に銘記して守り、皆一致して立派な行いをしてゆくことを切に願っています。

明治二十三年十月三十日
天皇の署名と印  

 有名な話ですが・・・戦後、連合国側は日本統治に何が一番の有効策であるかを話合われた際、中国共産党は「日本の教育(道徳)を支配、関与する」ことと述べています。以後GHQ策は・・・支配側は、道徳心が高ければ高いほど支配が難しくなります。戦後GHQのこれらの諸策は、いじめの発生等を間違いなく助長させたように思いますし、副産物のように思えます。

日本には世界に誇る、教育勅語、修身等々素晴らしい財産があります。世界の国々は間違いなく有効活用して国作りをしています。我々日本人は先ずは一読することを!
世界の多くの国々が、何故現在も有効活用しているか・・・!

子供達への道徳教育無くして日本の未来は無いでしょうし、いじめ問題も根底は道徳心の欠如に他ならないでしょう、道徳教育は未来の日本再生の為にも必要不可欠と思える昨今です。

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激動の戦前、日米文化交流、友好に生涯を掛けた杉本鉞子(すぎもと えつこ)

2015-08-12 11:21:51 | 日米
杉本 鉞子(すぎもと えつこ、明治6年~-昭和25年)英語による著書、A Daughter of the Samurai(武士の娘)により、アメリカでの日本人初のベストセラー作家、コロンビア大学初の日本人講師でもあります。戦前、戦中の激動の中、日米の真の文化交流、友好等々を目指した日本女性と言えると思います。

激動の明治維新期に越後の家老の家に生まれ、武士の家系で厳格な躾を受けて育った杉本鉞子(えつこ)は、文明開化の東京でのアメリカの異文化との出会い・・・渡米・・・英文の自伝、武士の娘(A daughter of bushi)を著し、真の日米文化交流、友好の懸け橋の役割を果たしました。
新渡戸稲造の武士道同様、大変なヒットとなり多くの欧米人に、武士の娘としての日本女性の生き方を分かり易く書き上げ、大変感銘を与えました。残念ながら日本ではあまり知られることは少なかったようです。

杉本鉞子(えつこ)・・・金太郎のかつぐ鉞(まさかり)の如(ごと)く強い娘になってほしい為につけられた名前です。在米の日本人と婚約、英語を学ぶため14歳で上京し、ミッション・スクールの海岸女学校(青山学院の前身)と英和女学院で4年間英語を学び、渡米前は浅草の小学校で准教員をしていました。明治31年結婚のため渡米しました。

運命の出会いは、日本滞在経験のあるウィルソン家の姪、フローレンス・・・
フローレンスは、鉞子(えつこ)が新婚時代、ニューヨークのウィルソン家に同居しており、鉞子のアメリカ生活等を影で支えた女性です。鉞子が娘たちと日本に一時帰国していた際も来日して同居していました。著書、武士の娘の執筆を影で支えた人ですが、彼女自身、表に出ることはありませんでした。

鉞子(えつこ)は武士の娘の共著者としてフローレンスの名を入れることを望んだが、排日運動等々の只中にあったことなどから、フローレンスの希望により名を伏せられたと言われています。(没後に鉞子が公表しました。)

1920年にはコロンビア大学から日本に関する講座を打診されました・・・日本領事館から領事官に譲るよう迫られたため、辞退しようとしたが、フローレンスのアドバイスで引き受けることにし、7年間日本語と日本文化の講座を持ち、日米文化、友好の橋渡しとなりました、着物姿の先生として多くの生徒達からも慕われました。

当事フローレンスの勧めでニューヨークで暮らしながら、原稿料を目当てに新聞・雑誌に投稿を続けていました。
作家のクリストファー・モーレー(Christopher Morley)の目に留まり、彼の勧めにより日本の生活を紹介したA Daughter of the Samuraiが雑誌Asiaに1923年12月から翌1924年12月まで連載されました。

著書武士の娘は、上記の集大成版と言うことが出来ると思います。日本という見知らぬ国の文化を知る異国趣味の分かり易い読み物として・・・簡単に言えば、キリスト教と西洋文化によって覚醒していくと言うアメリカ人好みのストーリーが受け、連載終了後の大正14年にダブルデー・ドーラン社から出版されて人気を博し、ドイツ語、フランス語など7か国語に翻訳出版されました。

繊細な日本文化等々を、武士の娘としての体験を通じた文構成・・・女の子は「きの字」の形に体を曲げて就寝することや、手習いの師の前では不動の正座であること、など幼少女期に受けたしつけや見聞を分かり易くつづった文です。
有名なアインシュタイン等々らは大変感動し、愛読していたと言われています。
日本文化論、菊と刀の著者ベネディクトは、本書に触発されて日本研究に励んだと言われています。わが国で知られるようになったのはごく近年です。

 日本語版、武士の娘が邦訳出版されたのは、戦時下の昭和18年です、特に序文の翻訳に大変気兼をして翻訳しています、当事は鬼畜米英ですから、序文はかなり原文と違っています・・・武士の娘は、当事の敵国である米国に大変称賛され、終戦直後、多くの米国人、軍人等が本人を訪ねたと言われております。

心から日米の文化交流、友好を願った、杉本鉞子(えつこ)、フローレンス・・・フローレンスも日本で没しました、永遠の日米の文化交流、友好を信じて・・・

8月11日、NHK・BSのドキュメンタリーで「武士の娘」が放映されました、大変分かり易く感動する内容です。再放送があるかも知れません。

書店でも、武士の娘は容易に購入できます。是非一読を!

Japan On the Globe(618) 、 国際派日本人養成講座
ウィキペデア等々を参考にしています。


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満州国皇帝溥儀と東京裁判

2015-08-11 19:30:08 | 戦後
    
 満州国は・・・最後はソ連の侵攻により崩壊しました。その際、何十万人もの多くの日本人が虐殺、暴行等々されたり、シベリアへ強制連行されて日本に帰ることなく多くの日本人が亡くなっています。
 
満州は現在は中国東北部とされ、中国に編入されています。満州は元々中国の領土ではありません。歴史的には満州人が住んできた土地です。
満州国を文献等々で調べると、巨額の利権を得た一部の人達、強権力で支配等々も事実でしょう、現代の基準から見たら理不尽さが散見されるでしょう。
多くの日本人は満州国の未来を信じていたことも間違いない事実だと思います。
 
当事、満州の地は、匪賊(ひぞく)といって強盗ばかり出る荒れ果てた所と言われており、多くの住民は苦しんでいました。国家としての体をなしていなかったようです。日本はその匪賊を追い出して、そこに大陸で初めての近代的国家を建国しました、それが満州国と言うことが出来ると言えます。

満州国皇帝は、溥儀ですが日本の天皇と同じく、政治の大権は保持していませんでした。 国家の最高権威としてのみ存在、政治権力は内閣に委ねるという形がとられていました。満州国の住民は、満州国皇帝によって「おおみたから」とされました。満州国は日本と同じ統治の方法を取り入れたと言われています。これによって満州に住む全ての民衆は、政治権力者と人として対等な存在となりました。人間としての尊厳を誰もが認められるという体制になったのです。

高いレベルの教育、高度に成長した経済によって、人々は、家に鍵などかけなくても、誰も泥棒になんて入らない、日本と同じように安心し、安全に暮らせる国家を築いていました。

溥儀は中国の清朝の皇帝でしたが、清朝が滅亡したので、その後、満州国の皇帝として迎えられました。溥儀自身も、心から満州国の皇帝となることを望んでいました。

溥儀の家庭教師としていつも溥儀のそばにいたのは側近中の側近イギリス人、レジナルド・F・ジョンストンと言う人です。溥儀の厚い信頼を受けた人です。
ジョンストンは後に、紫禁城の黄昏という名著を書きました。この本には、満州国がいかにして成立したか、ということが詳しく書かれています。
皇帝・溥儀が満州に行ったのは日本に強制されたものではなく、自由意志であったことが書かれております。本当に心から喜んで満州国の皇帝になったということが書かれています。日本人の中には、溥儀は強制的に満州に連れて行かれたと言う方が多いように思います。
 
満州国は、日本が膨大な資金等を投じて国造りを指導した国です、五族協和のスローガンをかかげて、五つの民族、日本人、満州人、朝鮮人、蒙古人、支那人が協力しながら、国造りをしていました・・・勿論日本の国益を最優先に考えていたでしょう。中には共産主義がいやでソ連を抜け出したロシア人たちもいたと言われています。満州国には満州鉄道というのがあって、有名な特急アジア号というのが走っていましたが、そこではロシア人女性のウェイトレスなどが働いていたそうで当事の写真に載っています。
 
満州国は毎年大発展して、年間100万人もの人々が周辺諸国からなだれ込んできました。満州国がひどい国であったなら、そんなにたくさんの人々が先を争って入ってくるはずがないでしょう。
周辺の国々よりもはるかにいい国であったから、沢山の人々が人種差別が比較的少ない、新天地と豊かな生活を求めてなだれ込んで来たと思います。
もし満州国が今日残っていたら、大発展していたでしょう。

日本の敗戦と同時に、満州国はソ連の侵攻を受け、つぶされてしまいました。その時皇帝、溥儀は日本に亡命しようと計画しましたが、日本行きの飛行機に乗る寸前、つかまってしまい、ソ連に連行されました。溥儀は、ソ連でかなりの脅迫を受けたといわれています。
 戦後、日本を裁くための東京裁判が開かれて、そこに溥儀も証人として出廷させられました。
溥儀は、自分は日本軍(関東軍)に無理矢理強制されて皇帝にかつぎあげられたのだと嘘の証言・・・しかも、在任中は自由な手も口もないロボット同然だった証言・・・このために、関係する日本側の被告人たちの多くが有罪になってしまいました。

溥儀のこの東京裁判証言は後世の日本に大きな影響を与えたと思います。日本人の自虐史観を助長する結果にもなったと思います。
東京裁判から18年後、北京で出版された自伝、わが前半生の中で、溥儀は、私は戦争犯罪人になるのを恐れて偽証したと告白しています。命が惜しくてウソをついた。彼はソ連に脅迫され、また中国からは国賊として追求されることを恐れての偽証でした。一般人が命が惜しくてウソを言う気持ちは解らないでもないですが・・・勇気を持って正直に証言していたら、後世溥儀、身内等々に対する見方は大きく変わっていたと思います。

日本にとって大きな問題は、そのために日本が満州国をつくったのは全て悪だったという主張が、戦後まかり通ってしまって、現在も多くの国、日本人等々に信じられています。これらの事実は現在も国内で報じられることは少ないようです。
旧満州国皇帝、溥儀が東京裁判で真実の証言をしていたら満州国に対する世界、日本の見方は違っていたでしょう。溥儀の18年後の真相告白では余りに遅すぎます・・・

レジナルド・F・ジョンストン著「紫禁城の黄昏」、正しい日本の歴史(プログ)等々を参考にしています、一部意味不明の文があるかもしれませんが、プログと言うことで・・・






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靖国神社に想う・・・世界各国の追悼施設

2015-08-07 17:49:29 | 戦後
ハワイのホノルル市の北側に、パンチボールというホノルル市街を一望できる観光スポットの見晴らしがいい小高い場所があります。
この一帯は綺麗な芝生で国立墓地になっており、今でも軍関係者OB等が死亡後希望すれば埋葬することが出来るようです、時々小規模埋葬の儀式(10人程度の、小銃携行州兵等)を観光客でも見ることができます。
 米国では軍人等々が亡くなった場合、国立墓地に埋葬することは自然なことであります、例え理不尽な戦争であっても・・・国のために命を捧げた軍人に対しては、世界中どこの国でも国民は敬意を払います、極、極当たり前のことです。

国のために戦って散った人々を、我々に身近な国々は国家としてどう追悼しているのか・・・
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 米国の場合・・・
主として戦没軍人や退役軍人を埋葬する国立墓地がアーリントン墓地(ワシントン近郊) はじめ134カ所あり、21万人以上が永眠しているほか、新たに6カ所の建設が進められているようです。

戦没・退役軍人の埋葬にあたっては、希望により国が墓石や、軍の礼葬を無償で提供することが法律で定められており、戦没者や軍人に敬意を払う姿勢を明確に打ち出しています。

 19世紀の南北戦争を機に制度化された国立墓地の多くは復員軍人省が管理、ただ古戦場など国立公園地域にあるものは内務省国立公園局が、アーリントン墓地は陸軍が管理しているようです。他に米戦蹟委員会が管理する外国所在の墓地24カ所や、各州政府の軍人用墓地も存在するようです。国立墓地では特定の宗教は採用していません。

 戦没者はもちろん、軍隊経験者やその家族は原則的に埋葬資格を持つが、アーリントン墓地に関しては資格が若干、厳しいと言われています。
5月末の「戦没将兵記念日(メモリアル・デー)」や、11月の「復員軍人記念日(ベテランズ・デー)」には大統領や閣僚がアーリントン墓地へ赴き、戦没者らをたたえる演説や「無名戦士の墓」への献花を行います。外国元首らが米国訪問のさいにはここを訪れ、戦没者に敬意を払うことも通例になっています。              

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ドイツ(敗戦国)の場合
ドイツの場合は複雑な事情があります・・・国内に1万2千ヶ所の戦没者墓地があると言われています。
これらの墓地には、第2次大戦だけでなく第一次大戦の戦没者も含め約180万人が埋葬されているようです。
ニュルンベルク裁判で死刑判決を受けたナチス戦犯12名の遺体は焼却され灰は川に流されたと言われています。その他の多くのナチス関係者は戦没者墓地に葬られています。

ドイツでは、第一次大戦後にドイツ戦没者墓地維持同盟が発足し、国内だけでなく欧州など100カ国にあるドイツ人戦没者墓地の世話を行っていると言われています。費用は連邦政府の補助、寄付、会費でまかなわれているようです。
同盟は、クリスマスの準備期間にあたる待降節前の日曜日の、戦争と暴力の犠牲者を悼む日をベルリンの中央式典のほか州や市町村で慰霊式を主催しているようです。

コール前首相は、1993年に公式訪問が出来る中央施設に旧東ドイツの目抜き通りにあるノイエ・ワッへを選び、戦死者とホロコースト犠牲者の双方を悼む国家的な慰霊施設づくりを目指しました。しかし、ユダヤ人団体などは加害者と被害者を一緒にはできないと反発、その結果、1999年にシュレーダー政権は、国の慰霊碑の一つとして別にベルリン中心部にホロコースト犠牲者の碑をつくることを決めました。

これらの施設は1993年当初は連邦内務省、その後、連邦首相府文化担当国務大臣の管理、実際の管理業務はドイツ歴史博物館に委託しているようです。 宗教性は有りません。
追悼対象は、戦争と暴力支配のすべての罪なくして犠牲になった者、ドイツの国家権力が不正を働いたことによる犠牲者を追悼することとしています。
特定個人を対象とはしておらず、軍人・民間人の別、国籍・宗教の別、地域的な限定はないようです。
哀悼の日(11月14日)には、大統領が戦没者慰霊の中央会場としての役割のあるノイエ・ワッへに献花、連邦軍代表とユダヤ人団体代表は、ベルリンのユダヤ人墓地に献花しています。
現在はノイエ・ワッヘ、ベルリンのユダヤ人墓地2ヶ所・・・国内と1万2千ヶ所の国内戦没者墓地にて慰霊しているようです。

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イタリア(敗戦国)の場合・・・
戦没者慰霊碑はローマ市内の「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2 世記念堂」のヴェネツィア広場を見下ろすカピトリーノの丘の斜面に位置しています。
記念堂全体は文化省のローマ環境財建築物保護局管理となっていますが、祭壇部分は国防省( 軍) が管理しているようです。外国籍以外のイタリア軍人、民間人の戦没者も含めて追悼する施設です。宗教色の無い施設と言うことが言えます。
祭壇には常時衛兵が立っています。年数回大統領主催の追悼式がありようです。

 英国の場合・・・
11月11日の「休戦記念日」に最も近い日曜日「英霊記念日曜日」に、各地で第一次、第二次世界大戦などの戦没者の霊を慰める特別ミサや、多数の国民が参加しての戦没者慰霊祭が行われるようです。中核はロンドン市内にある戦没者記念碑「セノターフ」で行われる国家による慰霊祭です、日本でいえば法務省、最高裁、議会(上院)を管轄する官庁「大法官」省が、慰霊祭を所管、厳かに国歌が流れ、参列者の一部が花輪を供えるのが慣例だそうです。
 
 招待されるのは女王をはじめ王室、首相を含む全閣僚、主要政党の党首、北アイルランド、スコットランド、ウェールズの各自治政府首相、陸海軍代表、各宗教界代表等、この日曜日は通称「ケシの日」と呼ばれ、多くの国民が一週間ほど前から両大戦の戦没者を慰霊するため、造花の赤いケシの花を胸に飾るそうです。第一次大戦の対独戦の激戦地、フランダース地方の麦畑に、ケシの花が咲いていたことにちなんだと言われています。一方、英外務省によると、外国公賓は希望すれば、英霊記念日曜日とは別に、ロンドン市内のウェストミンスター寺院の無名戦士の墓で公式献花が可能だそうです。天皇・皇后両陛下は1998年5月の公式訪英の時献花されています。                       

11月11日に最も近い日曜日が戦没者追悼記念日になり、全国各地の教会や自治体で追悼行事が行われる。11月11日は第1次世界大戦の終戦日(1918年)、記念日には女王陛下をはじめ、イギリスの指導者達がロンドンの官庁街、ホワイトホール通りに建つ戦没者記念碑(セノタフ;The Cenotafe)に赤いポピー(ひなげし)の花輪を献花するそうです。 
 記念碑の建立は1920年11月11日、第1次大戦から第2次大戦、フォークランド戦争にいたるまでの戦死者がまつられているようです。また、この時期は街行く人だけでなく、テレビのアナウンサーまでもがポピーを身に着けて戦没者を悼むようです。ポピー(赤)の花ことばは「慰め」となっている文献が多いようです。

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 フランスの場合・・・
戦争犠牲者の碑は各地にあるが、最も知られているのがパリ・シャンゼリゼ大通りにある凱旋門の下の無名戦士の墓、国家元首で三軍の長でもある大統領が第一次大戦の休戦記念日の11月11日、第二次大戦の戦勝記念日(ドイツ軍が降伏した日)の5月8日に参拝して献花します。式典には大統領のほかに首相、国防相、在郷軍人担当閣外相、参謀総長をはじめ在郷軍人代表なども出席します。無名戦士の墓が凱旋門の下に設立されることが決まったのは第一次大戦後の1920年。約150万人もの戦死者を出したため、戦後、記念碑を設立するべきだとの提案が出され、国民議会が全会一致で、全犠牲者の象徴として身元不明の兵士一人の遺骸を埋葬することを決めたといわれています。
 
 第二次大戦の犠牲者の霊をまつった記念碑もパリ郊外モンバレリャンの丘にあるが、凱旋門の無名戦士の墓は第一次大戦のみならず、戦争の犠牲者の象徴的な記念碑となっています。パリ解放後の1944年11月11日、ドゴール将軍と並んで同盟国の英国のチャーチル首相(当時)が花輪を捧げたが、外国元首も公式訪問のさいに戦争の犠牲者の霊を慰めると同時に平和を祈願するために献花する慣習もある。天皇陛下が1994年、公式訪問したときも献花されています。

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 中国の場合・・・
戦没者らに対する国家レベルの追悼は、北京・天安門広場の中心にある人民英雄記念碑で行われるようです。
中国近代史の幕開けとなったアヘン戦争(1840年~42年)から、中国共産党が政権を樹立した1949年までの革命で犠牲となった人民英雄をたたえる墓碑ではなく、人民英雄の千古不朽の勲功を顕彰し、革命の先達に対する全国人民の敬意と思いを致す心情を表すとの顕彰碑としているようです。
高さ約38メートルの巨大な石碑で基壇は東西50メートル、南北60メートル、1958年完成です。
石碑正面に刻まれた「人民英雄永垂不朽」の文字は毛沢東の揮毫であり、碑の下段には革命の史実をモチーフにしたレリーフが飾られています。

 訪中した元首・首脳クラスの外国要人は、公式日程のなかで記念碑を訪れることが多いようです。
最近の日本首脳の例では、小渕恵三元首相(当時)が1999年7月の訪中で、三軍儀伎兵の見守る中で献花しました。党・政府要人や功労者は、北京西部の八宝山革命公墓に多く埋葬されているようです。                               
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 韓国の場合・・・
国のために亡くなった人々は、ソウル市銅雀区にある国立墓地に埋葬されています。同墓地は1955年に国軍墓地として創設され、65年に現在の名称に変わったといわれています。
朝鮮戦争やベトナム戦争での戦没者のほか、日本による朝鮮半島支配当時の義兵や愛国人士、国の発展に命をささげた人々、朴正煕元大統領ら死去した歴代大統領ら、約16万3千人の墓地です。

国立墓地内には「顕忠塔」と名付けられた慰霊塔があり、ここには朝鮮戦争で亡くなった軍人・兵士11万人が祀られているようです。

 顕忠塔は戦没者慰霊の象徴であり、それぞれの地方にも建立されています。  
韓国では6月6日を国土防衛に命をささげた人の忠誠を記念する「顕忠日」に定めているようです。毎年この日には大統領も参加し、国立墓地の顕忠塔前で慰霊式典が行われるようです。大統領は国民を代表して戦没者らを慰霊するようです。

 海外の要人も、訪韓のさいには国立墓地や顕忠塔を訪れる。国立墓地によれば、これまで世界各国の首脳が訪問しています。ロシアのプーチン大統領が訪韓のさいに訪れ、顕忠塔に花輪を捧げたと言われています。

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ロシアの場合・・・
5月9日が対独戦勝記念日、政府首脳はモスクワのクレムリン脇にある無名戦士の墓に献花を行います。この日は軍事パレードなどが行われます。
ソ連時代は国家的式典といえば、同じクレムリンのレーニン廟で行われていましたが、ソ連崩壊後はこちらが儀式の場となっているようです。
ロシアでは旧ソビエト連邦の時代から、入籍を済ませた新婚カップルが無名戦士の墓に詣でる習慣があります。現在でも、クレムリン脇の無名戦士の墓などでは、ここを訪れる新婚カップルの姿を多く見ることができると言われています。

                         *********************
 
 世界各国、どこの国でも国のため命を捧げた軍人等に対しては敬意をはらうことは極自然なことで、国立戦没者墓苑等に埋葬され、自国民だけでなく他国の人達も敬意をはらいます。日本のように靖国問題で揺れる国は存在しません!日本には宗教の自由がありますが、素直な気持ちで見た場合、日本は歴史的にも神道を主としてきた国であり、靖国神社は緒論あるところですが、日本人の心情等々にあってるように思えます・・・

 海外の一部プログ等々を読むと世界の国々(中国、韓国、日本人の一部以外)は、日本国のため命を捧げた日本の軍人等を靖国神社に奉るのは日本国として極当然と見ています。
靖国問題を海外のニュース記事等を調べてもほとんどヒットしません!中国、韓国、一部の日本人が靖国問題を起こしていると思います。多くの日本人は海外で靖国問題が大きく論じられてるような錯覚を起こしてるように思えますし、信じてる方も多いように思います。

見方によれば、靖国問題は一部の日本人、韓国、中国等を利用し巧妙に対立させ・・・という構図が見え隠れします。 

日本は現代世界でもまれに見る、長い歴史を有する皇室を頂点とする本当に世界でも恵まれた国です、間違いなく世界の国々から羨望されています。これらの原動力は、特に明治維新以降の多くの先人、軍人等々達の努力、犠牲等々で成り立ってることは歴史の事実であり、我々日本人は忘れることは出来ないと思います。

 世界中の国々(日本人の一部、韓国、中国以外)のマスコミ等はほとんど靖国問題を記事にしません!何故なら如何なる理由にしろ、国のために奉じた日本の軍人を靖国神社に奉ることは極々自然なことだからです。

日本の靖国問題は、国が凛とした態度で進めれば事足りるでしょう。隣国、マスコミ等々に惑わされないこと!に尽きると思います。

*****過去の産経新聞記事等々を一部参考にしています。

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