極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

I am grateful that I can freely write my daily thoughts

蛍の光と防人(さきもり)

2017-12-31 13:16:24 | 戦後

以下文は何故、蛍の光3,4番が歌われないかの疑問から記したものです。ウィキペデイア等々を参考にしていますが個人の解釈でもあります。万葉集については解釈が難しく可笑しな文が多々あると思います。雑文とします。

 

今年も残すところ数日となりました。

年末の恒例のNHK紅白歌合戦・・・最後は蛍の光で幕を閉じますが1、2番の歌詞しか歌われません。

蛍の光は3、4番まで歌詞がありますが戦後、この3、4番の歌詞は占領政策等としてGHQ等が好ましくないとの理由で規制したとも言われ、多くの方は蛍の光に3、4番の歌詞があることさえ知りません。現在は残念ながら蛍の光3、4番の歌詞が歌われることはありません。

蛍の光3、4番の歌詞は、私達に男性は国を守る、女性は家を守ることの大切さ等々を歌った、「防人」を送る歌とも言われています。台湾では今でも3・4番の歌詞も歌われることがあるそうです。

防人(さきもり)とは、日本の古代の兵役の一つで、「さきもり」とは「崎守」の意味のことです。

660年、百済(大和朝廷側)が唐・新羅軍に急襲され滅亡、大和朝廷は外交の転換を余儀なくされました。大和朝廷の対朝鮮外交は白村江(日本の敗北)の戦をもって終止符が打たれました。
日本は朝鮮半島から引き上げましたが中国、朝鮮半島から唐等の日本への来襲を予想していたようです。

これらの来襲に備え、約3千人の兵達を筑紫、壱岐、対馬に常駐させました。任期は3年、主に東国(関東地方、東海地方、静岡県から関東平野一帯と甲信地方を指の東海道、東山道地域(青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島の東北6県と、栃木、群馬、長野、岐阜、滋賀の各県を合わせた地域)の農民たちが徴発されたようです。

律令制(主として奈良~平安時代 に施行された律令法に基づき公地公民制を基礎とする中央集権的官僚体制)では21~60才の男子は3年間の防人の軍役につく義務があり、その大半は筑紫地域、大宰府等に配置,筑紫地域の内外の軍事に活用されています。
防人の生活は60日間軍役、他は主に農業生活だったと言われています。
刀、剣、弓箭(きゅうせん・弓と矢)を主とする装備で、弩(弓の反発力を利用した兵器)を中心にした軍事拠点の兵力として用いられたようです。
東国からの防人の補給は難しく停止、復活を繰り返し、826年には選士(奈良・平安時代、大宰府に属し、国防・警備に任じた兵士で富豪の家の子弟から選抜されたようです。)、衛卒(警備を任務とする兵士)制に移行、防人制は無くなりました。

「防人」は出発のとき父、母、妻子らと歌を詠みかわしたり、旅の宴席等に歌を作ったりする伝統があったようです。これらの詩は家族との別れを悲しむ歌、家を思い、家人を恋しく思う歌が多いようです。

戦後、長き時間が過ぎました。蛍の光3・4番の歌詞は現代日本人が忘れてしまった、防人の心を訴えかけているように思います。

 

明治14年、日本で初めての憲法が公布された年です。

国際法という新しいルールが世界中に広まって言った時期とも言われています。それまでは領土、人が何処に属しているかは曖昧(あいまい)だったようです。

蒙古襲来等々以来、古来多くの日本武士は領土等を守るため命をかけ戦っています。男性が国を守り、女性が家庭を守ることは極自然でこの役割は自然であり崇高な役割に思えます。

有名な万葉集には蛍が多く出てきます。この蛍を枕詞等々に使用したのが蛍の光の歌詞と思います。

蛍の光は、万葉集の相関歌(そうもんか:万葉集では親しい男女の詩で、互いに相手の様子を尋ね、消息を通わせ合います。夫婦・親子・兄弟姉妹・友人など親しい間柄で贈答すると言われています。)と思います。

夜に点滅するホタルの光は幻想的で古来から日本人の心を魅了、霊的にとらえているようにさえ思います。蛍は古来から私達に様々な感慨の念を持たせていたと思います。蛍の光は、国土防衛の任に向かう夫婦が相聞歌として歌うようになっていると思います。

 

防人(さきもり)と蛍・万葉集

(作者不詳 万葉集 巻13 3344)

この月は 君来まさむと 大船の 思ひ頼みて いつしかと 我(あ)が待ち居(を)れば 黄葉(もみちば)の 過ぎて去(い)にきと 玉梓(たまずさ)の 使ひの言へば 蛍なす ほのかに聞きて 大地(おおつち)を 炎と踏みて 立ちて居て 行くへも知らず 朝霧の 思ひ迷(まと)ひて 杖足らず 八尺(やさか)の嘆き 嘆けども 験(しるし)をなみと いづくにか 君がまさむと 天雲(あまくも)の 行きのまにまに 射ゆししの 行きも死なむと 思へども 道の知らねば ひとり居て 君に恋ふるに  音(ね)のみし泣かゆ。

今月はあなたが帰ってこられると、頼みに思って、いつかいつかと心待ちにしていると、はかなく死んでしまったと使いの者がきて言うので、ほのかにその言葉を聞いて、大地をまるで炎の上を踏むように飛び上がり、踏んで、立ったり座ったり、何処へ行けばいいのかわからず途方に暮れ、思い迷って、八尺にも及ぶ長いため息をついて、嘆いても何の甲斐もないので、いったい何処にあなたはおいでになるのだろうと、幾後に従って、行って死のうと思うけれども、道がわからないので、ひとり居てあなたを恋い慕っていると、声が出て泣けてしまう。

この歌は、防人の妻が夫の死を伝えられて嘆き苦しむ歌で、この中のほのかと言う言葉は、枕詞としてホタルが使用されています。このように蛍は、古来日本人にとっては特別の意味をもって歌われているように思います。

 

蛍の光の歌詞は、蛍を原題とした詞が明治以前からあったとも言われていますが今、歌われている蛍の光は1881年、東京師範学校の教員、稲垣千穎(いながきちかい)氏が作った替え歌(1番と2番)と言われていますが・・・

稲垣 千穎氏は1845年生まれの国学者、教育者、唱歌作詞者、教科書編集者です。1880年(明治13年)、東京師範学校校長で音楽取調掛長を兼務していた伊沢修二氏の要請により、音楽取調掛に就任(兼務)、日本最初の音楽教科書・小学唱歌集 初編の作詞に携わっています。稲垣千穎氏が蛍の光作詞者である根拠は?詞は一応、稲垣千穎氏にしておこうでしょうか・・・

1881年(明治14年)7月に宮中で天皇に大臣参議らが陪食(身分の高い人と一緒に食事をすること。)を許された際に、宮内省の楽人、芝葛鎮(しばふじつね)氏、小篠秀一(こしのしゅういち)氏らが音楽を演奏しています。

伊沢修二による当日の演奏楽曲の解説、唱歌略説には、蛍の光の項に次のような記述が残っています。

「此曲ハ蘇格国土ノ古伝ニ出テ其作者ヲ詳ニセズ。然レドモ其意ハ告別ノ際自他ノ健康ヲ祝スルニアリトス。其調ハ我国ノ双調呂施ニ異ナラザルモノ也。其歌ハ東京師範学校教員稲垣千頴ノ作ニシテ、学生ラガ数年間勧学シ蛍雪の功ヲ積ミ業成リ事遂ゲテ学校ヲ去ルニ当タリ、別ヲ同窓ノ友ニ告ゲ、将来国家ノ為ニ協心尽力セン事ヲ誓フ有様ヲ述ベタルモノニテ、卒業ノ時ニ歌フベキ歌也。」

 

蛍の光の原曲
「オールド・ラング・サイン:old long since=昔むかし」は、地元スコットランドでも広く親しまれ、さまざまな集まりにみんなが輪になって歌うそうです。

2番になると、少しテンポが上がるのも特長で懐かしい仲間との再会を祝して杯を酌み交わそうと歌われています。
作詞はロバート・バーンズという高名な詩人で、スコットランド古謡を元にして1788年に発表しています。

Should auld acquaintance be forgot,
and never brought to mind ?
Should auld acquaintance be forgot,
and days of auld lang syne?

(CHORUS:For auld lang syne, my dear,
for auld lang syne,
we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne)

 

And surely ye'll be your pint-stoup !
And surely I'll be mine !
And we'll tak a cup o' kindness yet,
for auld lang syne.
(CHORUS)

We twa hae run about the braes,
and pou'd the gowans fine ;
But we've wander'd mony a weary fit,
sin' auld lang syne.
(CHORUS)

We twa hae paidl'd in the burn,
frae morning sun till dine ;
But seas between us braid hae roar'd
sin' auld lang syne.
(CHORUS)

And there's a hand my trusty fiere !
And gies a hand o' thine !
And we'll tak a right gude-willie waught,
for auld lang syne.
(CHORUS)

旧友は忘れていくものなのだろうか、古き昔も心から消え果てるものなのだろうか。
(コーラス)

友よ、古き昔のために、親愛のこの一杯を飲み干そうではないか。

我らは互いに杯を手にし、いままさに、古き昔のため、親愛のこの一杯を飲まんとしている。
(コーラス)
我ら二人は丘を駈け、可憐な雛菊を折ったものだ。
だが古き昔より時は去り、我らはよろめくばかりの
距離を隔て彷徨っていた。
(コーラス)
我ら二人は日がら瀬に遊んだものだ。
だが古き昔より二人を隔てた荒海は広かった。
(コーラス)
いまここに、我が親友の手がある。
いまここに、我らは手をとる。
いま我らは、良き友情の杯を飲み干すのだ。
古き昔のために。

日本に紹介されたこの歌は、稲垣千頴氏によって、原詞とはまったく異なる歌詞(明治以前の歌詞を参考)が付けられています。これが「蛍の光」となり(元々は、蛍)、卒業式等での別れの場等の名曲として歌い継がれてきたようです。

以下文訳は、素人の私が歴史的背景、蛍等々の詞を一部参考に訳したものです、可笑しい箇所があるかも知れません。

 

蛍の光(防人「さきもり」を送る男女の歌、相聞歌「そうもんか」)

1 蛍の光、窓の雪
書(ふみ)読む月日、重ねつつ
いつしか年も、すぎの戸を
開けてぞ今朝は、別れ行く

(貧しく、苦しくとも共に苦労して頑張ってきたが、いよいよお別れの時が来ました。明けて、今日の朝、あなたは国を守る任のため、お別れです。)

 

2 止まるも行くも、限りとて
互(かたみ)に思う、千萬(ちよろず)の
心の端(はし)を、一言に
幸(さき)くと許(ばか)り、歌うなり

(故郷にとどまる妻も、国の守りに旅たつ夫も、今日を限りとして別れて行きます。だから、かたみも心の端に、どうかご無事で。)

 

3 筑紫の極み、陸(みち)の奥
海山遠く、隔つとも

その真心は、隔てなく
一つに尽くせ、國の為

(筑紫「九州」や陸「東北」は、海や山によって遠く、隔てていても、互いの二人の真心は隔てることはありません。どうかお国の守りに尽くしてください。)

 

4 千島の奥も、沖繩も
八洲(やしま)の内、護(まも)りなり
至らん國に、勲(いさお)しく
努めよ我が背、恙(つつが)無く

(千島も、沖縄も日本の国です。国の至る所で、勇気をもって私達の国を守ってください。お元気で、功を立て、ご無事で任務を全うして下さい。)

 

「やしま」=八島、八洲

「いたらんくにに」=国の至る所

「いさおしく」=勇ましく 

「せ」=背、夫、兄、兄弟、友

「つづがなく」=お元気で

 

戦後の長き年月が過ぎました。

多くの人達に、国を守る古来の詩でもあると言われる蛍の光3、4番の歌詞が歌われることを願っています。

 


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奇跡を起こした、長崎J2 V・ファーレン

2017-12-23 22:06:54 | 日本社会

私は、サッカー大好き人間です。好きなチームの場合、当日はワクワクします。以下文はウィキペディア、西日本新聞、スポーツ新聞、ネット等々の記事を参考にしています。

今年のサッカーで超目玉は長崎のJ2サッカーチーム、V・ファーレンのJ1昇格です。こんな潰れかかっていたようなポンコツチーム(失礼!)がJI昇格、ほんとうに誰もが予想していませんでした、快挙中の快挙です!

如何して、このチームがJ1昇格を果たしたか、大変興味があります。

 

ジャパネット・タカタと言えば、有名な高田氏の甲高い声・・・テレビ・ショッピングを思い浮かべます。全国津々浦々で見られる、茶の間ショッピングの代表格です。

高田氏は長崎県佐世保市で小さなカメラ店を創業、以後、ラジオ・ショッピングからテレビ・ショッピングに進出、自ら出演、甲高い声、独特のしゃべり方人気者となりました。持ち株会社、ジャパネット・ホールディングスの平成16年12月期の売上高1783億円、現在は長男の旭人氏に社長を譲っています。

高田氏はウェブサイト、A and Liveを保有、人を元気にする活動を始めていました。長崎のJ2サッカーチーム、V・ファーレンの経営危機が分かると、長崎から元気印をなくすのは大損失として即支援、V・ファーレンのクラブ運営会社の株を買い取りジャパネット・ホールセイングスの子会社としました。

今年3月、長崎 V・ファーレンの経営危機が表面化、累積赤字が3億円以上、選手達に給与を支払えない事態に追込まれています。Jリーグでは債務超過に陥ったクラブ、3期連続赤字を計上したクラブはJ1、J2でライセンスを得ることができません。債務超過への回避しないとJ3に降格、チームとして活動が困難になります。このような状態を知った高田氏は即支援を始めました。3年間で10億円以上の資金投入を表明しました。

長崎のV・ファーレンは2004年、長崎県島原半島にある島原市で活動していた有明SCと名門・国見高校OBを中心につくられた国見FCが合併してできた有明サッカークラブが前身です。2005年にJリーグ入りを目指すチームとして長崎、V・ファーレンに改称しました。V・ファーレンのファーレンはオランダ語のVAREN(航海する)などの言葉だそうです。JFL(日本フットボールリーグ)等を経て、2013年からJ2、高木琢也氏が監督就任、同監督は名門、国見高校出身、サンフレッチェ広島でも活躍、元日本代表FWとして活躍しています。

今年4月の株主総会で高田氏は長崎、V・ファーレンの社長就任、就任時はJ2で9位/(22チーム)、以降は19勝6敗等となり、8月末から12連勝!

外国選手を含めた大型補強は一切行わず、監督やスタッフの交代もありませんでした。高田氏は、先ず「職場環境の改善」に重点を置いた策を実施しています。

テレビ・ショッピングでの手法等々、アイデアを出し観客を動員しました。更に試合前に家電のチャリティオークションを行うなど、観客が楽しめる企画を実施、「観客が増えれば選手や監督・コーチのモチベーションが高まる」からです。元、五輪陸上選手の為末大氏をフィジカルアドバイザーに招いています。

事務局に対し、「業務の質」、「効率を重視」するよう指示、不足人員を補充、サッカーに関して素人である社長は先ず、「社員が気持ちよく働ける職場環境づくり」を行いました。

「将来に不安に怯えていた」選手、スタッフは高田社長登場で前向きになり、戦う姿勢を示しました。地元の西日本新聞等は経済的支援、テレビ通販番組で培った対話力でクラブを救ったと報じています。

スポーツでみんなを元気に!

ビジネスも人を幸せにすることを起点に考えれば難しくないと述べています。

9月、長崎県佐世保市の自宅でバーベキュー会、選手と一緒にカラオケを熱唱、村上祐介主将は「この人のためにも戦おうという雰囲気になった」と振り返る・・・これがJ1昇格という奇跡をもたらす原動力となったと言われています。11月11日のホーム最終戦は本拠地・トランスコスモス・スタジアムで行われ、過去最多の2万2400人で埋めつくされたと言われています。

高田氏は、奇跡は一過性で終わることも承知しているでしょう。J1(18チーム)に昇格したチームのいくつかは翌年にJ2に降格しています。長崎もJ2に逆戻りする可能性もあります。J1で戦い続けられるかどうかは、やはり「将来に不安を怯えないような資金力」が勝負と見ているようです。

2016年度のJ1サッカークラブの事業規模を表す営業収益(売上高)は、浦和レッズの66億6600万円が最高です。一方、J1に所属するクラブの平均は36億4000万円、V・ファーレン長崎の17年1月期決算は営業収益が7億4900万円、最終損益は1億3800万円の赤字です。累積赤字は3億2400万円に膨れ上がっています。資本勘定は1300万円の黒字、かろうじて債務超過を免れた状態でした。高田氏が登場で危機を乗り切りました。スポーツは全くの素人、故郷を思う高田氏の支援は天晴れです!

J1で戦い続けるには観客動員数2万人以上、営業収益20億円が必要と言われています。J1で1ケタ台の営業収益のクラブはなく、赤字経営のクラブはありません。V・ファーレン長崎の営業収益はJ2の平均(13億1300万円)を大きく下回り、赤字経営です。

J1で勝利するには有力選手の補強、赤字にならないように経営を安定化させる必要があると思います。高田氏は自らトップセールスに乗り出し、多くの企業にスポンサーになってもらうつもりです。

高田氏はサッカーのFIFAワールドカップなどをテレビで観戦するほどスポーツ好き、2年をかけて選手、スタッフ、サポータが一体になるクラブにしていく予定を立てています。将来は、J1の首位争いに食い込めるようなクラブにしたいと高田氏は夢を追い続けています。

高田社長はスタジアムのテーマパーク化を目指しています。人間はいつも自己更新がモットーだそうです。何才になろうとも初心を持たなきゃいけない。人を幸せにするスポーツは、見てるとき楽しい、人生を感じる、ビジネスもそう。売り上げとか利益じゃなくて、モノを販売するというビジネスの中で、モノの販売を通して、いかに人の幸せに貢献できるか、ミッションは両方一緒と語っています。通販を通して、モノの先にある幸せを追求してきた高田社長にとって、サッカーのクラブ経営も理念は同じだと言っています。

如何に、スタジアムで過ごすか・・・5時間がキーワード

ファン・サポーターは、スタジアムで試合を見るだけではない。試合を見に来る方は、そこで自分がエネルギーを得て、次の日も元気になろうという方がすごく多い。そのためには、試合だけでなく、試合の前に楽しむ時間。食べ物もおいしくしなければいけない。いろんなイベントをするとか、試合を見てすごく感動して、試合の余韻を残し、1時間でも楽しんでいく。
試合当日は、自らチームをPRする高田社長が目指したのは、スタジアムのテーマパーク化です。

サッカーをただ90分の試合ととらえず、試合の前後も含めたスタジアムで過ごす5時間をキーワードに設定、地元グルメの充実や子どもの遊び場を設けるなど、人が幸せを感じる空間に変貌させました。
V・ファーレン長崎サポーターは、盛り上がってうれしい、楽しい、いっぱいお店が出てなどと話していたそうです。

高田効果は実を結び、これまで5000人程度だった観客数は、J1昇格を懸けた天王山の一戦で1万3000人を超え、最終節には2万2000人までなりました。選手たちにも気持ちの変化が現れたそうです。

人間はいつも自己更新・・・高田社長は1勝、2勝、3勝と続くと表情の中に戦うぞ、やるんだ、県民のために頑張らなきゃという思いを感じるようになったそうです。
来年が楽しみなJ1・・・長崎、V・ファーレンの活躍が楽しみです。

 


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オスプレイの評価(Breaking DEFENSEより)

2017-12-23 20:04:11 | 軍事

以下文はBreaking DEFENSE・HP、20012年当時の文の英概訳ですが、誤訳が多々あるかと思います。参考程度の英概訳雑文とします。

オスプレイと言うと直ぐ欠陥機、危険な航空機と思いがちですが、専門家等々の以下文を読んだ場合、欠陥機ではなく、どの航空機でも初期にありがちな問題で事故を起こしていると思います。現在は機体改修、訓練、運用もかなり改善していると思います。以下文はオスプレイに対し、公平な評価等の内容と思います。

原英文は以下からアクセスできます。

ブレーキング・防衛・HP

Flying The Osprey Is Not Dangerous, Just Different: Veteran Pilots

(ベテラン・パイロットから見たら、オスプレーは危険な航空機ではない。)

Richard Whittle記 September 05, 2012

 

昨今、空軍と海兵隊による2回のオスプレー事故は、パイロットミスと正式に認めました。

過去にさかのぼりオスプレイが安全な飛行機かどうかについての論議が続いていることから、定期的に寄稿していた、「悪名高いV-22 Ospreyの未踏の歴史」の著者Richard Whittleと、経験豊富なオスプレイ・パイロットとのインタビューを依頼しました。

オスプレイが欠陥のある航空機であるか?彼らがそう信じているかどうかを調べることができました。

 

空軍オスプレイ事故・・・5人の乗組員全員が負傷したフロリダ州エグリン空軍基地での事故、6月13日にオスプレーが墜落しましたが搭載物も多く、大きな事故でパイロットのせいにされています。

Breaking Defenseの読者の中には、結論を示すパターンがあると思う人もいます。読者はオスプレーは本質的に危険で容赦のない飛行機だと語っています。

8月16日、陸軍のパイロットエラーによりオスプレイが事故、昨年4月のモロッコでの事故で2人の乗組員が死亡し、両方のパイロットが重傷を負いました。

オスプレイのブレーキンング・防衛に意見を投稿した他の批評家の意見を参考にして、オスプレイの問題は数多くあり、他の航空機と比較して非常に危険なリスクを負うと感じていると付け加えています。
モロッコとフロリダの墜落を鑑み、このようなコメントは公正な問題を提起しています。

 

対し、オスプレイ・パイロットはブレーキング・防衛の担当者とのインタビューに応じました。

オスプレイで飛行するのは危険なことですか?

インタビューされた10人のうち9人は、1991年にオスプレイの最初の事故に遭ったテストパイロットのような特別な例外以外は、その「反対が真実」だと述べています。

1993年~2006年にかけて、Bell Helicopter Textron社のオスプレイテストパイロットであり、オスプレイをパートナーシップにしたBill Leonard氏はロバートに尋ねました・・・あなたの飛行経験は何ですか?

ボーイング社のLeonard氏は、10のプロトタイプから第4世代ブロックBまで、オスプレイ世代を継承して1000時間を超える記録を取ったと述べています。

40年のキャリアでベトナム戦争では4回撃墜もされました。以後、ベトナム戦争で使用したUH-1ヒューイ・ヘリコプター・パイロットとして、陸軍特殊飛行隊のパイロットとして飛行を継続し、軍用および商用の試験操縦士を務め、ボーイング747・ジャンボジェットからグライダーまで約200種類の航空機を試験飛行させています。

全ての飛行機には、当然奇妙なものもありますとノースカロライナ州ニューリバーの海兵隊航空基地でオスプレイ・パイロットに飛行を教えたLeonard氏は述べています。

オスプレイは他の航空機、ヘリコプター、グライダー、バルーンなどと違い、地球上のあらゆる場所からでも飛行をすると述べています。しかし、コントロールを誤ると問題が発生します。
Leonard氏と他のオスプレイパイロットも、オスプレイはチルトローターなので、従来のヘリコプターや固定翼の飛行機ではなく、特殊性があるためハイブリッド(異なった要素を混ぜ合わせた航空機)飛行していることをパイロットが念頭に置く必要があると言っています。

トム・マクドナルド氏(ボーイングのテストパイロット、ベル・ボーイング軍のオスプレイ・テストパイロットチーム・チーフでオスプレイに1150時間以上飛行)はオスプレイが本質的に飛行するのは難しいとは思わないと述べています。

マクドナルド氏はオスプレイでは飛行しませんでしたが、20033年にオスプレイのローターが危険な空力状態に陥る可能性があることを発見するための危険な試験飛行を行い、Experimental Testパイロット賞を受賞しました。

ローターが突然リフトを失う、ボルテックスリング状態で事故を起こしました。オスプレイの最悪の墜落事故で、2000年4月8日アリゾナ州マラナで19人の海兵隊員が死亡しました。
オスプレーを飛行させる際には他の航空機とはまったく異なる取り扱い特性がありますが、それらの特性は必ずしも悪いわけではなく、異なっているだけですとマクドナルド氏は述べています。

オスプレーが他の航空機と異なる主な理由は、ナセルと呼ばれる旋回翼のポッドに収納された2つの大型ローターを真っ直ぐ90度まで、または逆方向に97・5度まで動かしてヘリコプターのように離陸、着陸することが出来ます。

飛び上がり、飛行機ように十分な前方スピードを得て翼のある揚力を作り出すために、パイロットは小さなサムホイールを操作してオスプレイを固定翼飛行機にするため、TCL(Thrust Control Lever)ナセルおよびロータを0度の角度まで前方に傾斜させます。

パイロットは水平から60度~約30度の角度で止めることもできオスプレイの飛行を純粋な飛行機、ヘリコプターのようなものではなく、その間のものにすることもできます。

このすべてを達成するために、オスプレイはには、パイロットのマニュアルコントロール(スティック、TCL、ペダル)を飛行モードに応じて異なるようにするフライバイワイヤーと呼ばれる飛行制御をコンピュータ化しています。

飛行制御コンピュータはヘリコプターと飛行機のコントロールをナセルの角度が変化するのと異なる比率で自動的に調整します。

オスプレーがヘリコプター・モードになっているとき、ナセルが垂直または、ほぼ97.5度〜60度のローターとすべてのリフトを提供するローターを使用すると、パイロットのスティックであるTCLとペダルがヘリコプターの制御を行います。

スティックを前方に押すか後方に引っ張ると、航空機は前方または後方に移動します。いずれかの側にスティックを押すと、航空機は横方向に移動します。TCLで動力を加えたり動力を取り除いたりすることで、各回転子のすべての3つのブレードが回転する際に揚力角をまとめて変更することでオスプレイの高度が変わります。左または右のペダルを押すと、ロータブレードの角度を変更することで、航空機がその方向に回転します。

オスプレイが飛行機のように飛行しているとき、ナセルが30度から0度の間で前方に傾いており、水平飛行中の翼からのすべての揚力を生成するのに必要な約120ノットの前方対気速度で、スティック、TCLおよびペダルは固定翼、航空機の制御を行います。スティックを前方に押したり戻したりすると、エレベーターと呼ばれる尾にコントロール・サーフェスを移動させて飛行機を降下又は上昇ができます。

TCLを使用してパワーを増減すると、オスプレーの飛行速度が変化します。スティックを横に押すと、反対側の方向にフラッペロンと呼ばれる翼のコントロール・サーフェスが移動し、航空機をロールまたはバンクし、フットペダルを押すと、尾翼を動かしてオスプレーを回転させます。

オスプレイと他の全ての航空機の違いは、コントロールの変化であると述べています。

オスプレイが2007年にイラクに最初に戦闘を展開した際に飛行した、17年飛行経験の海兵隊のベテラン、Justin "Moon" McKinney氏はオスプレイ運用テスト・パイロットとして半年を迎えました。

マッキニー氏は、ナセルが30度から60度の間で運用すれば効率的でしょう。全てのコントロールが全てのことをやっていると述べています。

 

ヘリコプターと飛行機の機能を組み合わせることで、オスプレイ独自の機能が得られます。ナセルは80度にし素早く前進する。急いで飛び上がる場合は、着陸地帯から素早く離れるように角度をコントロールできます。
このようなユニークな機能に加えて、オスプレイの大きなナセルとローターはパイロットが考える必要のある特殊な特性を作り出しますが、最近の2つのクラッシュの原因となっています。

ウイング・チップナセルにはエンジン、ローターシステム、ドライブシャフト、ギアボックスは合計約5500ポンドの重さがあります。航空機の重心を前後に動かすとシフトします。オスプレーのパイロットは、ナセルが前方に傾いているときに、航空機の鼻を水平に保つか、投球する必要があることを訓練で教えられます。その重量を前方に振り回すと、コントロールがダイビングを妨げることができない場合、重心がシフトすることがあります。

事故はオスプレイ飛行時間160時間のパイロットがホバリングで持ち上げた際、機首が他の方向に向かったため機首を下ろす操作時に事故は起こりました。この事故は4月11日のモロッコでの海兵隊事故を念頭に置いていない40ノット未満の対気速度と、エレベーターに当たる尾の風が許容されるよりもナセルを前方にさらに傾けています。
ヘリコプターは機首を下げて加速するためにピッチを引き上げますが、オスプレイはこのような操作でヘリコプターのように飛ばすことは出来ません。

 

海兵隊・空軍運用試験チーム(MOTT)のメンバーとして、ジム・トリガー・シェイファー(Jim "Trigger" Schafer)は1995年~2000年にオスプレー運用試験に参加しています。

開発中のオスプレイの事故で親しい友人を失ったSchafer氏は、オスプレイはヘリコプターや飛行機の中で、私が飛んだ最も操作が簡単な航空機の1つですと付け加えました。しかし、その間の全ての変換・移行のものは、繰り返されて飛行時間を教えなければならないユニークな航空機・オスプレイです。

モロッコでの事故は、航空機は能力を超えて飛行していたようです。完全に整備されたセスナ172でも対気速度でのピッチ姿勢をサポートしていない場合、航空機は失速します。

もう一つのオスプレーの特性は、ローターの強力なダウン・ウォッシュです。これは揚力を生じるのに必要な推力と比較した関数です。艦船の甲板に合うように設計されたオスプレイのローター直径は38フィートで、海兵隊員24人を運ぶように設計され最適されています。最大総重量52600ポンド、技術者等によると。オスプレイのロータ・ブレードは、飛行機モードで飛行するときはプロペラのように空気を捕捉なければならないため、ヘリコプターよりもはるかに捩(ねじ)れています。

比較的小さい直径と高いねじれの組み合わせは、高いディスク・ローディングとして知られているオスプレイの強力なダウン・ウォッシュを作り出します。
オスプレイののローター・ウォッシュは、パイロットがヘリコプター・モードで飛行しているときにはオスプレイ間を少なくとも250フィート離して、ローター・ウェイクを回避するように指示されています。

海兵隊、空軍の飛行マニュアルでは、後方機は乱気流を受けないよう、機の5時から7時の位置を避け、少なくとも25フィート以上、距離を50フィートに増やすようパイロットに指示しています。

これらのルールに従わないと、後ろのオスプレイのローター・ウェイクからの乱気流が、後続の航空機のロータの下からリフトをノックアウトし、回復不可能なスナップロールを引き起こす危険性があります。

6月13日オスプレイ事故の空軍事故報告が見つかりましたが、事故に関する空軍報告書によると、パイロットは別のオスプレイのウェイクを通って飛行しているのを見ることができませんでしたが、オスプレイ・ウェイク・モデリングは、後続の機が先行する航空機から安全な分離を正確に推定するには不十分であるとしています。
オスプレイのローターのディスク・ローディングによって、横方向のダーツと呼ばれるオスプレイ現象が発生します。地面又は船の甲板上を10.15フィート浮上させると、オスプレイは片側または他側にすばやく滑ります。そのローターによって生成される乱気流は、その下の空気を乱します。

現在のオスプレイ・パイロットは、以後何年にもわたって飛行制御ソフトウェアに数多くの修正が加えられていると述べています。

 

ウィルソン氏は、次のように語っています。

現在のオスプレイのパイロットは、横方向のダーツを避けるために使用される術は低位置で動かすのではなく、上に機を飛ばすことだと述べています。

陸軍とNASAのテスト・パイロットとして、1990年後半にボーイングでオスプレイ飛行に参加したウィルソンは、オスプレイは私が乗った時から、ちょっと変わった飛び方をする飛行機だったと付け加えています。

Wilsonは、1991年6月11日にデラウェア州のGreater Wilmington Airportでオスプレイ・プロトタイプ・No.5を操縦していました。機は離陸し低高度からの滑走路に向かっていました。

判明したように、作業者が誤ってフライト・コントロールの一部を配線してしまい、誤動作させてしまいました。

ウィルソンと彼のコ・パイロットは事故から逃れましたが、ウィルソンはボーイングのテスト・パイロットの殉職後の翌年に辞職しました。

オスプレイ・プロトタイプ・No.4で3人の海兵隊員が亡くなりました。

これはQuantico Marine BaseのPotomac川に墜落、右のナセルの火がエンジンとローターを壊して・・・

オスプレー飛行時間が90時間少し過ぎたウィルソン氏は、パイロットとしてとして2つの反対する考え方があるため、難しいと語っています。

1つは高速、もう一方はホバリングと精度です。

ウィルソン氏の見解では、このことを処理するには、かなり経験のあるヘリコプターパイロットが必要だと付け加えています。

以前、レオナルド氏(元・テスト・パイロットと空気力学インストラクター)は、ウィルソンの見解を尊重しましたが、それらを時代遅れと判断したと語っています。

レナード氏は、私たちが抱えていた最大の問題の1つは、それが高速で飛ぶヘリコプターであるという考えを忘れ去っているということだと語っています。 飛行機をヘリコプターのように飛行させ、ヘリコプターとして飛ぶことは非常に難しいです。それを行う航空機の操作方法のコントロールに問題が生じる可能性が非常に高いです。

あなたが飛行機のように飛行し、ヘリコプターでその能力を理解する時間を取ることを望んでいるなら、非常に簡単な飛行機です。

元戦闘機のパイロットであったこの役員は、オスプレイに移動、オスプレイ・パイロットになり、ヘリコプターのコントロールに触れずにオスプレイで戦闘任務を行いました。

現在のオスプレイには、飛行機を飛ばすことが容易なプロトタイプをウィルソン(Wilson)が飛ばして以来、非常に洗練された自動飛行制御システムがあるため、ヘリコプターの経験は不必要であることが証明されています。

固定翼パイロット談・・・ヘリコプター飛行は一度もなく、ヘリコプターの飛行時間も1分もない人が、オスプレイに乗ることができれば、それはかなり安定した機だと思うでしょう。

固定翼パイロットから見たら、ヘリコプター・パイロットは常に操作をしており、オスプレイは操作しやすいのでオスプレイ移行にはほとんど時間がかかりません。

私たち(固定翼パイロット)は、ヘリコプター・パイロットよりも優れています。彼らは必ずしも必要でない時に、余分なコントロールをしています。

自動飛行制御について、このパイロットは次のように付け加えました。

もし、あなたがホバリングしている場所に到達した場合、次の行動を行うためにコントロールを操作して飛行機が動かすでしょうが、すべての飛行制御コンピュータ、外部のセンサー等が取り入れているものに基づいて、パイロットがが何を求めているかに基づいてコントロールします。常に1ナノ秒(1秒/10億)ごとの自動飛行制御システムを備えているため、機はあなたよりも優れています。

ベトナム戦争時の空軍F-4ファントム戦闘機パイロットArthur "Rex" Rivoloは、後にエア・ナショナル・ガードのヘリコプターに機種変更、移行しました。

1990年代にはオスプレイの連邦資金調達シンクタンク開発プログラムを関与していました。オスプレイは滑りやすい航空機だ、小さなパイロットエラーが発生しやすく、その小さなエラーは致命的な結果を招くとRivolo氏は電子メールで述べています。

ロールとヨーに対するサイド・バイ・サイド・ディファレンシャル・コントロールに加えて、ナセル・アングルは、パイロットにとっての決定スペースの複雑さを大幅に増加させます。飛行エンベロープは、はるかに高い次元であり、従来のヘリコプターまたは固定翼航空機よりもはるかに複雑です。トレーニングはこれらの問題にうまく対処していません。

オスプレイが2000年に2回の事故で一部が再設計、再検査されたとき10年以上前にRivolo氏とのオスプレイのメリットを熱心に議論したMacdonald氏は、その後、航空機の記録はRivoloの見解を反映していないと思っていました。

1989年のオスプレイ初飛行以来、ボーイング社員4人と海兵隊員26人が死亡した2000年以前の事故は3件、2001年から2005年の間に再設計、再検査されてからも3件のオスプレイ事故がありました。海兵隊と空軍での運用で、2001年以降3回のオスプレー事故で計6人が死亡、2001年10月1日以来、米軍は主に事故で416機のヘリコプターを失い、623人のアメリカ人の命を犠牲にしました。

1997年から2000年までMOTTの任務を命じた元特殊作戦ヘリコプターパイロットの退役軍人ジム・シェイファー氏はマクドナルドと同意見としています。Shaffer氏から、私はMH-53・ヘリコプターを数十年間飛行していましたとメールがきました。

私はこの機を愛していますが、幾度となく墜落しそうになりました。不具合率を見ると、オスプレイが安全で他機よりもはるかに優れていることを示しています。

2001年以来の3つのオスプレー事故のうち2つは、2010年にアフガニスタンの夜間襲撃で陸軍レンジャー隊員を運んでいる間に強行着陸で事故を起こしました。空軍のオスプレイで20人が搭乗、4人が死亡しました。

2004年から2009年、空軍初の4人のオスプレイ・パイロット・インストラクターの1人であった引退したポール・アレクサンダー将軍は、最近のエグリン墜落後、新しいパイロット訓練を手伝うために経験豊富なパイロットを雇うかどうかについて議論しているところです。

陸軍の160番目の特殊作戦航空連隊(SOAR)は、退役したSOARパイロットとこのような取り決めを使用しているとAlexander氏は述べています。

Ospreyの空軍経験レベルは、訓練プログラムが手伝ってくれたので多くのパイロットの問題は減少し始めております。パイロットの多くは自分のような道を進んだか、引退して他の仕事に移っていると語っています。

アレキサンダーはMH-47 ChinooksをSOARで15年間飛行した後、Ospreyを飛行させるために空軍に移りました。これはまだ新しいもので、経験の深さやその基盤がない航空機です。

一方、AFSOCの2つのCV-22Bに対する大規模な運用需要は、エア・フォースのOspreyパイロットが望むほどの訓練時間を得ることを困難にしていました。

AFSOCのOspreyパイロットは、Eglinの事故前に飛行をしていたフォーメーション飛行ではほとんどトレーニングを受けていませんでした。

海兵隊との最初の訓練の後、入隊するAFSOCのパイロットは、空軍CV-22Bトレーニングでは2つの編隊を昼間と1夜に行うように要求されており、昼間の飛行を免除するオプションを与えられましたとパイロットは述べています。

エグリンの事故によりCV-22Bのパイロットはコ・パイロット訓練時間が増えています。このパイロット訓練時間は追加され、フォーメーション飛行は特に重視されています。
AFSOCのスポークスマンのクリステン・ダンカン(Kristen Duncan)は、パイロットがCV-22Bの飛行訓練について許可されていない記述に異議を唱えました。 空軍乗組員はベテランパイロットのスキルを学ぶ・・・
トレーニングの多くは、どの機種でも可能ですとDuncan氏は電子メールで述べています。 "
CV-22ミッション・クオリフィケーション・トレーニングには、10機の編隊が参加しています。継続訓練には、半年ごとに4つのNVG(ナイトビジョンゴーグル)が必要です。実際には機が戦う際のように訓練を行うため、継続的なトレーニング・フライトの大部分が飛行部隊訓練として予定されています。

AFSOCのパイロットは、ある航空機の飛行形態は他の飛行形態の飛行形態に似ていると言うのは不合理です。各航空機は明らかに異なる飛行特性を示し、パイロットは独特の視界画像を利用して航空機間の異なる横方向および垂直方向の飛行を行うと述べています。

V-22で必要とされるフットボール場位の広さでも、距離から判断することができます。

UH-1ヒューイは、将来のV-22パイロットを準備するためにパイロット訓練で最も頻繁に使用される航空機です。

V-22とは異なるローター特性を示します。最も基本的なレベルでは、1つの航空機と他の航空機との間の飛行は移転可能なスキルセットではありません。この訓練では、AFSOC CV-22訓練計画のうちの10ターンが計画の一部であったがパイロットは、2つの例として、陸軍司令官としてOH-58D Kiowa Warriorのスカウトヘリコプターを7年間飛行した後、2005年に空軍に移ってMH-53やそれ以降のCV-22を飛行させたFrank Lazzara大尉は、AFSOCのすべてのパイロットは、

AFSOCの運航任務に加え、CV-22Bインストラクターを務めるラッザラ氏は、彼らは確かに若い53人の操縦士または初期のオスプレー幹部の隊員になったことはないと確信しています。人々が適切な訓練を受けていない、あるいは訓練を受けていないと、そこには脆弱性が存在する。しかし、それはどんな航空機にも当てはまります。


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可笑しな、普天間・第二小学校

2017-12-18 21:42:52 | 日本社会

以下文は産経新聞 宮本雅史・那覇支局長(当時)の記事(2010.1)の一部コピー、ウィキペディア、NHKニュース(12月13日)等々を参考にしています。

 

12月13日午前、沖縄のアメリカ軍普天間基地に隣接する宜野湾市の小学校のグラウンドに、飛行中のアメリカ軍の大型ヘリコプターから重さが8キロ近くある窓が落下しています。普通に考えたならば米軍ヘリ等に全ての責任、問題があります。昨今は、NHK等でも小学校移設ができないとの報道をしていましたが違和感を感じます。

不思議なのはこの小学校は、グーグル・マップ等で見れば普天間飛行場の滑走路240度方向の延長線上から50~100メートル位しか離れていないようで、一般論からすれば緊急時等の着陸帯(滑走路を中心として、一定の幅と長さをもった長方形の区域をいいます。 航空機が滑走路から逸脱した場合でも旅客の安全を確保すること等を目的 としています。)等にもなる位置と思います。普天間基地の移設が決まってから長期の期間を要すると分かっているのに、どうして!このような小学校を移転させないか理解できません!

学校の位置が危険であれば現に基地が存続している以上、早急に学校を校区内等へ移転させる必要があると考えるのが常識でしょうが、移転できない事実が見え隠れします。これらの事実をマスコミ等は報道しないと言うより、圧力で封印しているようにも思います。

マスコミによく登場する、沖縄県宜野湾(ぎのわん)市、普天間・第二小学校・・・世界一危険な米軍基地(海兵隊・普天間基地、7年位前 韓国空軍の将校が普天間基地を視察した際、韓国と比べたら危険な飛行場とは思わないと明白に述べています。この細部記事はネット内にあると思います。)と隣接する小学校と言われていますが何故、危険と言われるなら安全を考慮し、早急に学校区内等に移転しないのか大きな疑問がつきまといます。この疑問に答えているような記事があります。2010年1月の産経新聞、宮本雅史・那覇支局長(当時)の記事です。

 

沖縄で米軍に反対する人達にとって、普天間・第二小学校は沖縄の基地問題を演出する最高の場所とも言われています。普天間・第二小学校は、基地反対運動の象徴的存在で必要不可欠な場でもあるとも言われていますが、これらの基地反対者は子供達の安全確保の考えなんか毛頭無いように思います。

現在、普天間基地は確かに住宅密集地の真中にあります。よく調べると住宅密集地に米軍が強引に基地を作ったという印象を受けますが、どうもそうではないようです。戦後、原野にできた普天間基地の周辺に、後から住民が集まってきて住宅街を作ったというのが普天間基地の実態のようです。私の記憶では普天間基地の軍用地主の面積は自己申告と言われています。普天間基地よりも遥かに広い面積の賃料を国は支払っていると言う指摘があります、勿論国は沖縄の特殊事情を考慮し黙認しているとも言われています。

 

過去、普天間・第二小学校の危険性を考慮して二度も移転の話が持ち上がったそうですが、その度に強く移転反対をして妨害したのは、米軍基地反対派の人達です。本当に呆れてしまいます。

これらの事実は、基地反対派が小学校の移転にも反対し、結果的に小学生を人間の盾にしていると言うことになると思います。

世界一危険な小学校と言われながら、これまで普天間・第二小学校が移転しなかった本当の理由を、一部の沖縄県民は知っていましたが、当時の産経新聞が記事にしています。その記事は当時、那覇支局長に着任間もない宮本雅史支局長の記事です。

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)に隣接し、過去ヘリ墜落等事故の危険にさらされてきた普天間・第二小学校で、これまでに2回、移転計画が持ち上がっていますが、基地反対運動を展開する市民団体等の抵抗で頓挫していたことが2010年1月9日、当時の宜野湾市関係者や地元住民への取材で分かったそうです。結果的に市民団体等は反基地運動を展開するため小学生を盾にしていたことになります。沖縄の基地反対運動の本質は何か大きな疑問がつきまといます。

普天間・第二小学校は、昭和44年に普天間小学校から分離、南側グラウンドが同飛行場とフェンス越しに接しているため、基地の危険性の象徴的存在といわれてきました。

移転計画が持ち上がったのは昭和57年位、同小から約200メートル離れた基地内で米軍ヘリが不時着、炎上したのがきっかけと言われています。

当時、宜野湾市長だった安次富(あしとみ)盛信さん(79)によると、それまでも爆音被害に悩まされていたが炎上事故を受け、小学校に米軍機が墜落しかねないとの不安が広がり、移転を望む声が地域の人たちから沸き上がったと言われています。

宜野湾市長だった安次富盛信さんらは、移転先を探したが確保できなかったため米軍側と交渉し、約1キロ離れた風光明媚な米軍家族用の軍用地のうち8000坪を校舎用に日本に返還することで合意しています。防衛施設庁とも協議して移設予算も確保したそうです。

その後、革新系の市長である桃原正賢氏が当選、以後、普天間基地移転が決定されたため小学校の移転は必要ないという事で立ち消えになったようです。可笑しいのは普天間基地の移転が決定されても相当の長期移転期間が必要であり、小学校の危険性が無くなった訳では無いと思います。計画的な反戦スケジュールに組み込まれたと思うべきです。悪質なやり方と思われて致し方ないように思います。

この策に市民団体などから、移転は基地の固定化につながるなどと抗議が殺到したそうです。安次富さんは爆音公害から少しでも遠ざけ危険性も除去したいと説明しましたが、市民団体などは、命をはってでも反対すると抵抗されたため計画は頓挫したと言われています。

宜野湾市関係者は市民団体などは基地反対運動をするために小学校を盾にし、子供たちを人質にしたと説明しています。

以後、昭和63年~平成元年、校舎の老朽化で天井などのコンクリート片が落下して児童に当たる危険性が出たため、基地から離れた場所に学校を移転させる意見が住民から再び持ち上がりました。だが、やはり市民団体などに移転せずに現在の場所で改築すべきだと反対され、移転構想はストップしたそうです。

当時、宜野湾市議だった安次富修・前衆院議員は反対派は基地の危険性を訴えていたのだから真っ先に移転を考えるべきだったが、基地と隣り合わせでもいいということだったと話しています。

他市の市関係者も「多くの市民は基地の危険性除去のために真剣に基地移設を訴えたが、基地反対派の一部には、米軍の存在意義や県民の思いを無視し、普天間飛行場と子供たちを反米のイデオロギー闘争に利用している可能性も否定できないと指摘しています。

 

上記の記事のような、沖縄の理不尽な問題を報道、記した場合・・・

当時、那覇支局長に着任した前田徹氏は着任当初からこれらの沖縄タブーを叩くと公言地元新聞社、これを煽る全国紙グループに挑戦を宣言、精力的に批判連載記事を執筆し始めましたが、その結果那覇記者クラブから村八分になり、産経本社には那覇記者クラブより前田氏に対する抗議が殺到したと言われています。遂に、前田新支局長はわずか数ヶ月で那覇支局長を更迭される羽目に陥っています。小山氏が5年間も勤め上げた那覇支局長のポストを、後任の前田氏はわずか数ヶ月で去ることになりました。前田氏の突然の更迭を受け、急遽那覇支局長に着任したのが上記記事を書いた宮本雅史支局長です。

緒論あるかと思いますが、日本は民主主義国家で国民の合意の上で日米間に安全保障条約を結んでいます。条約を結んでいる以上日本は条約を守らなければならないでしょう。その延長線上に沖縄県の普天間基地があると思います・・・勿論、沖縄県には戦後から極めて大きな軍事負担がかかっています。本土側も米軍受け入れは全て反対するばかりでなく、受け入れて沖縄の軍事負担を少なくすべきです。

 

軍用機の事故が何故多いか・・・

昨今の軍用機の事故、老朽化した機体問題もあるかも知れませんが、何処の国の軍隊も有事事態・大災害等発生時の最悪を想定して厳しい訓練をしており、これは民間では不可能な任務で、事故が起きる可能性があってもやらなければならい訓練は空域、場所等を限定して行っているようです。軍用機の事故率が高いのはやむを得ない面もあるように思います。普天間基地のヘリ、オスプレイも同様でしょう。どうしても確率的には普天間・第二小学校のような事故が起きると思います。

軍用機が最悪を想定した厳しい訓練をしないで、安全第一ばかり追求したら民間機よりも高性能な軍用機は、民間機よりも遥かに安全に飛行し事故率は激減するでしょう。

その結果、有事事態・大災害時等の厳しい任務には役に立たない無用の軍用機になり国民からは猛烈な非難のバッシングを受けるでしょう。これらの事実は、事故率が高いと言われるオスプレイ事故多発の本質・核心部分の一部でもあると思います。

グーグル・マップで見た限りでは普天間・第二小学校は危険で、校区内等に早急に移転させるべきです。小学校移転は基地の恒久化に繋がる等々、反対派の意見は本質がズレていると思います。特定のイデオロギー等のために子供達を危険な場所に置くことは許されないでしょう。子供達の安全確保は最重要、最優先事項のはずです。


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世界の三大名行進曲・軍艦行進曲

2017-12-15 19:24:26 | 戦後

以下文は、主にウィキペディア、プログ・黄金の国・ジパング、ユーチューブ等々を参考にした文です。

  

世界三大行進曲と言うと、日本の軍艦行進曲(作曲家:瀬戸口藤吉)、旧友(ドイツ、作曲家:K.タイケ)、星条旗よ永遠なれ(アメリカ合衆国、作曲家:J.P.スーザ)となります。

日本の軍艦行進曲は世界の行進曲中の名曲と言われています。万国の人達が認める名行進曲です。評価が低いのは一部日本人と隣国の一部中国、韓国人位です。

 

何故、日本では軍艦行進曲がパチンコ店の音楽程度の行進曲か・・・

日本の敗戦、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は日本が二度と立ち上がれないように日本人の心の拠り所とする教育、芸術文化等々多くのものを取り払う策を実行に移しました。

その策とはWGIP(War Guilt Information Program)で、昭和20年の敗戦からサンフランシスコ講和条約発効によって日本が主権回復を果たした昭和27年までの7年間の占領期間にGHQが占領政策としてWFIPを行っています。この事実は現在は誰でも米国の公開文書等で一部の細部は確認できると思います。

WGIPは戦争への罪悪感を徹底的に日本人の心に植えつける宣伝計画です。その結果、剣道、柔道、弓道、書道等、道がつく日本の文化等が禁止、勿論日の丸、君が代、歌舞伎、落語等も禁止、神社へ集団でお参りする事さえも禁止されています。その中の一つが戦前、中に多くの国民に親しまれ、勇気づけられるために歌われていた軍艦行進曲の使用禁止です。

GHQはこの軍艦行進曲を歌わせないように、低俗化(程度が低く、趣味 の悪いこと等々)策等を日本人を使い行ったと言われています。毎日パチンコ屋で徹底して軍艦行進曲を流すよう日本人を使い指導したとも言われています。軍艦行進曲=パチンコ店の音楽と思わせるためです。

結果、私達は世界の三大名行進曲でもある軍艦行進曲は低俗的なパチンコ店の音楽と思うようになりました・・・正に洗脳です。世界の三大名行進曲と言われる軍艦行進曲が、日本人自身によりこのような見方をされるのは悲しいことです。

残念なのは、このような名曲が現在も学校現場等で演奏されることは皆無のようです。現在、日本の公教育現場では軍艦マーチの演奏はタブーとなっているようです。

例外として、岩手県の名門伝統校、県立盛岡第一高校の校歌に軍艦マーチの旋律が残っているそうです。

 

幸い、海上自衛隊が日本が誇る軍艦行進曲を今も伝統を継承し演奏しています、本当に素晴らしいことです。

 

軍艦行進曲(Warship March)は、日本行進曲の父と言われた瀬戸口藤吉・曲の行進曲で、一般に軍艦マーチとして戦前、中には広く国民に親しまれています。作られたのは日清戦争から日露戦争までの間で、日本が200年の鎖国体制から世界の一等国を目指した躍動の時代です。

当時の厳しい世界情勢、背景等を考えた場合、特に歌詞内容はその時代を反映したもので極自然だと思います。テンポが良く気持ちを高揚させる名行進曲と言われています。

 

明治30年、鳥山啓作・詞の軍艦に曲を付けて軍歌としその後、明治30年頃に、准士官相当官の軍楽師だった瀬戸口藤吉が新たに作曲、明治33年に軍艦行進曲として誕生しました。初演は、明治33年4月、戦艦・富士乗組の軍楽隊によって行われました。

戦後、海上自衛隊でも海上幕僚監部通達により儀礼曲(国際的な儀礼交換の場等で軍楽隊によって演奏される曲)の一として、軍艦行進曲の名称で制定されており、進水式や出港式典などで奏楽されている他、観閲行進曲として奏楽されています。

軍艦行進曲は間違いなく日本、世界を代表する行進曲の一つであり、広く世界に知られています。先進国軍楽隊で軍艦行進曲を演奏出来ない軍楽隊は無いと言われています。

 

軍艦行進曲・歌詞

1 守るも攻むるも黒鐵(くろがね)の
浮かべる城(しろ)ぞ頼(たの)みなる
浮かべるその城(しろ)日(ひ)の本(もと)の
皇國(みくに)の四方(よも)を守(まも)るべし
眞鐵(まがね)のその艦(ふね)日の本に
仇(あだ)なす國(くに)を攻(せ)めよかし

歌詞(1)の意味

日本を守るのも、他所を攻めるのも黒光りする鉄でできた

海に浮かんでいる城のような軍艦

海に浮かんでいる城のような軍艦は日本の

天皇国家を四方の敵からの攻撃から守っている

鉄でできたその軍艦

日本に仇をなす国を攻め滅ぼすものである

 

2 石炭(いわき)の煙は大洋(わだつみ)の

竜(たつ)かとばかり靡(なび)くなり

弾撃つ響きは雷(いかづち)の

聲(こゑ)かとばかり響(どよ)むなり

万里の波濤(はとう)を乗り越えて

皇國(みくに)の光輝かせ

歌詞(2)の意味
石炭の煙は大海原で
竜のようになびいている
大砲を撃ったときの音は雷の
音のように響くものだ
万里の波を乗り越えて
天皇の国を光輝かせよう

この歌詞から当時の世界情勢、時代背景が分かると思います。この歌詞は何も相手国を侵略しようと言う意図、好戦的な詞では全くありません。未来への明るい希望、自信、勇気づける詞であることが分かります。

現在では海上自衛隊の儀礼曲に指定されています。儀礼曲の統一についての通達によって観閲式における観閲行進の場合・・・

1 自衛艦旗授与式における乗組員乗艦の場合

2 自衛艦命名式における進水の場合

3 その他必要と認められる場合

に演奏することとされているようです。

ミャンマー軍では軍艦行進曲の曲を流用した軍歌であるミャンマー・ドゥーイェ・タッマドゥ(Myanmar Tot Ya Tatmadaw)を使用していると言われております。隣のバングラデシュではこのミャンマー軍歌のミャンマー・ドゥーイェ・タッマドゥ(Myanmar Tot Ya Tatmadaw)を現在でも採用しているそうです。

 

欧米だけでなく、台湾や東南アジアでもこの曲の知名度は極めて高いようです。中国、韓国は公の場所でこの曲を歌ったり流したりした場合は他の日本の軍歌同様、非難の対象となると言われています。欧米等のプログを見ると、日本と戦ったアメリカの退役軍人でさえ、日本の軍艦マーチは今まで聞いた曲の中で最高で名行進曲だと思っている方が多いのも事実です。

 

昭和58年、内閣総理大臣である中曽根康弘氏が訪米した際、中曽根氏が大日本帝国海軍主計少佐出身であることから、アメリカ海軍軍楽隊がこの曲を演奏して歓迎しました。

茶の間等では、ドラえもんのてんとう虫コミックス14巻、ラジコン大海戦の中でも2番が使われています。ラジコンの戦艦大和が登場し軍艦行進曲を流しながら進むようになっています。 

 

横須賀市の三笠公園・記念艦三笠には、「行進曲・軍艦」の碑があります。片面には曲、反対側には歌詞が記されています。市民団体の手で行進曲・軍艦の碑が平成8年に建立されたものです。

記念碑建立の際、市長の設置許可書はおりていましたが、歌詞の内容が好戦的との理由で、横須賀市公園管理課の担当職員の一人が難色を示し、記念碑の除幕式の際は人目に触れないよう歌詞部分は黒のビニールで覆い隠されたと言われています。その後も歌詞の部分が何者かによりコンクリートで塗りつぶされる事件が発生したようです。現在この歌碑は修復されています。

世界が認める世界の三大行進曲の一つ、軍艦行進曲、この曲を聴くと当時の世界情勢、背景を知ることが出来ますし、軍艦行進曲は、今も未来への希望、自信、勇気を私達に伝えていると思います。


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日本本土と沖縄は同胞

2017-12-07 17:00:12 | 日本社会

以下文は、ウィイペディア、Hosei University Repository「為朝伝説と中山王統」・矢野美紗子等々を参考としていますが、素人が記したまとまりの無い文となってしまいました。プログ雑記とします。

 

沖縄と言うと民族的にも全く違うと思いがちですが、同胞であるという言葉が自然だと思います。昭和以降、本土と沖縄との類似性の研究も多くなったように思います。

源為朝(みなもとのためとも)・琉球渡来伝説が最初に確認されるのが「鶴翁字銘井序」です。京都、建仁寺・南禅寺などに住した五山僧である月舟寿桂(~1531年)が琉球出身の僧、鶴翁智仙から聞いた琉球の情報などを記したものです。昨今では本土、沖縄、アイヌ等のDNAの研究でも面白い結果がでています。沖縄と日本本土は同胞であると言えそうです。

 

沖縄以外の人が山内盛彬(やまうち・せいひん)と聞いても分からないと思います。沖縄県出身、東洋音楽学校(現東京音大)卒で昭和時代の沖縄の音楽研究家

明治生まれで祖父・山内盛熹(せいき)から琉球の三線(さんしん・沖縄音楽には欠かせない楽器、琉球王朝時代中国から伝わった楽器を琉球人の体型にあわせて棹の長さなどを調整しています。音もカタチも沖縄独特の楽器です。)を伝授されています。昭和56年技能保持者に認定、沖縄音楽を五線譜に採譜した功績は大きいと言われています。

元・琉球国際大名誉教授で、昭和61年死去96才でした。主な著作には琉球王朝古謡秘曲の研究等々があります。特筆すべきは沖縄音楽、沖縄の言葉、方言等の研究により「平家」と沖縄の言葉の類似性を述べられていました。

 

一説では琉球と関わりがあるとされる、源為朝は平安時代後期の武将で為義の第8子で、母は江戸の遊女とも言う説があります。

源為朝は弓の名人、13才の時父の不興を買って京都を追われ九州に・・・肥後の豪士の阿曾忠国の婿となり鎮西八郎と称していたようです。九州では合戦、略奪を繰返し勢力を伸ばしたとも言われています。朝廷では為朝を京都に召し返そうとしたが聞き入れなかったため1154年、父・為義は解官されました。

これを知った為朝はやむなく上京、保元の乱では父とともに崇徳上皇側として平清盛,兄義朝軍と戦い敗れ、近江で源重貞に逮捕され伊豆大島に流されたと言われています。伊豆大島でも略奪、乱行があり伊豆介工藤茂光に攻められて自殺したとされていますが、一説には琉球に渡って琉球王朝の祖となったと言われています。昨今、この説は補強されているように思います。

源為朝の子孫とも言われる琉球の舜天・・・舜天を祖とする王統の通称名で11187年~1259年、3代73年続いたとされています。

琉球正史の「中山世譜」(琉球王国の代表的な歴史書、漢文で書かれた歴代国王の伝記を中心としており、中国との関係を中心にまとめた部分(正巻)と、薩摩藩など日本との関係を中心にまとめた部分(附巻)とに分かれています。)によれば各王の姓を、「源」としています。初代・舜天の父とされるのは「鎮西八郎・為朝公」(源為朝)と言われています。やはり、琉球の正史として記載されている事実は無視できないでしょう。

この話がのちに曲亭馬琴の「椿説弓張月・ちんせつゆみはりづき」(曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本、文化4年(1807年)~同8年(1811年)にかけて刊行で全5篇、保元物語に登場する強弓の武将・鎮西八郎為朝と琉球王朝開闢の秘史を描き勧善懲悪の伝奇物語で「南総里見八犬伝」とならぶ馬琴の代表作)を産んでいます。

日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、この話に基づき大正11年には沖縄本島・本部半島の北側の運天港には為朝上陸の碑が建てられています。碑の表側に上陸の碑と刻まれ、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した、日露戦争で有名な名将・東郷平八郎の名が刻まれています。

 

「中山世鑑」を編纂した羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べています。この説は、昨今では研究者が増え説が補強されていると言われています。

真境名安興「真境名安興全集」第一巻19頁参照、元の文は「此国人生初は、日本より為渡儀疑無御座候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為絶故也」)なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。高宮広士札幌大学教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、10世紀~12世紀頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(朝日新聞 2010年4月16日)するように、近年の考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されています。

日本列島には古来からアイヌ、熊襲等(20以上の有色人種の多民族)の原日本人が関東、九州等に住んでいましたが大和朝廷に押しやられてアイヌが北の蝦夷地等へ、熊襲が南へ追いやられ琉球列島に移動したと考えるのが自然にも思えます。元を辿れば同族とも言えると思います。この両者は移動したため渡来した弥生人の混血が少なかったように思います。昨今のアイヌ、沖縄のDNA鑑定では面白い結果が出ています。これらの事実から日本は少なくとも20以上の多民族国家の流れがあると言えそうです。

総合研究大学院大学と東京大学は2012年11月1日、日本列島人(アイヌ人、琉球人、本土人)のゲノム解析により、現代日本列島人は、縄文人の系統と、弥生系渡来人の系統の混血であることを支持する結果を得たとし、アイヌ人から見ると琉球人が遺伝的に最も近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示されたと発表しています。

成果は総合研究大 生命科学研究科 遺伝学専攻教授を兼任する国立遺伝学研究所 集団遺伝研究部門の斎藤成也教授、東大大学院医学系研究科 人類遺伝学専攻分野の徳永勝士教授、東大大学院 理学系研究科・理学部の尾本惠市名誉教授らの研究グループによるものです。研究の詳細な内容は2012年11月1日付けで英国学術誌「Journal of Human Genetics」オンライン版に掲載されています。

 

「中山世譜」によれば、天孫氏王統が王城を首里に築き、舜天やその後の王統も首里城を居城としていたと言われています。

舜天王統は浦添城を居城としていたと伝えられています。首里に遷都したのは察度王統もしくは三山統一後の第一尚氏王統と言われています。

「中山世鑑」では舜天以降、琉球国中山王を継承したとしていますが、「琉球国中山王」と君主号を自称したのは、明の朱元璋から招来を受けた察度が始まりとされ次代の武寧以降から、明より「琉球国中山王」として冊封(中国皇帝の家臣として皇帝の保護下に入り、皇帝の権威の元に王としての権力を保持)を受けています。

舜天王統が統治していたとされる頃は小規模のグスクが各地に点在、沖縄本島全域を支配した人物は存在しなかったとされ、浦添を拠点とし沖縄本島中部地域に影響を及ぼしていたと考えられています。

 

喜舎場一隆(元・琉球大学教授)談

舜天王統はそれ以前の伝説的王統とは異なり、少なくとも実在した王統の祖とされ、その舜天は源為朝が長寛三年三月に大島を脱出して鬼ヶ島に渡り、沖縄北部の運天港に上陸

豪族・大里按司の妹と通じて尊敦(そんとん)を生み、その尊敦が舜天であるがこれは「鬼ヶ島=琉球」説から始まり、これらは向象賢の「中山世鑑」(1650年編纂)に明記されているが源為朝の伝承は1609年の薩摩の琉球侵入以前からすでにあり、袋中の「琉球神道記」、1543年の「かたのはなの碑」、1546年の「漆継御門北之碑」などの碑文記にも明記、「中山世鑑」を溯ること100年以前にはすでに存在、薩摩の琉球侵入後に「日琉同祖論」を提唱した向象賢の作為とも断定できないが舜天の実在についての疑問は舜天の活動期がオモロの盛行期の13世紀初頭でありながら、他の四王統(英祖王統・察度王統・第一尚氏・第二尚氏)の始祖がオモロ(古代琉球人の民俗・信仰・労働などを歌った幅の広い叙事詩)で聖王として謡われているのに対して舜天が脱落していることであり舜天の実在はオモロからすると否定的に考えられるが、1543年の碑文記に「大琉球国中山王尚清は、そんとんよりこのかた二十一代の王の御くらいを、つぎめしよわちへ」と明記されている以上、舜天の実在はまったく否定することもできないと述べています。

 

有名な寿永四年(文治元年・1185年)3月24日の壇ノ浦の合戦

平清盛を頂点に栄華を誇った平家一門に対して、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵し、継いで兵を挙げた木曽(源)義仲が京へと攻め上り、平家は西国へと都落ち・・・やがて、源氏同士の内輪もめで義仲を討った頼朝の弟・源義経に一の谷から屋島へと徐々に西へと追い詰められ、最終決戦となったのが壇ノ浦です。

清盛の娘・徳子と第80代高倉天皇との間に生まれ、わずか3歳にして第81代の天皇として即位するという平家全盛の象徴でもあった安徳天皇が、僅か8才で海のもくずと消えたと言われていますが、生存説もあります・・・

当時、事態が理解できない幼い天皇に、亡き清盛の妻・二位の尼(時子)が、「波の下にも都がございます」と、なだめすかして、三種の神器のうちの一つである草薙の剣を腰に差し、天皇を抱きかかえて入水、これは平家物語をベースにした一般的な安徳天皇の最期と言われています。極一部ですが、この子孫の流れが琉球にあると言う方もいます。

日本本土と沖縄の関わりは、古来徐福の時代から極めて大きな関わりがあったと思います。中国大陸からの日本渡来には琉球経由が多く、佐賀県神埼市の貴別当(きべつとう)神社の鳥居には「或日琉球王子子也」との碑文があり、琉球王等の子供の案内人が乗船し日本に向かったと碑文が残っています。古来から日本本土と琉球の関わりは大きかったと思います。

 

多くの文献等に鑑み、歴史的にみても日本本土と沖縄は同胞で心は一つだと思います。

近代では特に明治天皇、昭和天皇の沖縄への想いは極めて大きかったと言われています。日本本土と沖縄・・・戦前、後多くの苦難の連続であった沖縄、沖縄の未来が更に夢を持てる県になることを!

 


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歴史は勝者が作るか・・・ナチス台頭の一側面

2017-12-07 11:04:26 | 二次大戦ドイツ

以下の文は、Rothschild Money Trust、プログ日本人が知らない真実の一部コピー、加筆等していますが、誤訳等も多々あると思います。歴史は勝者が作る・・・雑文とします。

 

昨今の文献等で精査すれば、ヒットラーが台頭した背景の一つには、欧州等を金融支配しようとした雲上人とでも言える国際金融資本家に利用されようとしたヒットラー・・・第二次世界大戦での欧米、ドイツの戦争資金等々の支援、両陣営はこれらの金融資本家の莫大な支援が見え隠れします。

ヒットラーを利用し欧州等の安定金融等支配、しかしヒットラーはナショナリズムを選び、ドイツ国家の繁栄、ドイツ国民の夢を持てる国家を目指しまた。国際金融資本家を裏切ったような構図になると思います。

ヒットラーは「タルムード」を信奉するアシュケナージ・ユダヤ勢力に負けない、強大な国作りを目指しました、ローマ帝国です!

ドイツのハイルの敬礼、鉄兜の作りはローマ帝国の軍を模倣しています。

ナショナリズムを選びドイツ国家の繁栄、ドイツ国民の夢を持てる国家を目指しましたが敗戦、勝者の理論からヒットラーは世界一の悪の権現とされました。

 第1次世界大戦後のヨーロッパ、ドイツはユダヤ人(アシュケナージ・ユダヤ人・・・旧カザール人でユダヤ教宗教集団で偽ユダヤ人とも言われています。旧約聖書の民のユダヤ人とは違います。)のタルムード(ユダヤ人のみが人間、他はゴイム(豚、軽蔑語)・・・」)が蔓延しており正常心、良心の人であれば、何処の国の人でも間違いなくユダヤ人を軽蔑するでしょう。

タルムードを信じるユダヤ人(アシュケナージ・ユダヤ人)がヨーロッパで台頭、理不尽なやり方で経済を搾取していたか、ドイツ以外でも多くの国で軽蔑されていました。戦後はドイツのみがユダヤ人迫害をしているように報道されていますが、現実はかなり違いヨーロッパの多くの国で軽蔑されていました。ヒットラーが台頭した一原因の見えない部分だと思います。

第1次大戦の結果、ドイツ皇帝は退位し、宰相ホルヴェークは辞職しました。ドイツのユダヤ人達はそのまま残りました。ドイツはユダヤ人(アシュケナージ、ユダヤ人)支配の君主国から、ユダヤ人支配の民主主義国へと変わっただけでした。民主主義国になって、ドイツを支配するユダヤ人の顔ぶれは一新しましたが、相変わらず金融大富豪ロスチャイルドの影響下にあり、ロスチャイルドの理想具現化のためユダヤ人達はロスチャイルドの計画に従っていました。

最初にとった行動は、ドイツの通貨・ドイツマルクの価値を下落させることでした。何十億もの巨額のマルクを大量発行、マルクの価値がなくなるまで発行し続けました。後、ユダヤ人は無価値のマルクに対し、強いドルを持ち込みドイツの土地、建物、工場等々などを買いあさりドイツ国民は対抗する術が何も有りませんでした。

ドイツのマルクの暴落、そこにユダヤ人(アシュケナージ・ユダヤ人)強いドルを持ち込み、ただ同然の価格でドイツ国内のありとあらゆる物件等の買いあさり、当時の誇り高い頭脳明晰なドイツ人は何も出来ず屈辱の日々、夢を持てない日々を味わっています。そこに台頭したのがヒットラー率いるナチスです。ドイツ国民は、ほぼ全国民がナチスの反ユダヤ策等の政策を支持しています。ヒットラー・ナチス台頭の原因の一つは間違いなくタルムード、強いドルでのドイツ物件等の買いあさりでしょう。
このような事態がソ連崩壊時にも起こりました。ルーブル下落時の強いドルでの物件、国宝等々の買いあさり事態となっており、ロシア国内では多くの乞食が出現、高齢者自殺者の激増、経済の混乱等々、プーチンはこれらの実態を精査し、原因を突き止め、国家の指導者として国益、国民益の確保に奔走しました。如何なる理由があるともロシア国、民益を守る為立ち上がった大統領と言われ、常にロシア国民の80%以上の支持を得ています。


ドイツ国内の無茶苦茶なインフレが静まり、しかも財産をただ同然で獲得し終えてから、ユダヤ人勢力は、ドーズ委員会を通じてドイツ国立銀行を再建し、金本位制を復活させ、デフレ政策に切り換えました。
ユダヤ人はドイツ国民を圧迫し、困窮に陥れながら自分たちは裕福な悠々自適の生活、ドイツ国民は想像を絶する大変な困窮生活になっていました。ユダヤ人はドイツの全財産の少なくない部分を占めていました。ドイツの全人口の1%にも満たないこのユダヤ人が、この国の8割の富を所有していました。これらの財産は、主に通貨制度を操作して得たものでしたが、ヒットラーは忍耐強く耐えていたようです。


第1次大戦・・・米国のウィルソン大統領は有名な「14ヵ条」を、ドイツをはじめとする世界各国に休戦交渉の共通基盤として宣言しました。
もしドイツが降伏すれば、ドイツ政府もドイツ国民も「不利益を被らないということをほぼ保証」するものでした。

休戦条約は皇帝によって正式に受諾され、これによって休戦が宣言され、ひきつづいてベルサイユ講和条約が結ばれました。降伏して武装解除、無力になると今度はユダヤ人の手にゆだねられ解体され無力化されました。

第2次大戦が始まる数ヵ月前にヒットラーはラジオ演説で、ドイツ軍を降伏させるためウィルソン大統領がおこなった14ヵ条の約束のことに触れ、アメリカ政府によって暗に保証されていたこの約束が踏みにじられたこと、ドイツ帝国が解体されたこと、ベルサイユ条約で想像を絶する理不尽な支払い不可能な高額の賠償金が課せられたこと、ドイツ政府のユダヤ人内閣が戦後国民を大不況に陥れたことなどを数え上げヒットラーは次のように述べています。

ユダヤ人は、一方ではこの国を情け容赦なく略奪し、この国を惨めな状態に陥れておきながら、もう一方では、惨めな国になってしまったこの国の国民を扇動してきた。わが国の困窮状態が、ユダヤ民族が唯一目指しているものにふさわしいほどになったので、増大している失業者の群れの中に、ボルシェビキ革命にふさわしい人材を彼らが養成するのは可能となった。
政治秩序の崩壊と、無責任なユダヤ人の報道機関によって起こされた人心の混乱は、かつてないほどの強い衝撃を経済生活に引き起こし、その結果困窮者は増大し、政府転覆を図るボルシェビキ思想がますます受け入れやすくなる土壌ができあがった。ユダヤ世界政府革命軍は、失業者群を呼び集めて、ついに700万人近くになった。


戦争挑発・・・屈辱的な融和政策はもうごめんだという叫びが、現在、世界中に響き渡っているが、この叫び声は戦争挑発者にとって平和解決は最も命取りの解決方法だという事実を世界にふれまわっているだけだ。彼らは血が流されても平気である。もちろん彼ら自身の血ではない。これら挑発者たちは弾丸飛び交う戦地には姿を現わさず、もっぱら金儲けのできる場所にいる。血を流すのは名もない兵士たちなのだ。

ヒットラーは演説で、ポーランドに向けて率直明快に、もとドイツ領であったダンツィヒとポーランド回廊はもらわねばならない。ドイツ国民が住んでるポーランド内、飛び地を考慮しています、このことは戦勝国は触れてほしくない事実で、一部しか真相は公表されていませんが、以前ドイツ領であったシュレジアは要求しないと述べています。更に、世界平和のため以前ドイツ領であったアルザスに関する条約をフランスと結んだことを述べ、その条約を遵守すると演説しています。


ヒットラーはポーランドと交渉を開始、これらの領土を平和的な話し合いによってドイツに返還させようとしました。交渉の最中にポーランド在住のドイツ人虐殺事件が起こったが、それにもかかわらずヒットラーはこの条約を締結するためユダヤ人のポーランド外相ベックとの会見の約束をしましたが、ベックはこの約束を守りませんでした。ベックは約束を守るどころか、ロンドンへ出向き、英国首相に助言を求めました。ヒットラーはポーランドの反乱を押さえるために軍隊を送り、その結果、英国とフランスがドイツに宣戦を布告しました。第2次大戦の始まりです。

戦勝国が触れてほしくない事実・・・そもそもポーランドは1次大戦前は存在しない国でした。ドイツにとっては、敗戦によりポーランドが旧ドイツ領に建国され、飛び地となったドイツ人の町が孤立してしまいますので、ドイツは如何しても回廊が必要でした。しかし計画的なポーランドは、絶対に認めないように英国等に後ろで指図等し、ドイツの回廊確保のためのドイツの侵攻を固唾を飲み待ち望みました。
戦争にドイツを引きずりこんだと言う構図が見えてきます。戦争を好くする人たちがいたということになります、まったく真相は我々が学んだ歴史とは違います。
日本の真珠湾攻撃、ドイツのポーランド侵攻もまったく同じ構図であり罠にはまったと言う事が出来ます。戦勝国は触れてほしくない部分でもあると思います。


ポーランドを侵攻、征服した後、ヒットラーはベルサイユ条約でドイツから奪われた領土以外は、アルザスを例外として要求しないという条件をつけて、連合軍およびその他の国々に和平を再度提案しました。
今回のこの提案と最初の提案との違いは、今回はベルサイユ条約で英国に与えられた植民地をドイツに返還するよう要求しています。
この申し出に対する回答は、ヒットラー政府と取引する気はない、ヒットラーとナチスは潰してしまわなければならないというものでありました。

以後、英国は海上封鎖をして敵を兵糧攻めにする戦略をとりました。英国は、「大英帝国がその大半をつくった国際法」を自ら犯して、ドイツの輸出入を封鎖しました。
ドイツはこれに対してUボート潜水艦と空軍で対処し成果を上げ、飢えるのは「反対側」の英国という皮肉な結果となりました。
考えてみれば、ドイツは国際法の戦争規則に従って戦争をしてきている面が多いように思います。


英独戦では、英国の予想を裏切って、その秀でた空軍力を利用して行なう毒ガス攻撃はせず、英国の指揮官を一人も殺そうとはしていません。
英国の船が沈められたときも、英国の兵士や船員を保護、移送してました。

有名な実話・・・ノルウェーの港に停泊しているアルトマルク号(独の捕虜輸送船)には英国捕虜が多数乗っていましたが、英国のチャーチルの命令で英国の巡洋艦がノルウェーの中立を踏みにじり、アルトマルク号(無抵抗で丸腰の船員)を攻撃しました。ドイツは捕虜たちの船が沈められたとき、彼らを見殺しにすることもできたのに救出・・・
非武装のアルトマルク号を英国が攻撃した事件は、英米のユダヤ人報道機関から英国の大勝利として大喝采を浴びました。


ドイツが諸般の理由でユダヤ人の市民権を剥奪し罰金を科すと、アメリカは大使をドイツから呼び戻しました、これは戦争行為にほかなりません、通常大使引き上げは宣戦布告に先立つ第一ステップです。ヒットラーは、アメリカではまったく戦争の態勢が整っていないにもかかわらず、アメリカとの戦争を望んでいないという明白な理由で、このアメリカの挑戦に乗りませんでした。
米国ルーズベルトにとっても残念ながら当てはずれだったようで、米国ルーズベルトは怒りをあらわにして、ドイツからの輸入品に25%の関税をかけ、ニューヨークの銀行に預金されていたドイツ国立銀行の金を差し押さえました。これらの行為は明らかな戦争行為であるが、ヒットラーは落ち着いて堂々と対処しました。
ヒットラーはアメリカから大使を引き上げ、アメリカのドイツへの輸出品に同様の関税を課しただけでした。
ヒットラーがアメリカとの戦争を望んでいるのであれば、彼には戦争を始める大義名分があるにもかかわらず戦争を避けました。


当時のユダヤ系新聞、ハッツフィラーの記事

ヒットラーが極悪人なら、彼はわれわれに宣戦布告するであろう。しかも、われわれの準備や武器が整わない今の間にそうするであろう。わが国が工業活動を加速し、消耗した戦備を補給できるまで、二年も三年も待ちはしないであろう。彼はそんな悠長なことをするほど無分別ではない。彼は、自分の準備が整い、われわれがまだ不備ないま宣戦するであろう。
ヒットラーについていかなる見解を抱こうと、われわれは次のことを認めねばならない。「ヒットラーはこの戦争に余儀なく引き込まれた」こと。彼はベルサイユ条約によって不当にドイツから奪われた領土をドイツに返還することを基準として、和睦する用意があったこと。さらに彼は、文明国戦争のルールに従って戦争を遂行したことである。

連合国側が戦争を行なう目的は、ポーランドやチェコスロバキアやその他の国の回復ではありません。主目的はヒットラーとドイツを倒し、金本位制を守ることである。なぜならヒットラーもドイツも共に反ユダヤであり、金本位制を通してユダヤ人はすべての国の経済を動かせるからだ。ヒットラーが金本位制を廃止したその日からドイツは繁栄に向かい、失業もなくなりました。ドイツは金を持たずに戦争を行なっており、ユダヤ人からカネを借りなくとも戦争はできるということを世界に示しました。

ヒットラーの『我が闘争』を読むと、彼の主張は正当なものが多々あるように感じます。(我が闘争は、進化論で有名なダーウィンの題名「生存闘争」を模して、題名を「我が闘争」にしています。)

この憎悪に満ちた世界の動きを陰で操っている者はどこにいるのだ。誰がこの狂気を作り出したのだ。この狂気を全部ロシアに移植し、他の国々にもはびこらせようとしているのは誰だ。この疑問に対する答えを知れば、われわれの反ユダヤ政策とわれわれの妥協なきユダヤとの戦いの本当の意味がわかるであろう。なぜならボルシェビキの国際組織インターナショナルは、実際にはユダヤの国際組織にほかならないからだ。


マルクス主義を考え出したのはユダヤ人である。マルクス主義を媒介にして世界革命を起こそうと何十年も前から画策してきたのはユダヤ人である。世界中の国々のマルクス主義組織の党首は、現在すべてユダヤ人である。国家も民族も国も持たない流浪の民にしかこのような悪魔の思想は宿りえない。悪霊に取り憑かれた者のみが、この革命を行なえるのだ。(ゲッペルス 1935年演説)

ヒットラーと言うと悪の権現見たいに思いがちですが、ナチス結党以来の目標の一つには格差社会の根絶等があります。この目標は最後まで変わることはありませんでした。現代日本にも参考できる箇所が多々あります。

ヒットラーは決して自分の利益のために行動を起こしたわけではなく、日々の生活は質素で、酒、タバコ、肉は食べなかったと言われております・・・理不尽な社会の改革、ゲルマン民族の真の独立実現を目標にしていたと言えると思います。

当時ヒットラーの秘書であったユング女史が述べているように、子供が大好きで、別荘ではいつも子供達が遊びに来てたそうで、絵画、犬が大好きだったそうです。世界の多くの人々は未だに真実に触れることはできません。
ユング女史が記した映画「ヒットラー」は、ドイツ人が戦後初めて作成したヒットラーの映画で、ヒットラーは正常人であり、ドイツの尊厳を書いています。(現ドイツ・ユダヤ人に最大の配慮をしているようです。)

前に麻生氏が発言われたナチスは国民の多数合意で政権の座に着いた・・・間違いなく多くの国民の支持合意で政権の座についているようです。勝者の理論で戦勝国はナチス、ヒットラー等を全世界に悪の権現と徹底的に伝えました。

私達が常日頃利用している高速道路のインターチェンジ、オリンピックの聖火等ヒットラーのアイデアです。
有名なホルクス・ワーゲン、当事の車は高価で、多くのドイツ国民が低所得者でも夢が持てるようにヒットラー自身がデザインしました。
ヒットラーは自身は決して贅沢するでもなく質素な生活をしています。ドイツの主権回復、自国益に奮闘しています、独裁者とは思えません。
日本同様ドイツも苦難の戦後が現在も尾を引いているようです、GHQに教育を変えられた日本ほどではありませんが・・・

ユダヤ人(アシュケナージ・ユダヤ人)の中にも、現在世界の平和、発展に尽くされてる多くの有名、無名の方々がいるのも事実です。


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イスラムの人達と日本

2017-12-01 19:29:50 | 戦後

以下文は、「イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか」・宮田律著 新潮社(2013/9/14)、ウィキペディア、日経トレンディー等々を参考にしています。味不明文等が多々あると思いますので雑文とします。

イスラム教信者であるムスリムは現在、世界に約16億人いると言われています。世界の人口の4分の1で、約10億人がアジアに居住、インドネシアが一番多く2億2600万人、パキスタン、インド、バングラデシュに1億数千人、中国、マレーシア、フィリピンにも多くのムスリムが居住しています。ムスリム人口は20130年には全世界の30%に達するのではとの見方もあり、欧米では価値観等が違うため大変な脅威と捉えているようです。欧米の価値観を共有する日本とイスラムの人たちは通じ合うところが多いと思います。しかし、世界で厄介ごとを起こしている一部にイスラム教徒がいることは否定できないと思います。

何故、イスラム過激派が存在するのか・・・

 

欧米の自由、人権、民主主義等の近代的価値観、対しイスラムの価値観は男女が仲良く、一緒になることが人生の喜びであり、人生の中心は家族と捉えていると思います。現世界はグローバル化(NWO)に向かっているいる現実、イスラム社会は受け入れないでしょう。

一般論の一側面としては、厳格なムスリムであればあるほどイスラム共同体が持つ平等感、正義感を強く感じていると言われています。欧米社会システムの影響で貧富の格差が広がりつつある現実の社会経済的矛盾と政治腐敗に対しての失望により、イスラムの原点に戻る運動(イスラム原理主義)に傾倒していると言われています。

イスラムの原点(理想社会)に立ち返れば、現実と間にずれが生じます。そのズレがイスラム原理主義が生じる一因となっているとも言われ、その手段として暴力を用いるイスラム過激派が存続と言う構図が出来ると思います。やはり現実世界の欧米の価値観等もイスラムの人達も理解、認めることは必要だと思います。欧米もイスラム教徒も互いに、より深い本質を知ることは重要だと思います。

 

日本国内のムスリム人口は10万人程度と言われていますが、増加傾向にあるようです。欧米に対しては敵意を示すイスラム教徒は多いようですが、同じ価値観を共有する同盟国の日本に対しては対応が全く違います。

日本は本当にイスラムの人達に尊敬されているという事実、文献等を読むとイスラムの人達から見れば日本は理想的社会に近いと思われているようです。

日本人の礼儀正しさ、義理、人情といった古来からの美風でもある武士道等々が残っており関心と共感が持たれているかなと思います。 

特に、白人欧米の植民地主義に屈せず独立を守った日本、皇室の伝統、差別しないイスラムへの対応等、良好な対日感を今後どのように生かすかを著書、「イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか」は記しているように思います。

 

イスラム教は、預言者ムハマンド(紀元前570年~632年)によって確立された一神(アッラー)教です。イスラム教は7世紀頃から、商人等によって中東、北アフリカ、アジア布教され、今でも信者を増やし続けています。イスラムはユダヤ教やキリスト教と同じ流れを汲み、それら宗教と同じ唯一の神を奉じる宗教です。
イスラムは殺人を厳しく禁じています。
宗教や社会の改革運動で、ウンマ(イスラム共同体)は、道徳的な社会秩序を構築しなくてはならない。ムスリムはアッラーの僕、「五行」(信仰、告白、礼拝、断食、巡礼)を厳しく守っています。イスラム世界は、政教一致で、世俗の生活も神の支配下にあると考えていると思います。

イスラム教は、相互扶助を教える宗教だと言われています。親族の中に困った者がいれば、親族全体で面倒をみたり、助けたりします。喜捨の精神で地域のコミュニティ全体で救いの手を差し伸べる、助け合いがイスラムの根幹であると言われています。人種差別はイスラム世界では

 

歴史的には15世紀、現在のトルコの都市イスタンブールにオスマン帝国が生まれました。17世紀の最大地域は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域です。19世紀以降、イスラム世界はヨーロッパの帝国主義に侵略されました。オスマン帝国にもイギリス、フランス、ロシア諸国が進出し、帝国は弱体化しました。アラブ地域はイギリス、フランスの帝国主義勢力に分割支配されてしまいました。

現在のアラブ・イスラム世界ではアルジャ・ジーラ(アラビア語でアラビア半島等の意味)の言葉、紋章(葉っぱを立てたような紋章)が新聞、メデイア等ではよく目につきます。このアルジャ・ジーラの言葉、紋章は、再びアラブ・イスラム圏から国境が無くなり統一したアラブ・イスラム圏再来の願いが込められているとも言われています。

中東地域では欧米等支配が強化される一方で、アジアでは有色人種国日本がロシアとの戦争で勝利・・・イスラム世界からは一斉に称賛の声が上がりました。日本は世界中でヨーロッパ帝国主義に抵抗する国々にとって希望、勇気の光となりました。この称賛を忘れないためトルコのイスタンブールには、「乃木通り」、「東郷通り」があります。

トルコ・オスマン帝国の弱体化の一因は、北から進出してきたロシアでした。両国の戦争でオスマン帝国は惨敗、オスマン帝国は長年ロシア帝国主義の進出に苦しめられ、多くのトルコ人はロシアに怨念を抱いていました。そのロシアに、日本が勝利した、日露戦争ことで、日本を称賛する感情が沸騰しました。トルコ人は日本人に対し、強い親愛の情を持ったと言われています。トルコでは、「トーゴー」「ノギ」「ジャポン」という名前を子どもにつける人までいたと言われています。

ムスタファー・カーミメル(1874~1908)は、エジプトの民族主義者です。著書「昇る太陽」の中で、日本の歴史こそ、東洋の諸国に最も有益な教訓を与えてくれるものと信じると書いています。

エジプトの詩人・ハーフェズ・イブラホヒーム(1872-1932)は、日露戦争の従軍看護婦のことを称賛し、「日本の乙女」(長文の詩)に載せています。今でも学校で子供達にこれらの事実が語られていると言われています。

ロンドン亡命を終えてスエズ運河を通過中の孫文は、あなたは日本人かと尋ねられた。中国人だと答えると、中国は日本に近い。日本がロシアに勝ったことを我が事のように喜んでいると、日本人に伝えてくれと頼まれたそうです。

 

サウジアラビアのテレビ番組「ハワーティル」は、日本の文化や日本人の生活様式をアラブ世界に紹介する番組でした。ハワーティルとはアラビア語で「改善」という意味で、2009年の8月~9月にかけてのラマダーン期間中に放映され記録的な視聴率を上げました。放映で日本へのサウジアラビア人観光客が増加したと言われています。
番組では日本の小学生たちが放課後、教室を掃除する光景を紹介したところ、大きな反響を呼び、サウジアラビアの一部の学校では教室の掃除を生徒たちで行うようになったと言われています。
サウジアラビアと日本で、路上に財布を置いておいたらどうなるか、隠し撮りの実験が行われました。サウジアラビアでは通行人が財布を見つけると、お金だけとって去ってしまいました。一方、日本の通行人は財布を拾い、交番に届けました。この番組を見たUAEAのムハンマド・エル・ターイブさんは、「2030年のイスラム世界を決めるのは若者である。日本人は古い伝統、習慣を維持しながら、急速な経済発展を実現しています。我々は日本を教訓にしなければならないと語っています。

「ハワーティル」では、アル・シュガイリーさんが日本人の道徳性と経済発展の秘訣を結びつけ視聴者に紹介していました。日本人の礼儀正しさはイスラムの原理と共通するものと見ているようです。
アラブ世界に住むたくさんのブロガー、思想家、作家、聖職者等はこの番組を見て様々な感想を寄せています。中東・北アフリカは日本に感謝するというウェブページを運営するサウジアラビアの女性ブロガー、「サミーヤ」は、私たちの第一歩は誤ったものを認めて修正することです。それを「ハワーティル」が教えてくれましたと書いていたそうです。

 

ワファと名乗る一般チュニジアの女性は、日本とアラブ世界を比較して、日本人の清潔、規律正しさ、迅速な行動、互いの尊重、年長者への敬い、自尊心、環境保全、モラルなどを絶賛しています。イスラムの人々が日本人を評価するのは、彼らが理想とする心意気や感情を日本人がそなえているからです。

欧米の個人主義にはない人情やウエットな人間関係と面倒見の良さです。日本人の多くは欧米、イスラムの価値観、文化等を尊敬しています。世界の未来を考えた場合、イスラムの人達も欧米の価値観、文化等を理解することは必要だと思います。

 

2000年10月に来日したイランのハタミ大統領は、「言葉に絶対の信を置く西洋に対し、日本の禅やイランのイスラム神秘主義は、沈黙から多様な示唆と寓意を汲み取ろうとします。相手の言うことに耳を傾け、相手の立場を重んじるのが東洋とアジアの風土的特性です。禅とイスラムには、底流において相通ずる精神と思想が流れていますと記念講演をしました。

1951年、イラン内でイギリスが操業していた石油施設をイランが自国益の為に国有化しました。アングロ・イラニアン石油会社や国際的な石油企業(メジャー:資本力と政治力で石油の探鉱、生産、運輸、精製、販売まで全段階を垂直統合で行い、シェアの大部分を寡占する石油系大企業複合体)はイラン原油を国際市場から排除しました。その石油を日本の出光が積み出し、救世主と言われました。

この歴史事実は2016年12月10日、「海賊と言われて男」として映画化されました。永遠の0の原作者・百田尚樹が手がけた400万部超えの大ベストセラー小説を基に、戦後の日本に大きな勇気と希望を与える大事業を成し遂げたひとりの男の実話を映し出しています。

過去、日本はアメリカとは異なる独自の対イラン政策をとってきました。イランには、その日本に対する親近感があります。2000年10月にハタミ大統領来日したときにアザデガン油田の優先交渉権が日本に与えられ背景です。日本がアメリカの対イラン封じ込めに必ずしも同調しないことか、イラン政府の日本に対する信頼となっていました。

ジャナドリヤ祭は、サウジアラビアで年1回行われているそうです。この国最大の文化祭で、日本のマンガやアニメを紹介されているようです。サウジアラビアやヨルダンの若者たちは、「ナルト」、「ワンピース」、「BLEACH」、「銀魂に夢中になっていたようです。日本のマンガには、アメリカなどのスーパーヒーローがいません。主人公に親近感を持つことができます。容易に感情移入ができると言われています。特に1990年代、イランでは、「おしん」のテレビ視聴率は80%を超えています。イラン人は日本人を見て、更に親近感を持ったそうです。

イラク戦争の際、自衛隊は人道復興支援のためイラク南部の都市サマーワを中心に活動して2006年7月に撤収しました。現地誌サマーワ新聞は、自衛隊員のことを高い倫理を保持した人々と形容しています・・・他国の人々を尊重し、他国民家庭や職業に敬意を払う立派な文明を伝統をもっていると、心から絶賛したと言われています。残念ながらこれらの事実は日本国内での報道はほとんどありませんでした。

 

今後、日本とイスラムの関わりは更に増すでしょう。日本を心から尊敬していると言われるイスラムの人達、いい面ばかりでなく現実に、昨今は過去、テロ関与者に接触の疑いがあるイスラムの人が日本国内には数千人いるとも言われています。

 

日本を心から尊敬していると言われるイスラムの人達、日本は欧米の価値観を共有していますが更に武士道、大和心があり、これがイスラムの人達に尊敬される所以かと思います。今後、日本国内のイスラムの問題点も多々出ると思いますが、日本は更なるイスラムと良好な関係を築くかは私達一人々にかかっていると思います。

 


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