極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

I am grateful that I can freely write my daily thoughts

池口恵観と日本

2016-07-30 09:47:53 | 日本社会

以下文は烏帽子・最福寺ホームページ、池口恵観著、ネット資料等々を参考にした文です。

池口恵観氏(いけぐち・えかん、昭和11年11月、鹿児島県生まれ)、一説では小泉純一郎の従兄弟とも言われています。

高野山真言宗伝燈大阿闍梨・大僧正
百萬枚護摩成満行者
鹿児島市烏帽子山・最福寺法主
医学博士

俗名は鮫島正純(さめじま まさずみ)、鹿児島県肝属郡東串良町で醤油屋の息子として生まれ、高野山大学文学部密教学科卒業後、俳優を目指して上京、広告代理店勤務(週刊文春2013年4月11日号)・・・平成11年、山口大学博士(医学)号を取得・・・「医宗同源」を長きに渡り伝えています、病気はお医者さんが治すものであり、僧侶の役目は葬式であると言われてきました。本来、病気の人を癒す役割、宗教と医療は密接なつながりを持っているとしています。

 

池口恵観氏(いけぐち・えかん)・・・多くの方は誰ですかと言われると思います。大僧正、最福寺法主、医学博士・・・松尾芭蕉、利休等も○○ガ○○で自身をカムフラジュし日本の国体を裏から支えていました。池口恵観氏は日本社会の一部を動かしている方かもしれないですし、日本社会に大きな影響を与える日本人の一人と言えそうで、○○ガ○○かどうかは分りません。

池口恵観氏といえば真っ先に思い出されるのが、三無事件の関係者として逮捕されたこと。

三無事件とは、1961年の12月に摘発された陸上自衛隊少壮幹部によるクーデター未遂事件、これは、安保闘争などによる日本の共産化に脅威を感じた幹部たちが、政府要人暗殺を図った事件だったと報じられています。戦後初のクーデター未遂事件で、破防法が初めて適用された事件としても有名です。池口恵観氏は、当時の衆議院議員・馬場元治の秘書となり、国会議事堂内へ襲撃するタイミングを図る役割を担っていたと言われています。三無事件には韓国、台湾など反共陣営の青年の協力があったとも言われています。

特筆すべきは、宗教は人を差別しないとの自論から、思想信条・職業を問わず暴力団員からハイジャック犯まで、あらゆる人から相談に池口恵観氏は対応されています。相談する方々は池口恵観氏に対し大きな信頼感を持っているでしょうし、やはり何か引き付けるものがあると言えるでしょう。

平成19年9月には指定暴力団住吉会傘下の右翼団体・日本青年社の総会に来賓として招かれ、その後も日本青年社の機関紙に度々寄稿、平成24年度の日本青年社全国議員同志連盟・社友総会は最福寺関東別院で開催されています。石川県護国神社において、頑張れ日本!全国行動委員会会長・田母神俊雄氏と共に神官仏僧合同大東亜聖戦祭を開催されています。

 

一説では真言宗に関心があるとも言われる安倍総理等々、多くの政治家と親交、指南役?があることから永田町の怪僧と言われてるようです。

 特に北朝鮮との親交に関しては、池口恵観氏の右に出る人はいないとも言われ、北朝鮮と本音で話せる方とも言われています。

池口恵観氏は訪朝の理由に・・・日本が歴史的に韓国と北朝鮮に対して大きな犠牲を抱かせ、韓半島の多くの国民が日本に恨みを持って亡くなったことに対し、素直に謝罪し慰霊したかったことを挙げ、真の懺悔と謝罪があってこそ相互友好関係が生じるとの考えから、韓国と北朝鮮を毎年定期的に訪問して慰霊祭と平和祈願祭を開くことを思案されています。

北朝鮮に関しては、まずは日本が北朝鮮に対して、過去の植民地統治に関する戦後補償と謝罪をして、それから日朝国交正常化をするべきだと主張しています。

池口恵観氏は朝鮮労働党や北朝鮮外務省の高官やよど号ハイジャック犯と会談しているほか、2012年に開催された金日成生誕100年祭にも出席、数多くの北朝鮮への貢献により、北朝鮮から勲章が授与されています。

2011年12月、朝鮮労働党中央委員会総書記・金正日氏が死去した際には、朝鮮の大いなる指導者、金正日総書記閣下が地方指導に向かう途上で亡くなられたのは、とても痛ましく悲しい、朝鮮半島の平和と繁栄、日朝国交正常化を金日成主席と共に見守ってほしいと哀悼の意を示しています。

池口恵観氏の日本救国論は、法主の生き様が記されています。最福寺発行の月刊誌「最友」に連載され、池口恵観氏の朝鮮半島に対する見方の一端が分ります。

 

他方、サウスチャイナ・モーニング・ポスト(香港がイギリス領であった1903年に創刊された伝統ある英字新聞)は過去、池口恵観氏が暴力団関係者、指定暴力団住吉会や指定暴力団九州誠道会と密接な関係にあると報じています。

昭和42年、宗教法人「波切り不動最福寺」を設立、昭和46年、学校法人最福学園を設立し幼稚園等経営、平成元年、百万枚護摩行達成行者、ロシア、フィリピン、日本の数多くの大学の客員教授・非常勤講師の肩書きがあります。

 

客員教授

北海道大学、兵庫医科大学、岡山大学医学部、京都府立医科大学、高野山大学

非常勤講師

山口大学医学部、広島大学医学部、広島大学歯学部、金沢大学医学部

大分大学医学部、弘前大学医学部、鳥取大学医学部、産業医科大学、久留米大学医学部、高知大学医学部、大阪大学健康体育部、福井大学医学部

ロシア連邦ハバロフスク医科大学客員教授・名誉医学博士

ロシア連邦アカデミー東洋学研究所顧問・客員教授・名誉歴史博士

ロシア極東国際関係大学名誉教授

フィリピン大学客員教授

メディポリス医学研究財団名誉理事

 

2005年4月にはミャンマーのヤンゴンにある日本人墓地にNPO法人アジア地域戦没者慰霊協会の事業で戦没者慰霊碑群を指定暴力団住吉会会長・福田晴瞭、指定暴力団山口組若頭・高山清司、同舎弟・英五郎らと共に建立、また、弟子たちには常に、人は存在するモノが5%しか見えていない。この世に誰でも光を持って生まれてくるが、玉も磨かざれば濁ってくる。それを光り輝くものにするか、曇って暗くするかが今生の分かれ道であると語っておられます。

池口恵観氏が法主を勤める、鹿児島県鹿児島市平川町にある単立(高野山真言宗ではありません。)烏帽子山最福寺には、松本明慶大仏師による国内最大級の木造仏・大弁才天(高さ18.5メートル)と、北朝鮮の初代指導者である金日成主席を尊敬する意味から金日成主席観世音菩薩が鎮座しているそうです。

昨今の有名な話題では、2013年3月に最福寺が在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)中央本部(東京都千代田区)の土地・建物を45億1,900万円で落札しましたが、池口氏は北朝鮮政府高官(最高人民会議幹部)からの要請に基づくものであり、落札後には同土地・建物を朝鮮総連に貸与する予定であることを明らかにしています。

同年5月9日、落札代金を融資してくれる企業と交渉が成立した発表したが直前になり購入を断念、5月10日最福寺別院の江の島大師で記者会見を開き一連の経緯を説明、会見では融資に関して何らかの圧力があったとと述べています。

池口恵観氏は陰陽社会とも言われる本当の日本、私達は日本社会の一端を知るには、池口恵観氏を研究すれば日本社会の一端を知る近道があるかも知れないですね。

 

池口恵観氏の著書

蒋介石 その偉大なる生涯(1976年、論稿社)

池口恵観講話集、全5巻1997年~1998年、高野山出版部

阿字(2005年、リヨン社)

蒼天の龍(2011年6月、高城書房出版)

ヘタな人生論より空海のことば、矛盾や不条理だらけのこの世の中を、どう生きようか(河出文庫)』(2011年8月5日、河出書房新社

苦しみはどこから生まれるのか?(角川oneテーマ21)』(2012年1月10日、角川書店(角川グループパブリッシング)

弘法大師空海 、三教指帰」生死の苦源から覚りの安楽へ(ロング新書)(2012年2月24日、ロングセラーズ)

他、新書判を主に多数の著作があります。

 

 


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尖閣上空

2016-07-27 13:03:30 | 日記

東京/キル・ユンヒョン特派員(2016-07-05)http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/750991.html訳H.J

尖閣上空での日中戦闘機、一触即発の記事で韓国内に報道された内容です。

これらの事実は産経新聞の6月30日の1面トップ以外、殆どのマスコミ報道は少なめに感じますし、政府は何か事を大きくしたくないか?伏せたいのか?臭いものには蓋をしろ?政府は凛とした態度で対応すべきだと思います。

元航空自衛隊、空将の織田邦男氏のブログで事実が分りましたが、織田邦男氏がプログに記しなかったら私達はこの現実を知ることは無かったように思います。私達はこの現実を重く受け止めるべきです。

現実に尖閣付近上空で起こっている一触即発の状況、これら尖閣の現実は私たちが思っている以上に厳しいと思います。政府は日本の置かれている、これらの現実から逃避することは出来ないし、対応は綺麗ごとでは済まないでしょう。

中国は尖閣上空は自国の防空識別圏(根底は尖閣は中国領)としており、今までの尖閣以外の自衛隊機のスクランブル(1エレメント、2機)のように、相手機に対し、優位な位置での警告等々は出来ないでしょう。当然、中国機は自国領空、自国防空識別圏と思っているでしょうから、自衛隊機に絶対に優位(後方上空等々、即相手機を射撃出来る位置等々)な位置を取らせないように機動するでしょう。

 

自衛隊機F-15は、中国機SU-30に対し、自己防衛措置(フレアー、対ミサイル赤外線妨害弾)を使用しながら戦域離脱したとされ、緊迫度は相当高いと思います。尖閣上空での自衛隊機スクランブルは、秘に該当すると思いますが、今までとは違ったスクランブル対処をしているかも知れないですね。

これらの事実は元航空自衛隊、空将の織田邦男氏は那覇基地のパイロットから情報を得たと言われています・・・自身のブログに中国戦闘機に攻撃動作を仕掛けられた空自戦闘機は、自己防衛措置(フレアー、対ミサイル赤外線妨害弾)を使用しながら戦域離脱したと記されています。

自衛隊機F-15が自己防衛措置(フレアー、対ミサイル赤外線妨害弾)を使用、離脱したということは、自衛隊機は劣勢の状況だったか?

過去、米国のF-15とインドのSU-30との格闘戦では、多数回インド側のSU-30が勝利したと言われています。日本も更なる戦闘機の質の向上が必要と思います。日本もステルス機・F-3等々高性能機を早急に開発すべき時期にきているかも知れませんね。

 

以下文は韓国内で報道された内容です。

 

原文

中国は日本のF―15が中国軍機にレーダーを照準(火器管制用レーダー)、日本は中国のスホーイ30が戦術機動(敵に対して戦術的な優位を占めるために実行される機動)・・・日本が先に(火器管制用)レーダーを照準した。

先月6月17日に東シナ海上で起きた中日戦闘機の対峙は、航空自衛隊F―15戦闘機が中国の戦闘機のミサイル攻撃の脅威を検出し、赤外線妨害弾まで発射しながら、現場から離脱する一触即発の状況が発生したことが確認されています。

中国国防部は7月4日、中日戦闘機の間で起きた先月の対峙について・・・2機のスホーイ(Su)30戦闘機が東シナ海海上の防空識別区域(ADZ)をパトロールしていたが日本のF―15戦闘機2機が急速接近、中国の戦闘機に向かってミサイル発射用、火器管制レーダーを照準、対し中国軍が戦術機動などの措置を取ると日本のギガバイト赤外線妨害弾を噴射しながら回避したと明らかにしました。

 

6月28日、元空将の織田邦男氏は、自身のブログに中国戦闘機に攻撃動作を仕掛けられた空自戦闘機は、自己防衛措置を使用しながら、戦域離脱したと書いており、産経新聞が6月30日その事実を1面トップで取り上げ、日本国内で大きな波紋を呼びました。

 

中国軍戦闘機が、両国が領土紛争中の尖閣諸島(中国名・釣魚島)を含む南西諸島付近に姿を現し、緊急発進(スクランブル)をしたと認めました。萩生田光一、官房副長官も両国の戦闘機が近距離で攻防を繰り広げたことを認め、中国が2013年10月東シナ海に一方的に設けた防空識別区域に、中国軍戦闘機を送ってパトロール活動をしたと明らかにしました。

尖閣諸島周辺の上空は、中日の防空識別区域が重なる地域であるため、中国空軍の動きが捉えられると、日本としても対応せざるを得ない。特に時間的な余裕をもって相手の意図を把握できる海軍同士の対峙とは異なり、空軍の対峙は小さな判断ミスが計り知れない破局的な状況をもたらす可能性がある。

 

日本の航空幕僚監部資料では、日本が中国、ロシア空軍に対応して緊急発進数は、2000年代半ばまでは1年に100〜200回前後にとどまっていたが、中日の対立が深まってからは500回以上、2014年には943回、2015年にはそれよりも少し減った873回を記録しています。中日間の偶発的な衝突のリスクも大きくなっていると言われています。

 


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国外に眠る、旧日本軍将兵の未帰還遺骨

2016-07-23 09:38:36 | 日本社会

もうすぐ8月・・・戦後71年以上が経過しようとしていますが、私達が忘れてならないのは、先の大戦で国外で戦死した旧日本軍人は約240万人、その内の約113万人(厚生労働省ホームページ報道発表資料 2011年8月 戦没者慰霊事業のお知らせ)の遺骨がまだ未収集と言われ、旧日本軍人113万人の遺骨はまだ日本に帰っていません。昨今は報道さえありませんし、これらの事実を日本人は忘れてしまったように思います。

自国の軍人が国外で戦死した場合、如何なる理由の戦いにせよ、世界の何処の国も遺骨を持ち帰るのを旨としています。

日本は国家としての体を成していないと言えると思います。戦の理由がどうであれ・・・現在でも全部の遺骨収集は難しいかもしれませんが、本気で遺骨収集をしようと思えば、可也の遺骨が収集可能と思います。一番の問題は予算(お金)でしょう!日本は情けなく、寂しい国ですね。

地域別、残存遺骨概数 (平成23年8月12日現在)

 中 国 本 土27,230 

 中 国 東 北 部206,220 (ノモンハンを含む)

 樺 太、千 島 等 22,680  

 ロシア(旧ソ連)33,740 (モンゴル含む)

 硫  黄  島12,360 

 中 部 太 平 洋174,330 

 フ ィ リ ピ ン369,480 

 タ イ、 マレーシア等800 

 ミ ャ ン マ ー 45,610

 イ  ン  ド10,060 

 北 ボ ル ネ オ5,090 

 インドネシア20,370 

 西 イ リ ア ン20,050

 東部ニューギニア77,290 

 ビスマーク・ソロモン諸島62,230  

 その他の地域* 49,000(韓国、 北朝鮮、 台湾、 ベトナム、カンボジア、 ラオス他)

 

世界広しと言えど、戦争で亡くなった国外放置の自国兵士の遺骨を持ち帰らない先進国は無いようです。今でもって海外に置きざりにされている113万人の将兵の遺骨、これらの事実に対し、心ある多くの日本人は国に対し大きな疑問を呈してるでしょう。

米国の例を記します。
朝鮮戦争で北朝鮮側にあった米軍兵士遺骨を、全部では無いですが反米の北朝鮮側と、粘り強く交渉し持ち帰っています。
行方不明者、数千名の米兵の遺骨捜索を支援するために、1996年から2005年までの間、2050万ドルを北朝鮮に提供しています。北朝鮮の遺骨収集事業で米国が朝鮮戦争で戦死した米兵士の遺骨に1柱20000ドルを支払っております。

1995年、ベトナムを訪問したウィリアム・ペリー国防長官の第一声は、未だ行方不明となっている将兵の捜索に協力してほしいでした。米国は遺体、遺骨を確認するまで捜索しています、その間は戦死者としてカウントせず、行方不明者としています。
遺骨が確認されると、星条旗に包んだ棺に納め、衛兵に守られて祖国に帰還します・・・多くの遺骨が首都ワシントン郊外のバージニア州・アーリントン 国立墓地に葬られます。
1990年、ベトナム戦争当時行方不明になった米軍兵士(MIA)捜索に当たっていた米軍調査団が、カンボジアのプノンペンで米軍兵士(MIA)とみられる6柱の頭骨、歯などをヘン・サムリン政権から引き取り、米ハワイ州に移送しています。
米国と日本、天と地の差の違いは何だろうかと思います、日本の将兵も日本の為、未来を信じて戦ったはずです。

安倍晋三首相は2013年4月14日、太平洋戦争末期の激戦地となった硫黄島(昭和43年6月、硫黄島、父島など太平洋に浮かぶ30あまりの島々からなる、小笠原諸島が米国から返還)で戦没者追悼式に出席し、祖国の安寧を祈願し遠く離れた家族を案じつつ戦場に散った方々の思いを致すとき、悲痛の思いが胸に迫るのを禁じえません。心からご冥福をお祈りしますと追悼の辞を述べ、献花をしています。

精根を込め戦ひし、人未だ地下に眠りて島は悲しき(天皇陛下)
慰霊地は今安らかに水をたたふ、如何ばかり君ら水を欲りけむ(皇后陛下)

硫黄島の戦没者は約21900人のうち遺骨の収容は10350人の半数にとどまっていると言われています。対する米軍は日米大戦で初めて死傷者数が日本を上回っています。日本側21000人死亡、アメリカ側死傷者27909名(戦死者6825名)となっています。

安部総理は滑走路(海上自衛隊管理)の下に埋もれている遺骨を持ち帰る為に、硫黄島の滑走路を剥がして遺骨を収集するとのことです。(サンケイ新聞)、まだ多くの将兵の遺骨が間違いなく滑走路の下に埋もれていると言われています。
滑走路はサンフランシスコ条約でアメリカ領となった時、舗装が行われたと言われています。現在、米軍空母艦載機の厚木での夜間飛行訓練などをやらない代わりに硫黄島を提供していると言われています。硫黄島は日本の領土で、日本に主権がある場所でもあり、米軍は日本側に理解を示すと思います、是非早急に実現してもらいたいですね。

戦後、初めてこれらの遺骨収集を具体的に決断した戦後初の安部総理・・・戦後71年以上が経過しました。
戦後、多くの総理はこれらに対し何もしていません、日本人将兵の遺骨を何と考えていたでしょうか、日本国はあまりにも酷すぎです。

戦後初の安部総理の決断、これらの遺骨収集によって、初めて日本の戦後が終わることを意味するかもしれません。
安部総理の決断は、間違いなく戦後日本の新たな一歩になると思います。
私達日本人は、これらの未収集日本将兵の遺骨が、113万人もある事実を忘れてはならないと思います。日本の未来を信じて戦い、亡くなった将兵です。

高田 好胤(たかだ こういん、大正13年生まれ)、法相宗の僧、薬師寺元管主、法相宗管長は国外の日本人将兵の自費遺骨収集に情熱を傾けましたが、厚生省は20回以上の高田好胤氏の自費遺骨収集申請に対しすべて拒否しています・・・本当に日本という国は情けなく、寂しいです。

 

もうすぐ8月、終戦・・・私たち日本人は忘れてはなりません、国外113万人の日本人将兵未収集のままの放置されている遺骨、これらの事実を日本人として知ることは大切だと思う昨今です。

文は、読売、サンケイ、厚生省資料等々を参考にしています。

 


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スカイマークの17年間

2016-07-19 14:27:02 | 日本社会

国内航空3位のスカイマーク(社員1947名、保有機ボーイング737、27機)は7月14日、今秋から導入する客室乗務員と地上職員の新しい制服を発表、新しい制服は紺色をベースに会社のブランドカラーである黄色を織り交ぜています。

女性はスカーフ、ジャケットにワンピースやパンツを組み合わせ、男性はスーツとしています。デザインは社員から公募、市江正彦社長は発表会で「しっかりとした落ち着いたサービスができる。今までと違うスカイマークを意図した」と述べています。

やはり制服は航空会社にとって顔でもあり、社員にとっては誇りでもあると思います。

 

1998年9月19日、スカイマークの一番機B767は羽田から福岡に向けて飛び立ちました。JAL、ANA、JAS3社の寡占体制に風穴が開いた瞬間です。

1998年スカイマークの誕生から現在までは、何か閉鎖されたような既得権が見え隠れする日本の航空業界で生き残ることは厳しかった一面があるように思えますし、他の新規航空会社が大手に屈する中、スカイマークは最後まで独自性を貫きました・・・日本の航空業界で既得権者、天下り等々を受け入れることなく独自性を貫くことは凄いことだと思います。

素人が思うのは、A380問題・・・

2010年1月にJALが経営破綻した際、ジャンボ機(B747)を手放しました。その12機をスカイマークが現金で買いたいということでしたが、1機10億円でまとめて買い!当時は資金にも余裕があったようです。

「即刻断られています!」

理由はスカイマーク参入は運賃は下がる!

本当に理不尽な話です。難しい運航のノウハウもありますが、この時JALの747機を購入していたらスカイマークに経営はかなり違っていたかもしれません。利用者に計り知れない恩恵を与えていた可能性があります。

今後も、是非、安全第一の低価格航空会社として日本に更なる拡大、定着を確かなものにしてほしいと思います。

米国国内の大手LCCのサウス・ウエスト航空も誕生時、一部既得権等々の問題がありましたが、全社員の努力により見事の克服、現在は米国を代表する最も安全で低価格の大企業LCC航空会社になり、世界をを代表するLCC航空会社です。私自身、米国で何度も利用しましたが、安全性、定時制、低価格等々、一口で言えば手軽に利用できる素晴らしいLCCです。

先進国世界で最もLCCが少ない日本・・・スカイマークも日本版・サウス・ウエスト航空のように是非なってほしいです。

誕生からの激動の17年間を如何にLCCとしてスカイマークは生きてきたか、以下文のは報道されていない内容を記しています。資料は中川 雅博氏(東洋経済 記者)2015年、退任前のスカイマーク井出会長のインタビューの概要で、コピー、加筆しています。

  

大手の寡占状態が続いていた航空業界へのスカイマーク新規参入には、法制度や空港の発着枠など多くのハードルが立ちはだかりました。

当時の航空法は新規会社を入れる前提では有りませんでしたので、オペレーターとして飛行機を飛ばすだけの会社という位置づけでした。

当然、整備、乗員養成、グランド・ハンドリング(地上支援業務)はどうしても大手に委託せざるを得ず、全て了解を得なければなりません。

航空機の整備は閑散期に行うものですが、委託先の大手は当然自社機を優先、我々はかきいれ時の繁忙期にしか入れられません。

就航当初は2機でスタートしたが、3機以上は受け入れられないとも言われました。

航空ビジネスは一定の機材と路線を持ち、規模のメリットを出さなければいけません。これから飛行機を導入したいという時に自由が利かない状態でした。

整備も運航も3カ年計画で完全に自立しようと決心、そして3機目の購入資金が必要だったため、2000年5月に東証マザーズに上場しました。

増機するには、路線も確保しなければなりません、大手航空会社にとって既得権益だった羽田空港の発着枠を獲得する必要がありました。低価格運賃によって新たなマーケットを作り、十分に国民の利益になっていると、新規航空会社が果たす役割を国土交通省に伝え、有識者懇談会で道を開いてもらいました。

そこから、5年ごとに発着枠の見直しをして、必要に応じて回収し、再配分しようという建設的な議論になりました。だからこそ、我々が新規航空会社のパイオニアだという意識が強いと思います。

これまでにスカイマークは大きな危機に3度直面しました。

 

1回目の危機・・・

当時路線は羽田―福岡線のみ、2機で6往復

運行開始時に「半額キャンペーン」というスカイマークのディスカウントサービスの計画に、所轄官庁の運輸省(現・国土交通省)が激怒し、事業認可を下ろさなかったとも言われています。

大手が福岡線だけ一気に値下げし、運賃競争に入りました。続けて、九州北部のほかの空港に乗り入れる路線についても、福岡だけに流れるのを防ぐために値下げしました。

九州内で釣り合いを取るため、逆に九州南部の路線は値上がり、我々の搭乗率は、1999年6月には30%まで低下、不渡りを出す寸前でした。そこで3機目を鹿児島に入れることにしました。

九州北部では運賃競争に入ったため厳しい、そんな中で我々は鹿児島にも入って南の運賃を下げようとしました。

そうして九州全体の運賃を下げれば、当時九州で全体の6割の収入を得ていた当時の日本エアシステム(JAS)が疲弊するだろうともくろみました。そこで放出される発着枠を使って拡大しようという算段でした。

2001年9月11日、米国同時多発テロ、JASは経営危機に陥りました。

その後、日本航空(JAL)との合併で枠が回収再配分され、我々の枠を増やすことができました。

 

大都市を結ぶ幹線に入らなければ、運賃競争は終わらない、という持論を持っていた井手氏は九州だけでなく北海道や関西、沖縄に注目しました。高い頻度で飛ばすとなると、より小型の機材が必要になります。当時運航していたB767からB737へと移行する計画が進みました。

次のステップに入ろうとしていた矢先にまたしても危機に直面、B737へ移行するときに整備も完全に自立させようということで、大手との委託契約をやめようと動いていました。そんなときに修理期限の過ぎた機体で運航していた問題が発覚、2006年4月に業務改善勧告を受けました。マスメディアにも叩かれ、他社もネガティブキャンペーンを展開され客数も随分減りましたが、結果的には効率のよいB737への入れ替えもでき、羽田―新千歳線という幹線にも就航できました。

2004年1月、前年に筆頭株主となっていた西久保愼一氏が社長就任、インターネット業界で名を馳せた経営者の異例ともいえる転身でした。

西久保さんは、自立した第三の航空会社に仕上げるんだといって投資してくれました。(IT業界出身なので)予約システムも作ることができるのも大きかったです。小型機材を高頻度で飛ばす計画を前に進める重要なステップでした。

澤田さん(スカイマーク創業者)はどちらかというと大手の傘下に入った方がよいという考えを持っていました。西久保氏がオーナーになっていなかったら独立性を保てなかった可能性は高いと思います。

西久保氏の社長就任後、整備士や乗員の退職が相次ぎ、事業に支障を来した局面もありました。同氏が取り入れた成果主義的な人事制度が原因ではないかという声も相次ぎましたが、西久保さんが何かをしたからということではないと思います。

乗員や整備士は他社、特にJALやANAと待遇を比較します。しかし、我々が低価格を提供し続けるにはコストを抑えないといけません。一部には独自の労働組合を作ろうとする動きもありましたが、そこだけ待遇が上がると他も上げなければなりません、それでは経営は無理です。スカイマークの方針に賛同できないのであれば出て行ってもらっても構いません、という話が大げさに伝わったのだと思います。

1度目の危機のときにはエア・ドゥは大手の傘下に入りましたが、我々は自立のためにずいぶん合理化を実施しました。でも、雇用は守ると言い続けました。

 

2回目の危機・・・

スカイマーク社長としての西久保氏には批判、トラブルが多かったと言われています。

西久保氏は社内で生産性の向上、コスト削減などを目的に成果主義を徹底、IT業界の常識を航空業界に持ち込みましたが抵抗も多かったようです。2008年には機長の相次ぐ退職が原因となる大量欠航、就航から程なくでも、不採算と見るや、その路線からあっさりとうた撤退していく経営姿勢を公共性に欠けると非難する声も多かったようです。

ひたすら効率を追い求めていきました。制服を原則廃止、ポロシャツに統一したのも西久保流、制服に着替えるのには更衣室もいるし、その時間にもコストがかかる。地上職、客室乗務員、機内清掃など一人で何役もこなせるようにしました。ほぼ全員を正社員化して社内異動を頻繁にし、欠員が生じにくい体制も整えました。

ボーイングの中型機767(265席程度)を使用していたが、2009年10月に737(全席エコノミー、177席)への統一を完了、パイロット訓練や整備などの負担、関連費用の軽減とともに、機材の小型化で搭乗率も高まりました。

一連の改革によって、万年赤字だったスカイマークは、高収益企業に変貌、2011年3月期~2012年3月期は2年連続で100億円を超える営業利益を出しました。

 

西久保氏の持ち味は、目まぐるしく趨勢が変化するIT業界で得た経営変革のスピード、徹底した効率化の追求、さらには、ゼロの持ち株の一部や、ネット接続事業をGMOに売却したような、タイミングを見極める目利き、今回はそれが生きなかった。算段はことごとく外れました。

A380購入契約を結んだ当時は1ドル=80円近辺で推移、アベノミクスによって一気に同100円超まで円安、ドル建てで調達する燃料費や機材費の負担が膨らみ、収益を圧迫し始めました。A380の購入費用も円安とともに上昇していきました。

1ドル=80円前後という空前の円高がスカイマークの高収益を支えていた側面もあったと言われています。

 

そろそろ利益が上がってきたから、もう少し待遇をよくしてほしいという話でしたが、大手並みにはできないし、整備士や乗員だけ特別扱いはできない。創業時からみんながチームでやるのが基本です。子会社をつくって下請け構造にするのではなく、全員正社員で皆同じ立場で仕事ができるようにしようと努めてきました。

 

3回目の危機

経営破綻・・・2度乗り越えた先に待っていたのは、最悪の事態でした、いったい何が分かれ目となったのか?

A380導入による国際線進出計画、2010年11月にエアバスと基本合意、2011年2月には購入契約を締結、A380はファースト、ビジネス、エコノミーの3クラス構成の標準仕様で525席、対して西久保氏はビジネス116、広めのプレミアムエコノミー280の計396席とし、エコノミーはいっさい設けないプランを編み出しました。当初想定運賃は、成田─ニューヨーク線のビジネスで往復40万円弱、プレミアムエコノミーは20万~25万円。大手の半額程度にとどめながらも、専有面積と運賃の相関から、低採算のエコノミーを排除することで差別化するとともに、利潤を得る戦略でした。長距離国際線のビジネスクラスは値段が高止まり、欧州行きもニューヨーク行きも往復100万円近い。これは暴利、相対的に割高な運賃の路線に対して、適正な利益が取れる価格で出せば勝負可能、国内線で得た実績は国際線にも応用できると西久保氏は考えました。本業の生み出すキャッシュを支払いに充てていけば、A380は問題なく買えるという計画だったと言われています。

スカイマークをめぐる情勢はその後の3年余りで激変・・・

西久保氏の持ち味は、目まぐるしく趨勢が変化するIT業界で得た経営変革のスピード、徹底した効率化の追求、さらには、ゼロの持ち株の一部や、ネット接続事業をGMOに売却したような、タイミングを見極める目利き、今回はそれが生きなかった。算段はことごとく外れました。

 

A380購入契約を結んだ当時は1ドル=80円近辺で推移、アベノミクスによって一気に同100円超まで円安、ドル建てで調達する燃料費や機材費の負担が膨らみ、収益を圧迫し始めました。A380の購入費用も円安とともに上昇していきました。

1ドル=80円前後という空前の円高がスカイマークの高収益を支えていた側面もあったと言われています。

為替相場を正確に予測するのは難題であるが、自社に最も有利な為替相場を前提として、大型投資を決断したのだとしたら、西久保氏も認めた甘さがあったと言われています。

正直な話、円安が一番大きかった。すでに導入を決めていたA380の購入費用と、中型機A330のリース費はドル建てだったので、大きな負担となりました。

これらは1ドル=80円前後だったときに決めたプランです。1ドル=100円まで円安が進むことは想定していたが、120円になったときはもうダメだと思いました。飛行機を選定しても導入まで2~3年がかかるのが、このビジネスの難しいところです。

もう1つは、われわれがA380の購入をやめようとしたことに対し、「エアバスが初めから損害賠償をファックス1本で通告してきたこと」。「通常、状況が変化した時にはメーカー側も協力してくれる。」、契約自体を解除するのではなく、ほかの機材に変えられないか、具体的にはA330を増やせないかと検討していました。こうした経験をした航空会社はどこにもないのではないのではないでしょうか・・・

当初は、アジア市場にチャンスを求めようかとも考えました。そこでもエアアジアのようなLCCが席巻し始めていました・・・運賃競争にならないのはどこか・・・それが太平洋線や欧州線のような長距離路線でした。LCCは1社も入っておらず、大手の航空会社が競争はしているものの、運賃は高止まりしています。国内で大手からシェアを奪ってきたわれわれの成功方程式が通じるのではないか、と。そこでニューヨークやロンドン線を作るという話になっていきました。

 

この計画自体、当時は間違っていませんでした。利益率も高く、キャッシュフローは一時期400億円ほど持っていました。ドルで稼げれば、為替のヘッジにもなります。実際、大手の場合は国内線が厳しくても、国際線で収支を合わせています。

大手と同じ商品ではダメ、実は当初、僕はA380のような4つのエンジンを積む大型機材はコストがかさむので反対でした。しかし、西久保さんは全席をフラットシートにして、それをエコノミークラスとして販売するというアイデアを持ってきました。

こういう斬新な発想が彼のすごいところです。

僕が最終的に賛成に回ったのは、ギリギリ顧客がついてくるだろうと思ったからです。

普通の2~3クラス制では成功するとは思えませんでしたが、全席エコノミーのフラットシートにすれば、片道10万円、往復20万円が収益的にギリギリの線です。大手の窮屈なエコノミーに満足していない人が移動してくるだろうと見込みました。

最終的に、万が一状況が変わって難しくなったら、B737の体制に戻ろうという条件付きで役員会を通し、2010年11月に基本合意書を締結しました。エアバスとしても、伸び悩んでいたA380の販売を巻き返そうと攻勢をかけていたので、当時としてはいい価格設定にもなったいました。

 

2010年1月にJALが経営破綻した際、ジャンボ機(B747)を手放しました。その12機をわれわれが買いたいということで、入札に応じました。1機10億円でまとめて買いましょうと!当時のキャッシュフローでは100億円ほどの投資も可能だと考え、ジャンボを使って国際線に行こうと話をしていました。

だが、即刻断られました!スカイマークに参入されれば、運賃は下がる!当然、敵に塩は送れないという話でしょう!

(もし実現していたら、現在のスカイマークと違ったスカイマークとなったかも知れませんし、何より日本発低価格の国際線が誕生したと思います。勿論、大型機の運行、整備等々克服すべき問題はあったと思います。超低価格でのB747購入はA380よりも遥かにリスクが少ないように思いますし、大型機のB747現物が目の前にあり投入時期が早く、利益を上げていた可能性がありますね。)

その結果、A380で計画を進めることになりました。

 

羽田では36の発着枠を持っていますが、国交省はこれ以上国内線の枠は増やさず、増枠分は国際線に振り向けるという方針だ。ということは、国内線で生き残るには幹線で座席を増やし、収益を上げていくしかありません。

そこで、より大きな機材を入れてキャパシティを増やそうと決めました。たまたまA330を安価にリースできるという話が来たので、それを幹線だけに入れることにしました。10機入れれば、B737の時に比べて座席数が6割増しになる計算でした。

すべてエコノミーにすれば、B737と比べて2倍の座席数が取れるが、ゆったりとしたシートで運賃が安くて品質のいいものを提供しようとしました。十分にマーケットを引きつけることができると考えました。

万一うまくいかなくても、この機材であればハワイに飛ばせるので国際線にも使える、国内外両方に展開できるので、リースであればやろうという話になりました。

利益率が高かった頃は逆に円高の恩恵が大きかったのに、自分たちで錯覚していた部分もあったと思います。われわれのビジネスモデルで利益が上がっていたのだと・・・本来ドル払いが多いので、円高にすごく助けられていました。

リーマンショック後にJALが破綻し、ANAも大赤字。そんな時に、スカイマークは独り勝ち状態でした。我々は思い上がっていました。2009~2011年の頃はANAの背中が見えたとも思いました。JALと合併前のJASほどの規模になりつつあったし、国際線に進出したら一気に叩けると感じていました。

しかし、円高によって利益が上がっていたのだとすれば、3年も先のことに手を出すのではなく、そのときに機材を買って飛ばすべきでした。キャッシュフローもあったわけだから、1機でもいい、A380の導入が完了していれば問題はなかったと思います。

 

今使っているB737は2017年に製造中止になるので、次の機体を買わなければなりません。その選択肢の1つとして、エアバスのA320Neoに振り替えようとしていました。実際、ほかの航空会社がA380の購入をやめ、ほかの機材に変更する例もありました。

3月から具体的な交渉をしていましたが、交渉の途中だった7月に例のファックスが送られてきた。そこで匂わせていたのは「大手の傘下に入れ」という内容だったので驚きました。スカイマークを大手とくっつけて、A380を飛ばそうとしているのだと感じました。

ファックスが来てからは、再建が得意ではない西久保氏に代わって、僕と有森(正和・現社長)で再建の絵を描いて動いていました。法的整理についても、その計画に入れていました。

実は9月に大きな増資が入る予定でしたが結局流れました。これが打撃になりました。ただそれは、西久保さんにオーナーシップを手放してほしいという話で、素人に経営権を渡すのはいかがなものかということになりました。スカイマーク社長としての西久保氏は批判、トラブル等が多かったと言われていますが・・・

 

やはり日本独特の航空業界、渦巻く既得権益・・・新規参入LCCスカイマークにとっては物、心とも厳しい運営だったかも知れませんが、やはり目に見えない既得権は大きかったように思います。

スカイマークの参入により、日本の航空運賃の改革に極めて大きな役割を果たしたと思います。

今秋からの新制服・・・社員にとって誇りが増し、大きなステップになると思います。更なる新しいスカイマークが大きく飛翔するように思います。

スカイマークは何より創業以来無事故であり、今後も日本のLCCの草分けとして独自性を保ち、益々発展することは、大きな国民益となるのは間違いないと思う昨今です。

 


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中国人旅行者等々の日本観

2016-07-17 17:32:20 | 日中

以下文は、人民網日本語版(2016年7月14日)原文で、中国国内で中国人が抱いている日本と、訪日以後の日本に対するイメージは激変するようです。

毎日新聞によれば、2016年には499万人の中国人が訪日、多くの中国人は帰国後日本ファンとなると言われています。その証の一例が25%以上のリピーター(再日本訪問者)と思います。

中国人旅行者の増加等々についてはパーフェクト・インバウンドの資料を一部使用しています。

中国は南シナ海等で大きな問題を生じさせていますが、中国国民は真実、真相を知れば、一人ひとり生き方が変ると思いますし、訪日は、更に自分自身の生き方を加速させると思います。

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中国人は日本に到着後、即感動!

日本はまさに「悪魔の国」そのもの・・・華字

 

中国人が日本へ行くと、突然「細部の海」へ落とされたかのような気分になり、そのおもてなしには、驚きと喜びを感じ、なにかこそばゆい気持ちにさえなる。

西洋には、「悪魔は細部に宿る」ということわざがある。この基準を東洋社会に当てはめて考えると、細部へのこだわりがあらゆるところに見られる日本はまさに「悪魔の国」そのものだ。

日本人にとって、細部へのこだわりは、わざわざ取り上げられるほどではなく、当然のこととなっている。

一方、中国人が日本へ行くと、突然「細部の海」へ落とされたかのような気分になり、そのおもてなしには、驚きと喜びを感じ、なにかこそばい気持ちにさえなる。(文:劉檸。在日華字紙・中文導報掲載)

最近、微信(WeChat)では、中国のある空港の作業員がベルトコンベアから流れてきた受託手荷物をどのように扱っているかを捉えた動画が話題になった。動画を見ると、2人の作業員が荷物を運んでいるというよりは、まるで投げる練習をしているように取り扱っている。

 

一方で、日本の空港の作業員の荷物の取り扱いには、その「細部」へのこだわりが反映されている。作業員は、荷物をそっと持ち上げて、そっと置くだけでなく、スーツケースをベルトコンベアに置く時には、旅行者が取りやすいように、全て取っ手を外に向けて置いている。また、誰も取らなかった荷物は、係員がべルトコンベアから降ろし、一つの場所に固めて置いている。さらに、ベルトコンベアの落差がある所や曲がり角にも係員がおり、スーツケースが落ちてしまわないよう見守っている。万が一、スーツケースが破損してしまった場合は、航空会社がそれをメーカーに送って修理してくれる。修理できない場合も購入した際のレシートがあれば、それに基づいて弁償してくれる。この類のことは、日本ではきわめて普通のことであり、いちいち驚く人は誰もいないが、中国人にとっては、日本に到着してまず感動することとなる。

初めて日本に行った旅行者がその「おもてなし」に驚くだけでなく、何年も前に日本で生活した経験があり、今でも毎年数回日本を訪れる私でも、その細やかさにはたびたび驚かされる。私が以前にある本の中で書いたように、紀伊國屋などの本屋では雨の日に本を買うと、店員が「雨避けのカバーをかけましょうか?」と聞いてくれる。そして、レジの下から、底の開いたビニール袋を出して、紙袋にかける。すると、紙袋の取っ手だけがちょうどビニール袋から出てくる仕組みだ。

最初のうちは、「小雨なのになぜ店員は雨が降っているのを知っているのだろう?」と不思議に感じていた。しかし、雨が降り始めると館内で流されている音楽が変わり、店員は入り口や窓から遠く離れた所にいても、天気の変化を把握できることを後から知った。店員はそれに応じて、「雨避けのカバーが必要か?」と聞いてくれるのだ。これほど行き届いたおもてなしには、驚かざるを得ない。

こうした「日本流」の細やかさはどのようにして生まれ、そのクリエイティブのメカニズムや構造はどうなっているのだろう?私は特に研究したわけでもなく、発言権はないが、観察者、消費者として感じたことや発見したことがある。それは大まかに言って以下の2点だ。

まず、消費者の権利が主体であるという意識だ。消費者が感じたことやそのニーズは、クレームを含めて全て店側に伝わり、店側は「お客様は神様」という考えに基づき対応をしてくれる。店員も、時には消費者となるわけで、視点を変え、消費者の身になってその利益を考える。このように、消費者の声が、細部にまでこだわる原動力となっている。

次に、社会に良い意味での競争がある。それが、文化をさらに向上させ、悪い習慣は自然と行き場を失って消えてゆく。また、日本のビジネスは成熟しており、競争は非常に熾烈であるため、商品の品質や値段は非常にクリアで、売る側が得ることのできる利益にも限りがある。店側はサービスの質を向上して、消費者に「快適だ」と感じてもらえるようにしなければ、生き残ることはできないのだ。そのため、消費者の視点に立った、行き届いたサービスが生まれる。

最後に、私が強調したいのは、「ビジネスと商業化は別物」という点だ。現在、中国経済は急速に発展し、過熱気味だ。そして、それはかなり商業化という状態になっている。しかし、商業化が進む中で、ビジネスとしては成熟していない一面がたびたび明るみになる。本当に成熟したビジネス社会とは、消費者の権利が主体となった環境であるはずだ。そうでなければ、行き届いたサービスを提供する原動力に欠け、それが生まれることもないのだ。(提供/人民網日本語版・編集KN

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中国人観光客が増加している理由・・・

中国国内の経済発展に伴い裕福な人が増えています。

日本は中国から距離も近く、清潔で安心というイメージがあるため多くの中国人が旅行先として選んでいるようです。

中国人旅行者を支える日本等の策等・・・

2010年には日本政府が規定する中国人観光客に対する観光ビザの発給要件が緩和されました。年収25万元(約450万円)以上などの条件で富裕層に限定していたビザ発給を中間層にも緩和されています。

大手クレジットカード会社発行のゴールドカードを所有しているか、年収約6万元(約108万円)以上の収入があるなどが新しい要件です。対象者の家族の単独の旅行も認められれました。(人民網日本語版、2013-15年度の大卒初任給は9万5千円ですが・・・上海の普通の一流会社員でない人は、大卒程度で月給4万~6万円程度だったと思います、これは実際に現地の会社員と会話した内容で、地方に行けば相当安いように思います。)

2015年1月から中国人観光客に対するビザの発給要件がさらに緩和、具体的には有効期間中は何度でも日本に入国できる、数次ビザの発給要件が緩和、これまで求めていた日本への渡航歴要件の廃止や日本側身元保証人からの身元保証書等の書類要件が省略されています。

 

中国人観光客が増加している別の理由・・・

円安

2014年後半には19円以上にまで上昇(円が下落)これにより中国人にとって日本旅行がより割安に、お得に感じるようになったと言われています。12円の時と比べると約2/3の費用で日本旅行が楽しめる。これには日本で交通・宿泊費だけでなく、日本での買い物の費用も含まれます。中国人観光客が日本で爆買いする背景の大きな理由として円安の影響があることは間違いないと言われています。中国人にとって日本の商品がとても安く感じるからでしょう。

日本人同様、特に中国人は家族、親戚、友人等々へお土産等々を買う方が多いように思います。日本の高品質の数々の製品に魅了されていると思います。

 

春秋航空をはじめとする中国-日本の格安航空の便数や空港の増加も中国人観光客にとって、日本がより身近に旅行できる場所になった理由の一つと言われています。

春秋航空では高松-上海、佐賀-上海、茨城-上海、札幌(新千歳)、大阪-天津、大阪-武漢、大阪-重慶などの国際線が日本-中国間で発着、しかもチケット料金は片道3,000円からと非常に格安で購入出来るようです。

フライト・レコーダー24でパソコン上で航空機の飛行状況を見た場合、日中の航空便は凄い数です。両国にとって今後も増大すると思います。是非、フライト・レコーダー24(無料ソフト)で日中の航空便を見てください、両国の依存に驚かれるでしょう。

 

 

 

 


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虐(しいた)げられているパレスチナ・アラブ

2016-07-15 17:25:21 | 中東

 以下文は国連広報センターの資料を一部参考にしていますが、意味不明文があるかも知れませんが、プログ日記程度で読んで下さい。

 

 世界の核問題で、イスラエル(国民の大部分は、アシュケナージ・ユダヤ人で、本当のユダヤ人であるスファラディ・ユダヤ人もイスラエルには居ますが、国内では2等国民として扱われていると言われています。)は世界のマスコミをコントロールし、絶対に自国の核を問題化させません。 現在400発位の最新核兵器を保有(イスラエルが核攻撃を受けた場合、報復力温存のため一部は国外に保有しているとの説があります。)していますが、中東地域の国々の核保有は絶対に許さず、認めません。万が一その兆候が中東地域にあれば、即爆撃破壊等しています。

 国際原子力機関(IAEA)には、世界151カ国(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国等々、「北朝鮮は1994.6.13脱退」)の多国が参加しています。対してイスラエルは・・・加盟しない!登録しない!調査させない!査察させない!多くの国連加盟国はイスラエルに断固たる措置をとれない現実を認めてしまっているように思います。

 

 1967年以来、イスラエルに占領されているパレスチナ(スファラディー・ユダヤ人が大多数)及び他のアラブ領域は、強制的に土地を奪われ、人間的権利を奪われています。国連憲章違反と言われています。

 日本は国連決議を尊重する国と言われてますが、同様に武力で占領した領土(ヨルダン川西岸、ゴラン高原など)からの撤退を求めた1967年11月の国連安保理決議242号(1967年の第3次中東戦争の処理原則を定めた決議、イスラエルに占領地の返還を、アラブ側にイスラエルとの共存を求めています。一部イスラエルが撤退すべき占領地の範囲が曖昧と言う意見もあります。パレスチナ人に対して難民として言及、民族自決権を正当に認めていないとの批判がありますが、国際的には、この242号が中東和平の大枠であるとの認識が世界で広く共有されています。)を履行し、パレスチナ人との相互尊重、平和共存を図るように、例え年月が経過しようと常にイスラエルに強く促すべきです。

国連安保理決議242号(1967.11.22 占領地からのイスラエル軍撤退)

 安全保障理事会は,中東における重大な状況に関して継続的な関心を表明し,戦争によって領土を獲得することは承認しがたいこと,およびこの地域のいかなる国家も安全に存続できるような公正で永続する平和のために取り組む必要性を強調し,国連憲章の原則を達成するためには,中東における公正で永続する平和を確立することが必要であり,それには以下の諸原則が適用されなければならない。
(a) イスラエル軍が最近の戦闘によって占領した諸領域からの撤退
(b) この地域のあらゆる国家の主権,領土の保全と政治的独立性,安  全で武力による威嚇や武力行使を受けることなく安全に,かつ承認された国境内で平和に暮らす権利の尊重と承認
(c) 難民問題の正当な解決
(d) 非武装地帯の設定を含む諸手段による,この地域のあらゆる国 家の領土の不可侵性と政治的独立の保障

この現実のイスラエルへの非対応は日本ばかりでは有りません、何故か全世界も同様です。私達はこの何故か!(世界の非対応)を自分なりに精査し、世界の現実を知ることは自分自身の自己確立に繋がるかも知れません。

 

 参考資料

アラブ占領地に於ける、イスラエル入植地に関する国連安全保障理事会決議465号

(1980年3月1日、ニューヨーク)

 国連安全保障理事会は、決議446号(1979)に基づいて、エルサレムを含む1967年以来のアラブ被占領地における入植地に関する情勢を検討するために設置された安全保障理事会の(特別調査)委員会の文書S/13450、同修正1及びS/13679に盛り込まれた報告に留意しヨルダン常駐代表の書簡(S/13801)及びイスラム・グループの議長たるモロッコ常駐代表の書簡(S/13802)に同じく留意します。

 イスラエルが委員会との協力を拒否していることを強く遺憾とし、イスラエルが決議446号(1979)及び452号(1979)を正式に否認していることを遺憾とします。

 1949年8月12日の戦時における文民保護に関するジュネーブ第4条約が、エルサレムを含む1967年以来イスラエルによって占領されているアラブ領土に適用され得ることを再確認しました。

 1967年以来占領されているパレスチナ及び他のアラブ領域におけるイスラエルの入植地を正式に支持するとのイスラエル政府の決定を遺憾とし、エルサレムを含むアラブ被占領地においてイスラエル当局が同入植政策を実施していること及びこれが同地域のアラブ及びパレスチナ人に与える影響に深い関心を有し、私有地、公有地そして一般財産ならびに水資源の公平な保護のための手段を検討する必要性を考慮、ジェルサレムの特殊な地位並びに特に同市の諸聖地がもつ特殊な精神的,宗教的側面の保護と維持の必要性に留意し、入植政策が中東における包括的、公正かつ永続的な平和に到達するための試みに対して及ぼす重大な結果に注目しています。

これまでの、関連・安全保障理事会決議

1967年6月14日の決議237号(1967)

1968年5月21日の決議252号(1968)

1969年7月3日の決議267号(1969)

1969年9月15日の決議271号(1969)

1971年9月25日の決議298号(1971)

1976年11月11日における安全保障理事会議長によりなされた合意ステートメントを想起し、仮議事規則39に基いて情報の提供を受けるため被占領地のアル・カリル(ヘブロン)の市長ファヘド・カワスメ氏を招致します。

 1.報告書(S/13679)を作成した調査委員会の作業を評価します。

2.同委員会報告書の結論と勧告を受諾します。

3.すべての当事者、特にイスラエル政府に対して同委員会に協力するよう呼びかけます。

4.ファヘド・カワスメ(ヘブロン)市長の安保理出席のための自由な旅行を禁止したイスラエルの決定を強く遺憾とし、イスラエルに対して同市長が同目的で国連本部に自由に旅行することを許可するよう要請します。

5.エルサレムを含む1967年以来のパレスチナ、その他のアラブ占領地の物理的性格、人口構成、制度的構造又は地位を変化するためにイスラエルがとったすべての措置は、法的に効力を持たないと決定し、かかる占領地に自国民と新移民の一部を入植させるイスラエルの政策と措置は、戦時における文民の保護に関するジュネーヴ第四条約に対する重大な違反です。

包括的,公正かつ永続的中東和平達成にとって重大な障害となっていると決定します。

6.イスラエルが引続き、かかる政策と措置を継続、固執していることを強く遺憾としイスラエル政府及び国民に対し、このような措置を中止すること、既存の入植地を撤去すること、特にエルサレムを含む1967年以来のパレスチナ及びその他のアラブ被占領地における入植地の設置、建設及び計画を緊急に停止するよう要請します。

7.すべての国に対して占領地における入植地に関し利用されうる如何なる援助もイスラエルに与えざるよう呼びかけます。

8.委員会に対しエルサレムを含む1967年以来のアラブ占領地における入植地に関する情勢を引続き検討し、伝えられる天然資源、特に水資源の深刻な枯渇につき、被占領地域のかかる枢要な天然資源を保護するため調査し、本決議の実施を十分監視するよう要請します。

9.委員会に対し、1980年9月1日までに安保理に報告書を提出するよう要請し、報告書と右決議の完全な実施について検討するため出来るだけ早い時期に召集することを決定します。

 

 占領地のパレスチナ・アラブ等住民の絶望的な未来、行き場を失った極一部の人達が、世界に意義を訴えるためにテロに走っているとも言われています。中東地域・イスラエル等問題は、世界問題の核心部分だと言われていますし、逆に言えば世界の平和は中東・イスラエル次第と言うことになると思います。国連決議242号をはじめ数々の決議・・・国際連合の主要な目的は「国際の平和と安全を維持」することであるはずです。残念ながらイスラエルは全く無視続けています。

 イスラエルの根底にはタルムードがあり、このタルムードが国連決議を無視する主因と思います。タルムードの世界は私達の世界とは大きく異なるように思います。(「タルムード」を精査すれば、中東問題が理解し易いように思います。タルムードは中東問題のみならず、戦後日本のGHQ策による諸問題も根底にはタルムードに毒されてる部分があるように思います。)

 昨今の南シナ海問題を巡る仲裁裁判所の判決は、国連決議に比べたらママごとのようなレベルに思えます。国連参加国はイスラエルに対する、多くの国連決議を厳守させるあらゆる方策を再度話しあうべきです。私達は世界の現実に目を背けてはなりません、現状を正しく認識し自己確立する必要があると思う昨今です。


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忘れ去られようとする拉致問題

2016-07-13 14:50:16 | 拉致

北朝鮮人権侵害問題啓発週間(12月10日~16日)・・・と聞いて、拉致問題かなと思う程度だと思います。このような日を設けられていることを国民の大部分は知らないと思います。

理不尽な拉致が人権侵害とはかなりトーンダウンした言葉に思えます。人権侵害ではなく拉致では!

TV等々でこれらの週間を目にすることは皆無に近いように思います。TV等の時間をもっともっと活用し報道出来ないものか・・・国家の主権、国民の保護、安全が蹂躙された状態なのに残念です。

 

憲法上の問題もあり限られた策しか出来なかったとおもいますが、憲法が改正された暁には新たな策を作るべきだと思います。こんな理不尽な事案を次世代に渡してはならないと思います。先ずは私達が関心を失わないことが大切だと思います。

「拉致被害を考える日を設け」(毎月の最初に設ける等々)、置き去りになっている拉致問題を啓発すべきです。このままでは、間違いなく拉致問題は時間ばかり経過、トーンダウンしThe endでしょう。

 

何故、北朝鮮は日本人を拉致したか?

朝鮮戦後、朝鮮半島が分断されており、北朝鮮自らが主導して朝鮮半島統一をするためには、策としてスパイ機関の設立が必要・・・

1 日本語を教える人物

2 日本人に成りすまし

 どうしても日本人が必要である。

 

現在の被害者は?

12名ですが877名が疑いがあると言われています。

 

拉致された各国民?

韓国、レバノン、タイ、マレーシア、シンガポール、ルーマニア、フランス、イタリア、オランダ、中国です。各国は国交がありどんな策を取ったか、興味があります。

(26年、国連調査委員会「COI」による。)

 

日本側の拉致被害解決の条件は?

1 全ての被害者の安全に帰国させること。

2 真相を明らかにすること。

3 実行犯の引渡し。

 

解決後は?

1 日朝国交正常化

2 経済協力

となると思います。

 

意外と知られていない、実行犯等の国際手配、政府は以下11名を国際手配しています。

1高敬美さん、高剛さん拉致の主犯・・・北朝鮮工作員・洪寿惠(ホン・スヘ)こと木下陽子

2宇出津(うしつ)事件の主犯格・・・北朝鮮工作員・金世鎬(キム・セホ)

3地村さん夫妻の拉致の実行犯・・・北朝鮮工作員・辛光洙(シン・グァンス)

4蓮池さん夫妻の拉致の実行犯・・・北朝鮮工作員・通称チェ・スンチョル並びに共犯者・自称韓明一(ハン・ミョンイル)こと通称ハン・クムニョン及び通称キム・ナムジン

5曽我さん母娘の拉致の実行犯・・・北朝鮮工作員・通称キム・ミョンスク

6原敕晁(はらただあき)さん拉致の主犯・・・北朝鮮工作員・辛光洙(シン・グァンス)及び共犯者・金吉旭(キム・キルウク)

7石岡亨さん、松木薫さん拉致の実行犯・・・「よど号」犯人の妻・森順子及び若林(旧姓:黒田)佐喜子

8有本恵子さん拉致の実行犯・・・「よど号」犯人・魚本(旧姓・安部)公博

 

政府が作った、北朝鮮人権侵害問題啓発週間(12月10日~16日)・・・如何してこんな理不尽な拉致が人権侵害程度なのか。

北朝鮮人権侵害問題啓発週間(12月10日~16日)が在ることさえ知らない人が多いと思います。

今一度、拉致被害を私達は再認識する必要があると思います、そのためにも国民に分り易い説明(毎月等々)をすべきです。結果がでない説明は厳しいかもしれませんが、私たちも厳しい現実に目を背けてはならないと思います。

 北朝鮮人権侵害問題啓発週間(人権侵害は拉致とし、12月10日~16日は毎月始め、1週間) OR 「北朝鮮による拉致を考える日」の制定を!

 文は、拉致問題対策本部事務局の資料を一部参考にしています。

 


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素朴な疑問、何故、黒人は差別されるか・・・

2016-07-11 11:09:00 | 道徳等

米国で多発する、理不尽な人種差別事件、何故黒人は人種差別を受けるのか・・・有色人種である私達には米国内の人種差別は理解出来ない部分がありますが、やはり差別する根本原因があると思います。

1500年代以降、アフリカの黒人達には何の罪も有りませんが、理不尽にも黒人と言うだけで奴隷とされ世界に売られました。当時の奴隷商売人達(主にアシュケナージ・ユダヤ人)は何の躊躇もなく、犬猫同様に黒人の売り買いをしています。

自分なりに内外のプログ等々を精査すると、根底は旧約聖書創世記(9・20・21)にあり、当時の白人の一部は、黒人の売り買いに都合のいいように旧約聖書の一部を解釈したように思います・・・結果、奴隷売り買いは、聖書のお墨付きと言う結果になっています。決して肌が黒いからでは無いように思います。

有名な旧約聖書に出てくるノアの方舟の話は多くの人は知っているようです。簡単に言えば、大洪水の予言を受けたノアが方舟を突くって、家族、動物達を救ったという話です。(旧約聖書・創世記6・11-7・22)

以後、ノアは農夫になり、畑で葡萄を作っていました、ある時、ノアは葡萄酒を飲んで酔ってしまい、裸になって寝てしまいました。(創世記9・20・21)
ノアの子供はセム、ハム、ヤペテです。

裸で寝ている、全裸の父親(ノア)を見たノアの息子「ハム」は面白がって、恥ずべきもの見たと、2人の兄達(セム、ヤペテ)にそれを話します。2人の兄弟(セム、ヤペテ)は、裸を見ないよう後ろ向きに歩いて行き、顔を背けたまま着物で父親の裸を覆いました・・・目を覚まし、ハムのことを知った父親ノアは激怒、息子ハムの子・カナンを呪います。

***カナンは呪われよ、「奴隷」となり、兄弟達に仕えよ。(創世記9・25)***

一部白人達は、この「ハムの子・カナンが黒人」であると都合のよい解釈をしています。その結果、カナンの血統である黒人は奴隷である・・・本当に理不尽なことです。
旧約聖書に「奴隷となり・・・」、奴隷売人達にとって、奴隷制度は旧約聖書のお墨付を得ていたと言えるでしょう。
人類最大の恥ずべき解釈です。一部白人の自分達に都合の良い旧約聖書解釈により、多くの黒人達が苦難の歴史を歩く結果となってしまいました。

この解釈は表に出ることはありません・・・現在も一部の白人達の中で生きていると言われ、白人優越の世界を作っているかも知れません。

これらの旧約聖書の解釈は世界のタブーと言われているようで、一部の白人は知らないふりをしていると言われています。勿論世界中、学校等で教えることはありません。

ノアの息子3人(セム、ハム、ヤペテ)が全世界に広がり諸民族となったと言われています。
*セム系(黄色人種)の子孫はイスラエル民として、アブラハム、イサク、ヤコブを出して、旧約 聖書の血統的ユダヤ人(スファラディ・ユダヤ人)になります。

*ハム系(黒人)の子孫はエジプト、アッシリヤ、カナン、シドン、アモリ人等です。

*ヤペテ(白人等)の子孫はゴメル、マゴク等北方民族等となり世界に広がります。

どの人種も何の罪もないように思えます。

対する、偽ユダヤ人(アシュケナージ・ユダヤ人、有名なアンネ・・・等々)は、カザール人でこれらの血統とは何の関係も有りません。

現在も続く黒人の人種差別、この理不尽な誤った旧約聖書解釈を白人達等々が認めれば、黒人に対する見方は変わるように思います。

米国内の人種差別問題・・・対する黒人出身、母親はユダヤ人(アシュケナージ・ユダヤ人)、父親はイスラム教徒のバラク・フセイン・オバマ米国大統領の心の中は黒人、イスラムに対する思いやり等々、表に出すことが出来ない苦悩はまだまだ続くと思います。

米国内での黒人に対する人種差別反対運動に多くの白人が参加している事実はまだまだ米国の片隅には良心が生きていると思う昨今です。

この文は、内外の一部ネット等々資料を参考としています。

 


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素朴な疑問、何故テロは発生するか・・・

2016-07-09 23:57:44 | 戦後

以下文は可笑しな文が多々あると思います、素人が思うテロの一側面と言うことで記しています。

 世界ではイスラム圏以外にもアジア、アフリカ、中米等々、世界中で多くのテロが発生していますが、テロ発生原因は主に経済格差等々の問題で発生してると思います。この経済格差は、本来は自国民が享受できる利益が理不尽な支配により失われている事実に対し、無差別・殺人テロを起こし意義等を唱えている面があるように思います。勿論、都合のよい主義主張のためもあると思います。

特にイスラムのテロに関しては、私達はマスコミを鵜呑みにすることは極めて危険と思いますし、テロの細部は日本の報道で知ることは難しいようで、海外の報道はかなり細部を報道し、国民に判断材料の資としています。日本の報道とは相当の違いが見られます。

 

エドワード・スノーデンは過去、情報を分析した結果、米国(CIA)と英国(MI6)、そしてイスラエル(モサド)が共同でISIS(イスラム国)を作り上げたと明言しています。

三カ国の目的は、スズメバチの巣(Hornet nest)と呼ばれるオペレーション(作戦)によって世界の全ての過激派を一カ所に引き寄せる事にあります。

ISISの指導者は、過去に1年間、米国の管理下でモサドから神学や演説法を教わり、さらに戦闘訓練も受けていました。この事実は米国家安全保障局(NSA)の文書に明確に記されています。ユダヤ国家を保護する唯一の策は、その国境近くに敵を作り出すことなのです・・・

ISIS(イスラム国とは国では無く、海外募集傭兵・テロ集団で、ある目的のために作った集団と言えるかも知れません。)のISISのテロとイスラムのテロは分けて考えるべきと思います。

日本では無報道ですが、日本もアルジェリア系フランス人と結婚した女性が、1名ISIS(イスラム国)に参加していることが分かっています。世界80ヵ国以上から呼応して15000人が集結、フィリピンやインドネシア等にはイスラム国の下部組織があると言われています。ロシアからは80人が参加、オーストラリア人は200人以上がイスラム国に参加していると言われています。

ISIS=イスラム国・傭兵・テロ集団 & 中東地域支配、利権の理不尽さに無差別・殺人テロで意義を訴えている元祖中東・イスラムのテロリスト

 

テロ発生原因の核心部分?

第1次大戦終了後、フランスとイギリスは中東地域にあったオスマン帝国(第1次世界大戦参加時の領土はトルコ、イラク、シリア、パレスチナ、サウジアラビアの沿岸部辺りまでです。)を自国の益のために力で解体して両国が互いに利益を得るようにしました。これらの中東地域は世界最大の油田を擁した地域でもあります。

特筆すべきは、フランス、イギリスは中東地域、部族間の対立地域の細部を徹底的に調べ上げ理不尽にも国境線等々を引いています。これらの中東地域が一致団結することなく対立するようにしているように思います。両国は力で宗教心が強いイスラム社会を追い出してしまいました。本来のイスラムは国境を必要としないと言われています、国境線等々を引くということはイスラムの人にとって理解できないし納得出来ないでしょう。 中東・イスラム圏のテロリストは支配されてる地域外の拡大までは求めていないように思えます。経済格差是正のために、主に石油利権等々を返してくれ等が本音と思えます。

 相手(欧米等々)は話し合い等絶対に認めず、強力な力を持つ欧米等々相手にイスラムは如何することもできず、誰かがこの地域を変えなければ子孫はこれからもずっとずっと貧しい地獄のような生活しかないと思っているでしょう。最悪、自分の命を引き換えに、宗教心により無差別・殺人テロ、自爆テロと言う手段で「異議」をとなえているのがイスラム社会かも知れません。これらがテロの根底にあるかも知れません。

常識的に考えれば、無差別殺人テロは絶対に認めることは出来ませんが、イスラム側の言い分は全て可笑しいと言うことは出来ないと思います。

 

この欧米に追随する、現日本は当然、対イスラム & ISISとなるでしょう。

政府は昨今のイスラムのテロ&ISISのテロの本当の細部情報を持っているでしょう・・・だからと言って日本は、欧米に追随しなくて生きていけるかと言うと極めて困難だと思います。日本は日米同盟を結んでいます、米国、欧米に追随するのは当然かも知れませんが・・・関連本を読めば日本は中東地域に関与していない国で、イスラムからも大変信頼されていた国です。日本が堂々と自己主張出来る国となり、中東地域でリーダーシップを取れる時代が来たらいいですね。

 ISIS(Islamic State of Iraq and Syria、イスラム国ですが国では有りません。)・・・この呼び方は本当のイスラムは使用しません、明白に傀儡、ある目的のために作られたテロ集団だと思います。私達世界は強引に作られたISISに関心を持つように向けさせられているかも知れません。

 ポール・クレイ・ロバート・Paul Craig  Robertsは元経済政策担当の財務次官補でウオール・ストリート・ジャーナルの元共同編集者、ビジネス・ウィーク、スクリプス・ハワード・ニューズ・サービスと、クリエーターズ・シンジケートの元コラムニストです。彼はISIS(イスラム国)は米国の支援を部分的に受けていると言うのは、常識の範疇であると述べています。

 

エジプト・アズハル大学のイスラム法学者団体が声明を発表し、「ISIS・イスラム国」を名乗るテロ組織の呼称は不正であり、これはイスラム教とイスラム教徒への侮辱とみなされるとしました。

 

イスラムへの対応の難しさ・・・

過去、イランのローハーニー大統領はイスラムは慈悲と平和の宗教であり、常に暴力と過激派を否定してきたと語っています。

イラン大統領府のインターネットサイトによるとローハーニー大統領は、イラン北東部の聖地マシュハドで開催されたホラーサーン・ラザヴィー州調整計画評議会の会合で残念ながら、今日、イスラムとイスラム教徒に対するプロパガンダのテロ攻撃が行われているがテロや彼らの犯罪は、イスラムやコーランとは何の関係もないと明確に否定しています。

イランのコーラン専門の国際チャンネル・イクナー通信によると、ISIS(イスラム国)・テロ組織にイスラム国の呼称を使用するのはイスラム教やイスラム教徒に対する明らかな侮辱であり、エジプトやアラブ諸国のメディアは西側のメディアの呼び方を使ってはならないとされています。

アズハル大学のイスラム法学者団体は、イスラム国とはアズハル大学の資料においても、現代的な民主主義国家として扱われているがこのテロ組織はそのような特質を持ったこともなく、また持っていない。このため、このような名称をこのテロ組織に使うことは許されないと強調しています。

このテロ組織は、初め、イラクとシャームのイスラム国という名前を使って存在をアピールし、その後イスラム国という名前に変えています。このテロ組織はシリア、イラクの一部を制圧しており、これらの制圧地域で人々、とりわけ女性に対する犯罪を行っていると批判しています。ISIS(イスラム国)・テロリストがイスラム教徒を名乗っていることが、イスラムやイスラム教徒に対する国際世論の誤った判断を招いていると述べています。ISIS・(イスラム国)は、その残虐性からアルカイーダさえ縁を切ったくらいのレベルのテロ集団です。

 

日本人には、中々理解出来ないイスラムの一面

イスラムに関するニュースで特筆すべき、過去の殺人事件

イスラムではコーラン以外でムハンマドをネタにすることを禁じています。

肖像画を描くことも彫像を刻むことも厳禁です。

だから読まなくてもネタにされているということだけで反発します。

悪魔の歌は簡単に言えば、神は他にもいるんじゃないかと比喩した文だと認識しています。イスラムではアッラーは勿論一人です。この本はイスラムから見たら冒涜に思えます、日本人の感覚では理解できない部分もあると思います。

1991年7月11日、筑波大学助教授の五十嵐一氏が大学の7階エレベーターホールでバラバラに刺殺、切断されました。現場からO型の血痕(被害者の血液型ではないため、犯人の血液型)や犯人が残したとみられる中国製カンフーシューズの足跡(サイズ27.5cm)が見つかりました。五十嵐助教授は1990年にサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を日本語に翻訳しています。1989年2月にイランの最高指導者のルーホッラー・ホメイニーは反イスラーム的を理由に「悪魔の詩」の発行に関わった者などに対する死刑宣告を行っていたため、事件直後からイラン革命政府との関係が取り沙汰されていました。

日本の警察は犯人を特定できましたが、今後の日本国民のことを考え、成田出国時に逮捕しませんでした、超法規的判断だと言われています。イスラム圏への対応の難しさを示唆した事件と言えそうです。

イスラム圏 & ISISを精査することは、未来の世界を予測することが出来るかも知れません。

世界は無秩序を作るため・・・ISISのテロを最大限利用してる人達がいると言う説もあります。

 

世界中での「イスラム人の爆発的人口増加」を、最も危惧しているのが「欧米人」です!

世界の宗教別人口は現在キリスト教徒が最大勢力です、2070年にはイスラム教徒とキリスト教徒がほぼ同数になり、2100年になるとイスラム教徒が最大勢力になるとの予測を米調査機関ピュー・リサーチ・センターがまとめています。

2010年のキリスト教徒は約21億7千万人、イスラム教徒は約16億人で、それぞれ世界人口の31.4%と23.2%を占めた。イスラム教徒が住む地域の出生率が高いことなどから、2050年になるとイスラム教徒は27億6千万人(29.7%)となり、キリスト教徒の29億2千万人(31.4%)に人数と比率で急接近するとしています。40年間のイスラム教徒の増加率は73%で、キリスト教徒やヒンズー教徒の増加率の2倍以上に達します。現在、世界最大のイスラム教国はインドネシアですが、調査は2050年にはインドがヒンズー教徒の優位を保ちつつ、イスラム教徒の数が世界最多の国になると予測しています。

 

イスラムの人口増加による将来の欧米、キリスト教文化等々の地位低下等を危惧・・・世界中にイスラムは悪だと報道するための事件が、間違いなく「9・11」だと言われています。

欧米の対応次第で世界は紛争、戦争が起きる可能性があるという説があります。

私達にはついていけないような、欧米 VS イスラム世界、無差別・殺人テロだけはやめてほしいと思う昨今です。


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日本を救った、東郷平八郎・宮古島の5勇士

2016-07-05 19:21:45 | 日本社会

世界のリーダーに尊敬される日本の3人物・・・上杉鷹山、徳川慶喜、そして東郷平八郎

東郷平八郎(弘化4年~昭和9年)、日本の幕末から明治時代の薩摩藩士、軍人で階級は元帥海軍大将、日本海軍の指揮官として日露戦争の勝利に大きく貢献しました。日本の国際的地位を五大国(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本)の一員とするまでに引き上げた人物と言えると思います。

 

アジアの19世紀は白人達に植民地として蹂躙されていた時期です。我が国日本は幕末の徳川慶喜等により明治維新を成し遂げ、近代国家を立ち上げました。以後忘れてはならない日露戦争という国の存亡を賭けた戦いがあります。

日露戦争での日本の勝利は、有色人種は白人には絶対にかなわないという常識を覆す出来事であり、アジア、アフリカ等々各国に大きな勇気を与えました。特にインド、エジプト等有色人種の人々の中に、独立と言う芽が出て独立を果たしています。

日露戦争の勝利を決定的にしたのが日本海海戦で、この海戦で活躍したのが海軍、東郷平八郎・元帥です。

ひとつ間違えると日本はロシアの植民地になり、日本が敗戦していたら今日の日本は無かったでしょう。

世界の強大国ロシアと堂々と渡り合って勝利し、国を救った東郷平八郎・元帥、世界の常識では当然自国の教科書に載ります・・・残念ながら東郷平八郎・元帥が今の日本の学校で教えられることはありません。

ヨーロッパのフィンランドには、東郷ビールがあります。日ロ戦争で、日本の勝利を導いた連合艦隊司令長官・東郷平八郎を記念して付けられた名前で、現在も東郷ビールは健在です。

是非フィンランドに旅行の際は飲んでください!アドミラル・トーゴ・ビアーで通じます。

 

余談ですが、東郷平八郎・元帥とハワイの関係・・・

1893年(明治26年)、ハワイ王国のリリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して臨時政府を樹立しました。

100年に及ぶハワイ王朝が倒れて、約1か月後の2月23日に巡洋艦浪速(なにわ)、5日遅れて金剛が相次いでホノルル港に入り、理不尽な動きをする、米軍艦ボストンに無言の圧力をかけるために、すぐ近くに投錨

浪速の艦長は東郷平八郎、同じ艦上には若い青年将校、先代国王カラカウアに王女との結婚を求められた山階宮親王もいたそうです。

女王を支持するハワイの先住民らは東郷平八郎乗艦の巡洋艦浪速、金剛の勇姿に涙を流して歓喜したといわれています。先住民の中には生まれた子供にトーゴーと名前をつける人もいたと言われています。

当時のハワイ在留日本人は女王支持派に大変同情的であったと言われています。アメリカの力によるハワイ併合は1898年(明治31年)、100年に及ぶハワイ王朝は消えました。極めて親日的なハワイ王朝は消えました。日本の国技、相撲に初めて国外ハワイ出身者が入門出来たのもこれらの諸事情を一部反映してるとも言われています・・・出稼ぎ相撲とは意味合いが違うと思います。

 

1904年10月15日、バルチック艦隊はロシアのバルト海沿岸の軍港リバウから日本の近海を通って、ロシア東海岸の軍港、ウラジオストックに向かうために出港しました。アフリカ大陸西部の洋上を南下し、最南端の喜望峰(ケープタウン)経由で地球を約3/4周する29000キロメートルの長い航海です。

その進路によっては戦いが全く変わります・・・東郷・元帥はロシア艦隊が対馬海峡に現われると確信していました。

5月27日、38隻のバルチック艦隊は東郷・元帥の予感通り対馬海峡に現われました。

戦いが始まろうとする時、東郷・元帥は「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗信号(海上において船舶間での意思疎通に利用される国際信号旗の一つ。)を旗艦三笠(大日本帝国海軍の戦艦、敷島型戦艦の四番艦、奈良県にある三笠山(若草山)にちなんで命名、船籍港は京都府舞鶴市の舞鶴港)に掲げました・・・ロシア艦隊を取り逃がすことはできません、逃がした艦船に日本本土が砲撃されると日本には防ぎようがなく敗戦は必至で、撃ち勝つしか残された道はありません。

 

日本海戦勝利の裏で、日本海軍にバルチック艦隊の情報を提供した沖縄・宮古島の名も無き5人の勇気ある若者を忘れることは出来ません。

当時日本海軍は、日本近海のバルチック艦隊の情報が欲しいため、沖縄や南西地域を航行している軍が契約している民間船にもバルチック艦隊を見かけたらすぐに連絡するように伝えました。

このバルチック艦隊を見つけたのが宮古島近海でサバニ(沖縄の伝統的な小さな木造漁船)で漁をしていた、沖縄本島の漁師、奥浜牛(29歳)でした。

奥浜は5月23日に宮古島の北約80キロメートルの沖合で漁をしていると、近くを艦隊が通過するのを目撃しました。

これは、日本にとって大変なことになるかもしれないと考えた奥浜は、すぐに一番近くの港である宮古島へと急ぎました。

26日の朝10時頃平良の漲水港に入港し、駐在所にこのことを知らせました。奥浜がバルチック艦隊を目撃してから、梅雨前線による偏西風、高波の影響で平良港に到着するのにほぼ3日かかっています。

 

駐在所の内田輔松所長は、すぐに奥浜とともに宮古島の島司(区長)の橋口軍六に報告しました。橋口島司と役員たちは、ことの重大さがすぐにわかり、東京の海軍の最高決定機関である軍令部に伝えようとしますが、当時宮古島にはまだ電信局がありませんでした。

一番近くの電信が打てる場所は、石垣島の八重山郵便電信局です。そこで区長と役員たちは、大急ぎでサバニで外洋の高波を越えて確実に石垣島までたどり着くことのできるすぐれた操船技術をもっている若者、サバニを長時間こぎ続けることのできる強靭な体力を持つ若者を選ぶための会議をし、そして5名を石垣島へと送ることを決めました。そして選ばれたのが、この5人です。

 

垣花 善 兄・29歳

垣花 清 弟・22歳

与那覇蒲 兄・25歳

与那覇松 弟・23歳

与那覇蒲・21歳(同姓同名)

 

電信文を石垣島に届けることは極秘扱いとされていたので、選ばれた5人は、5月27日の早朝鎮守で任務遂行の祈願を行い、朝8時頃橋口島司(区長)から軍令部への電文を受け取り、誰にも知られないように石垣島に向けて出発、宮古島から石垣島北部の伊原間までは直線距離で105キロメートル、5人は出発から15時間後の午後11時頃に伊原間の海岸近くに到着、伊原間から、通信施設のある石垣村までは山道を30キロメートルほど南に進まなければなりません。

5人は休む間もなく八重山郵便電信局に向け走り始めました。伊原間から石垣村までの道は起伏の大きい山道で、人や馬がなんとか通れる程度の険しい道でした。その山道を走り抜け、八重山郵便電信局に到着したのが午前4時。なんと、15時間サバニを漕ぎ続けた後小休止しただけで、たった4時間台で30キロメートルを走りきったのです。5人は驚くべき体力の持ち主でした。

そして、5月28日午前7時、八重山郵便電信局よりバルチック艦隊通過の電信報告が無事なされました。

5人の活躍や勇気ある命がけの航海は、軍事上の機密扱いということで、その後長く宮古島の人々や全国に知られることはありませんでした。

1920~30年代、5人の活躍は宮古島でもうわさ話として広がり、新聞で全国に紹介されたり、国や県から表彰されたり、教科書にも載せられたりするようになりました。

残念ながら、戦後は軍に協力した者として非難されたり、勇気ある行動を無視されたりと、世相やイデオロギー論争に巻き込まれ評価がなされていません。

宮古島を代表して石垣島にサバニで行った5人は、高い航海能力と、宮古島が世界に誇るべき5人、強い責任感、使命感で立派に任務を果たしました。

この電報が大本営に届く数時間前に既に仮設巡洋艦「信濃丸」によるバルチック艦隊発見の報が大本営・連合艦隊に届いていたため、貢献を果たすことは出来ませんでしたが、この電信報告を精査した大本営は感動したと言われています。日本を守りたいと言う宮古島の人達の想いを私達は忘れてはいけないと思います。

この5人の人達を顕彰するため、宮古島に船をモチーフにした大きな「久松5勇士の碑」が立っています。私自身10年以上前に訪れましたが・・・一説では皇室関係者の方が見えられたと言われています。島内観光客は必ず写真を撮ると言われています。宮古島の方々は大変誇りにされています。是非宮古島観光の際は寄ってほしい場所の一つです。(レンタカーかタクシーが便利です。宮古空港から15分位です。空港には5勇士お土産もあります。)

 

東郷・元帥は丁字戦法(敵艦隊の進行方向をさえぎるような形で自軍の艦隊を配し、全火力を敵艦隊の先頭艦に集中できるようにして敵艦隊の各個撃破を図る戦術)という捨て身の戦法でロシア艦隊を驚嘆・狼狽させました。

当時は風は強く波の高い日本海でした。この気象条件は日本に幸いしました。 日本は砲力で劣っていて、ロシアの船体に沈没させるほどの穴を開けなくても波による浸水で被害をもたらすことができたからです。

砲弾が飛び交い、波しぶきが寄せる中、東郷は艦橋に立って微動だにせず指揮を執り続けました。日本海軍はロシア艦隊19隻を打ち沈め、5隻を捕獲し、A・ロジェストウェンスキー司令長官(中将)を捕虜としました。この戦いで日本海軍は1隻も失うことがありませんでした。完璧な海戦で世界の海戦史上初めてです。


このニュースは瞬く間に世界に伝わりました。東郷平八郎は世界の英雄と賞賛されました。トルコ、フィンランド、アジア、アフリカ等の教科書に英雄振りが記載されているとも言われています。

 

東郷・元帥は誠実で私利私欲のない人で、戦争終了後、東郷元帥の息子を文部大臣にしようという声が出ました。

東郷・元帥ほどの名声であればそれも可能でした。しかし東郷元帥は、人間には器がある。器で生きてこそ幸せだと言ってその申し出を固辞し、息子を湘南の図書館長にしたと言われています。

 

戦後、日本では国を救った軍人、守ろうとした民間人でさえ、称えることは可笑しいと言う、可笑しな時代を私達は生きています。

こんな凄い先人の東郷平八郎・元帥と宮古島の名も無き5勇士は日本を守り、守ろうとした人達です。

何時の日か、このような人達の再評価の時代が来ることを願っています。

 

記事は南島史学 第3号、南島史学会編 1973「日露戦役と沖縄ー久松五勇士とその足跡」牧野清著、ネット等々の資料を参考にしています。


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現代社会と上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)

2016-07-04 17:26:57 | 日本社会

江戸末期、藩の財政を立て直し、真に民の幸せ、幸福を願った「上杉鷹山」、今でも世界のリーダーに尊敬される日本人の一人だそうです。
1960年代米国で、新しく大統領となったケネディーは日本人との記者との会見で、大統領あなたの尊敬する日本人は誰ですかとの質問にすかさず「上杉鷹山」と答えたそうです。その後に「徳川慶喜」、「東郷平八郎」だったそうです。

上杉鷹山は戦前の道徳教育では「二宮尊徳」と並ぶ日本人の理想像の代表的人物であるそうです。

残念ながら戦後GHQ等の指示等々で教育してはならない人物となったそうです。

如何して、現代の子供たちに上杉鷹山を教えないのか・・・是非、現代の子供たちに教えてほしい人物の一人です!

現日本の財政状況は厳しさを増し、国民の格差拡大等々目立ちますが、今よりさらに苦しい世を経験してきた地がありました、それは東北山形県の米沢藩です。藩主上杉鷹山はどのようにしてそのような危機を乗り越えたでしょうか・・・
上杉鷹山は、民のためを思い、信念の元、真の正しい対策を取り、自ら率先し見事財政危機等を乗り越えました。現在の日本に比べたら遥かに条件が悪いにもかかわらず、見事克服しています。
宝暦元年(1751)7月20日に、高鍋藩主・秋月佐種美(たねみつ)の2男として江戸屋敷で生まれました。上杉鷹山は米沢藩で反対勢力に押されながらも「大倹約令」を実行し、米沢の財政を立て直し発展の基礎を築いた人物です。華美な生活は一切せず、質素倹約な生活を自ら行い、自ら藩の手本として生涯続けました。

         米沢藩の借金地獄と財政圧迫
1. 慶長6年(1601)の関ヶ原合戦後に、上杉家は会津120万石から米沢30万石に減石されてしまった。
2 上記記載により石高を大規模に減らされたが、上杉家の異常に多い家臣数が変わらなかった。
3 第3代・上杉綱勝が後継者を定めず急死し、吉良上野介の子が上杉の家督を継ぐ際に手続きの申請に不手際があり、米沢30万石から15万石に 減石されてしまった。
4. 上杉鷹山が家督を継ぐ前の、歴代の藩主や財政担当者が、財政状況に対し無関心だった。
5 上杉家は古い格式を重んじ、着る・食べる・乗る・習慣的な行事に費用は惜しまず金を使った。

負のスパイラル、寛政5年(1793)の分限帳によれば家臣数が5398人とあります。会津藩時代の頃とほとんど変わらぬ人数です、それで領土 が、会津120万石から米沢30万石に減らされ、今で言う大赤字の出る地方自冶体なのに対し、職員を削減等しなかった。
上杉家では謙信の時代より伝わる格式があったようです、何をやるにしても定まったことを行っていた。習慣的な行事の移動にしても家来やお供の人数、着る物なども定められており、格式を重んじすぎて大赤字が出ようとも変えようとしませんでした。
さらに上杉家の藩主、財政担当者は、呆れたことに借金がいくらあったのか把握していなかった、「知らない振り」をしてたようです。
最終的には上杉家は領土15万石を取り上げられてしまい、「米沢藩15万石」になりました。

2代・定勝の代までは貯金が15万両ほどありましたが。現在の価値と比べると90億円ぐらいの貯金だと思います。それが4代・綱憲が継ぐと寛政の削減までは6万両ほど貯金が残っていましたが華美な生活により財政が次第に圧迫しました。
約6年分の借金と、商人からの信用失墜、上杉鷹山の時代になると借金は雪達だるま式に増え、米沢藩の借金は約16~20万両(約120億円)ほどの借金に膨れ上がっていたと商人による記録があります。さらに高金利でお金を借りていたようです。
米沢藩にとって100~120億の資金は、米沢藩の総支出の約6年分にあたるものでいかに規模が大きすぎる借金だったか・・・江戸の商人からは信用を失い、金を借りるのが次第に困難になっていきました。
 最後には、米沢藩では借金が返せず、古い木や桜などで借金を返すなどといった方法でしかお金を返せないほど貧しかったようです。

上杉鷹山が取った対策
1 人員の整理
2 田畑の整備と、漆・桑・楮の百万本の栽培計画
3 殖産興業に力を注いだ
4 米織物の工場を開いた
5 実用の学力と人材育成
6 上書箱の設置
7 神仏に誓い願った

人員を必要最低限に留めました、格式の見直しは上杉鷹山公が家督を相続した時に、藩士の給与総額だけで藩の収入の90%以上を占めていました・・・。藩の収入が15万石なのに対し、5千人の家臣の給料だけで13万石とある。米沢藩がいくら努力しても、借金が返せない理由が理解出来ます。大反発を覚悟に人員の整理を大規模に行いました。
参勤交代による出費を抑えるため、人数を減らしたり奥女中なども当時は50人ほどいたが、9人にまで減らしすべてを必要最低限の人数に絞りました。
悪化の原因一つである、謙信時代から続く古い格式も消費が少ないよう変えていきました。
もちろん格式を重んじる旧臣らに大反発を受けましたが、もう後が無い米沢藩、民のためにも己を信じ、改革を進めたといわれます。

米の生産高を上げるために、米沢北部から南陽にかけて水路を引いたり山をくり抜いて黒井堰と呼ばれる、農業用水路を何十年もかけて完成させ米の増産を図りました。
藩の農業生産を上げるために田畑の農地改革を行う一方で、安永4年(1775)9月には竹俣当綱と計画し、漆・桑・楮の木を百万本を目標に植えたと言われています。  (漆の実はロウソクになり、桑は絹糸作りの養蚕に、楮は和紙の原料)
上杉鷹山は質素倹約な方でしたが、こういった「未来の財政に繋がることに対しては金を注ぎました」農地開発等により、33年後には米の石高は「約23万石」となったようで、「15万石」の表高を上回る結果が成果を出しました。

新しい産業の開発
現在の小野川温泉地帯で塩を精製しり、中津川でとれた火打石などは江戸で売却したり墨・硯(すずり)、米織物の染料となる藍玉や陶焼場(すえやき)なども開きました。
米沢に食料のため鯉なども持ち込み育てたり、下級武士の家庭では生活が苦しいので内職として笹谷一刀彫・相良人形などを作られせ、少しでも収入が入るように指導しました。
織物の工場を自らの藩に作った、織物の工場については、米沢では麻織物が中心であり、あくまで原料生産までしか行っていなかった。そこで自分らの藩で織物工場を造ることで、利益向上を目指しました。
越後松山から職人を招き、婦女子らに織物技術を教え、農民の女子を雇い、蚕を育成し織物を織る工場を造りました。
生きた学問の習得と優秀な人材育成、優秀な人材育成も必要だと儒学者・細井平洲(へいしゅう)を江戸から米沢に招き学問を指導してもらいました。米沢藩にも儒学者はいたが、役に立たない学問を身に付けても意味が無いと考え、役に立つ学問が必要だと細井平洲先生に熱意による説得で頼みました。
初期の間は、白子神社の隣にあった松桜館(しょうおうかん)で講義していましたが安永5年(1776)4月17日に藩の学校・興譲館(こうじょうかん)ができました、家柄にとらわれない優秀な人材を作り米沢藩再生を目指しました。
興譲館での成績が優秀者には賞酒を与えたり、定期的に題を与え作詩なども行っていたと言われています。
町人や農民の意見の把握、上書箱と呼ばれる意見を入れる箱を設置し、誰でも自由に意見を書くことを許可しました。
毎月2回箱を開け、自ら内容を眺め広く民意の把握に努め、良い意見は積極的取り入れたました。最も重要な、今までは公開しなかったが、「藩の財政状況を領民に公開」し、共に財政の建て直しを考えたと言われています。

鷹山公は35歳の若さで隠居し、家督を治広に譲りました。その時に、国を治めるにあたっての心得を贈りました。
***受次(うけつぎ)て国の司(つかさ)の身となれば 忘るまじきは 民の父母・なせばなる なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり***

家督を譲ってからは餐霞館(さんかかん)のあった場所で38年間館に住み、藩を後ろから支援しました。隠居後は米沢藩主・10代治広、11代斉定の政治の補助や指導をして影ながら支えました。

寛政4年(1792)には本草学者・佐藤中陵(ちゅうりょう)を米沢の餐霞館に招き薬草園を作る技術や知識を習ったといわれます。これは災害、飢饉による被害を防ごうと、食べれる食物をどうやって食べれるのか?や、どういった形なのかを図で詳細にまとめ本に記し『かてもの』と呼ばれる本を領内の民に配布しました。
直江兼続が持ち込んだウコギを始め、ツクシ・コゴミ・ワラビ・フキ・ゼンマイといった山菜など84種ほど記載し、魚や肉の保存方法や味噌の作りかたなど、災害、凶作に供えた内容となっています。
米沢藩は飢饉時には酒田等から米等を買い、多くの民に粥を配ったりしました、結果他の藩と比べると餓死者は他の藩に比べ極めて少なかったと言われています。

質素倹約だった上杉鷹山公の生活ぶり「大倹約令」を掲げているので、鷹山公が米沢に初の入部をした祝いの場においても鷹山公の言いつけで豪華な料理は取り止めになり、スルメや赤飯など質素な物での宴会に変わり、あらゆる贅沢を禁じました。
朝は粥2膳と香の物、昼と夕食は一汁一菜や干し物などの軽い食事で、家督を継いですぐに自らの給料1500両を209両にまで減らし、隠居後も209両で通しました。
衣類に至っては下着までも含め、全て木綿製の衣類で高価な絹衣は身に付けませんでした。その暮らしは当時の下級武士以下の生活と言われ、生涯自らが藩の手本を
示しました。

死の1ヶ月前では鷹山公の側近の者が体調を気遣い、ご馳走を出したが一切豪華な物には箸を付けずソバやそうめん、豆腐など質素な食事しか食べなかったそうです。
小姓の顔色が悪いのに気付けば、蔵王の高湯・蔵王温泉への湯治をすすめたりお膳部の不調法を自らかばうなど、人に対する思いやり・・・
米沢の側室・お豊の方の死から4ヶ月後に、病床であった鷹山公も文政5年(1822)3月12日の早朝に、72歳の生涯をとげました。
米沢藩は、少しずつ財政が確実に上向き、以後の幾度の飢饉でも民の犠牲を最小限にしました。

常に藩の「財政の建て直し、民の幸せ、向上」を願い、自ら率先した上杉鷹山のリーダーシップが、今も世界のリーダーに尊敬される所以だと思います。
当時の米沢藩、現代日本が正に直面してる状況と思います。

数日前、財政破たんした夕張市を立て直すため奮闘している、若き、鈴木・夕張市長をプログに書きましたが・・・上杉鷹山が現代に生きていたらと思う昨今です。


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何故、反ユダヤは許されないのか。(フイクション)

2016-07-03 09:59:57 | 戦後

*****以下の文は、全てフィクションとします*****

私達は、日本、世界で自由にユダヤ問題を述べることが出来ると思いがちですが、現世界の多くを支配してると言われるユダヤ人(アシュケナージ・ユダヤ人)に対しては反ユダヤは絶対に許されないと言われています。特にユダヤのプロトコールに対して!

日本で小さな記事であれ、反ユダヤをプログ等々で主張したら、無人自動検閲、専門の担当者等が小さな記事でも英訳等にされ保存されると言われています。以後、何に使われるのか・・・

身近な問題を見た場合、マルコポーロ事件とアンネの日記破損事件だと思います。

マルコポーロ事件・・・

 文芸春秋・発刊の月刊「マルコポーロ」、平成7年2月号に、戦後世界史のタブー「ナチガス室」はソ連の捏造だったという記事を医師である西岡昌紀氏が寄稿し、特集という形で掲載しました。(1月17日発売)、「シモン・ヴィゼンタール機関」、「ADL」(ユダヤ名誉毀損防止連盟)、「パシフィック・リム・インスティテュート」のユダヤ人圧力団体とイスラエル政府は即日、文芸春秋に対して抗議を行い、文芸春秋の広告掲載会社数社に広告の掲載中止を呼び掛けました。 その結果、文芸春秋は一方的な謝罪とマルコポーロ誌の即時廃刊、同誌の回収、編集長の花田紀凱氏が解任されました。 花田氏は、在日イスラエル大使館に、反論があれば、誌面の提供をする旨を伝えていましたが、ユダヤ側はこれを黙殺、ユダヤ批判は問答無用・・・そして文芸春秋も花田氏を支持する事無く詰腹を切らされました、そして田中健五氏の突然の社長辞任で終息・・・ 言論の自由をうたい文句にしていた日本のマスコミは成す術は全くありませんでした。

アンネの日記破損事件・・・

2014年4月、東京都内の図書館や書店で、「アンネの日記」や関連書籍が300冊以上破られた事件で、警視庁は4月4日、東京都杉並区の図書館で書籍を破損させたとして、東京都小平市の無職の男性を再逮捕しました。逮捕は3回目で、「私がやったことに間違いはありません」と容疑を認めていると言っています・・・

戦後、ユダヤ人にとってアンネの日記は、イスラエルに絶対に必要な国策でもあると思います。小説じゃないかとの疑問は絶対に許されないでしょう。何故なら、アンネの日記を通してイスラエルに同情、支援等を受ける最強のツールに他ならないでしょう。

安部総理は国内でのアンネの日記破損事件後、オランダのアンネ博物館を訪問しました、一説では訪問は日本側の自主的なものか・・・

安倍晋三首相は2014年4月23日、核安全保障サミット(第3回会議、オランダ・デン・ハーグ、ワールドフォーラム・コンベンションセンターで開催、58ヶ国首脳、国際機関代表が参加)が開催されるオランダを訪問、その際首相はナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の犠牲になった少女を記念した博物館「アンネ・フランクの家」を訪れ、国は歴史の事実に向かい合わなければならないと述べています。

プログの一説では、日本でのアンネの日記破損に対する日本人への見せしめに他ならないと言う説もあります。

 

不思議に思うのは、何故こんなにも反ユダヤを取り締まるか?

ユダヤのプロトコールを精査されることを一番嫌ってのことかも知れません。これらを精査し反対することは如何なる人物も許しません。

下記文は、ユダヤの告白(P・ゴールドスタイン J・スタインバーグ 共著)を参考にしています。

ポール・ゴールドスタイン(Paul Goldstein)、正統派ユダヤ教徒。1949年生まれ。インディアナ州立大学卒。15年間におよぶADLの組織犯罪について調査研究、1982年から欧州、アメリカにてジャーナリストとして活躍、1983年以降三年間在日されています。

ジェフリー・スタインバーグ(Jeffrey Steinberg)、改革派ユダヤ教徒。1947年生まれ。モントクレア州立カレッジ卒、諜報活動、国際麻薬犯罪、中東戦争などについて執筆と講演活動、主な著書「Dope.Inc.」他

 

世界的には、反ユダヤ活動を監視するADL、名誉毀損防止同盟(Anti・Defamation・League)とは米国最大のユダヤ人団体で、反ユダヤ主義と合法的に対決することを目的としていますが、極めて大きな力を持っており、諸国家の元首でさえ大きな影響を与えると言われています。

米国においてはユダヤ団体は数百とあると言われていますが、その中で全米ライフル協会と並ぶワシントン最強のロビイストと言われるのがAIPAC(アメリカ・イスラエル広報委員会)、もう1つがこのADLと言われています。

ADLは130年の歴史を持つユダヤ人国際結社ブナイ・ブリスから豊かな財政支援を受けて生まれた団体で、1913年に設立されました。ADLは全米に25、カナダに2つの地方事務所を持ち、人事、コミュニケーション、教育、都市問題、社会問題、宗教及び法律の各分野の専門家を含む300人の職員を抱え、各地のコミュニティに代表が何百人もいるそうです。

ADLの初期の活動はもっぱら純然たる偏見や人種的悪意を粉砕することに向けられていたましたが、現在ではイスラエル支援を前面に押し出し、シオニズムに対して批判する者たちや反ユダヤ主義を唱える者たちへ圧力をかけていると言われています。

 

元米国・CIA幹部であったビクター・マーケッティ氏は、ADLについて次のように語っています。

アメリカにおけるADLの力は凄いものがあります。ADLはどのような人にでも、しかるべき地位や仕事を与えることができ、逆にそこから引きずり下ろすこともできます。また企業をも成功させることも失敗させることも自在です。今日のウォール街はADLやいわゆるユダヤ人新興勢力のなすがままになっています。

アメリカ国内に張り巡らされたユダヤ組織網を使うことで、ADLは議会のメンバーを文字通り当選させることもクビにすることも好きなようにできる力を持っています。マスコミの人達も、ADLとADLを支持する人々におびえながら仕事をしているのが現状です。

 

シオニズムに反旗をひるがえしたユダヤ人ジャーナリスト、ポール・ゴールドスタインとジェフリー・スタインバーグは、その著、ユダヤの告白の中でADLについて包み隠さずその内情を述べています。

ユダヤ人が非難されるたびに、反ユダヤと叫ぶような組織を作ることで、ADLの考案者たちはユダヤ人に向けられた非難の内容を覆い隠し、正当な非難と正真正銘の反ユダヤ主義との区別をあいまいなものにしてしまおうとしました。

ADLは、今日アメリカ、ヨーロッパ、ラテン・アメリカの全てのユダヤ人社会にその触手を伸ばしています。この組織は多くの地方の弁護士会を組織することによって、また州および連邦裁判所の判事の選任に影響力を行使することによって、アメリカの司法機構のほとんど全てに多大な影響力を与え続けています・・・

 同じアシュケナージ・ユダヤ人の中でも世界には正義心等が強い、リーダー等々も数多くおられます、元・メドヴェージェフ、ロシア連邦第3代大統領等々

 私達日本人はユダヤ問題は関係ないと思いがちですが、有名なライブドア問題等々、日々の生活にも深く繋がっていることを認識することも必要だと思う昨今です。

 


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