極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

I am grateful that I can freely write my daily thoughts

小中華思想

2019-11-28 20:07:47 | 日韓

この国のかたち・文庫・1993/9/10 司馬 遼太郎著、ウィキペデイア(一部コピー等があります。)等々参考に記していますが散文になってしまいました。解釈等々に異論があるかも知れませんがあくまで個人の解釈です。

 

何故、韓国は日本に対し、強硬、理不尽等なことを行うでしょうか・・・突き詰めると単なる儒教(孔子を始祖とする思考・信仰の体系)国ではなく、儒教+小中華思想の発想が元になっていると言えそうですし、韓国社会の構成、国体を作っていると思います。これらの思想、発想により国際社会とは乖離(かいり:はなればなりになること。)している部部が多いように思いますが、韓国の人達からすれば大きな違和感は無いかも知れません。

中国からの冊封体制(事大朝貢体制)等が解かれるのは日本の朝鮮併合と言えそうで、気が遠くなるような年月、朝鮮は国が無いに等しい期間とも言え、1945年日本敗戦後に生まれた国とも言えると思います。

中国の冊封体制(事大朝貢体制)であった朝鮮は優越感等を得るため、更に自国民の支配等々を容易にするため中国の儒教、中華思想を取り入れ都合がいいように小中華思想を作り、両藩精度(高麗、李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分制度)を作り、現在もこの思想は続いており断ち切れることは出来ないでしょう。この延長線上に対日本があると思います。韓国が儒教、小中華思想を捨てない以上永遠に続くと思います。私達は韓国が儒教、小中華思想国家であることを理解することが必要で、この前提で付き合い、交流する必要があると思います。

朝鮮の根底が危うくなった日清戦争での日本の勝利、これは絶対に認めるわけにはいけないことだったようで、朝鮮最大の一大事だったと思います。何故なら、朝鮮・韓国の大元の中華思想の根底が日本により侵されてしまいました。朝鮮は挙句に果て清朝は漢民族で無く、満州族等々であり中華思想とは関係が無い等意味不明の解釈をしていたとも言われています。

古来から、中国の歴史で本当の統治者等々の実力者等は漢民族では無く、中東から流入(日本を目指した。)したヘブライ人・スファラデー・ユダヤ人達で漢民族とは違います。有名な始皇帝、徐福等々はヘブライ人、スファラデー・ユダヤ人です。中国で有名なユダヤ人都市は開封です。近代では鄧小平等々極めて優秀な人達(旧約聖書の12部続の流れです。)で、日本の天皇、皇室に対して極めて好意的でした、何故か・・・もうお分かりでしょう。これらの事実は表に出ることは無いようです。

 

中華思想とは中華の天子が世界の中心で、その文化、思想が神聖なものであるとする自負の考え方です。漢民族が古くから持った自民族中心主義の思想で自らを夏、華夏、中国と褒め称え王朝の庇護下とは異なる周辺の辺境の異民族を文化程度の低い蛮族であるとして卑しむことから華夷思想(かいしそう)ともいいます。

我が国を還り見た場合、江戸時代の儒教研究者等は本質を見抜き、儒教(朱子学)を学問である儒学にとどめ、仏教や神道から儒教への改宗や棄教はしませんでした。このことは極めて重要で日本社会構成のターニングポイントだったと思います。

司馬遼太郎氏は著“この国のかたちの中で”日本人は面としての儒教を入れなかったと記しています。面の儒教とは民衆のなかに溶け込んだ孝を中心とする血族(疑似血族含む)的な宗教意識で、ここから祭祀、葬礼、同姓不婚といった儀礼や禁忌等も生まれる。それら儒教のいっさいのシステムぐるみを入れたとすれば日本は中国社会にそのものになっていたに違いない。結局、日本における儒教は多分に学問、つまりは書物であって、民衆を飼い慣らす能力をもつ普遍的思想として展開することなく終わったと書き述べています。日本人が儒教化しなかった最大の要因は、科挙の試験制度を導入しなかったことも理由にあげています。

 

隣国の反日、日本に対する蔑視した姿勢等、まさに中華思想から流れた小中華思想で、歴史上長年中国の冊封国で其の中で李王朝は劣等感等の克服等のため朝鮮を支配しやすいシステム等を作り上げたとも言えると思います。小中華思想は朝鮮で唱えられた中華思想(華夷思想)の一変種で、中華文明圏の中にあって漢民族とは異なる政治体制と言語を維持した民族と国家の間で広まった思想とも言われています。

自らを中国王朝(大中華)と並び立つ、次の文明国で中華の一役をなすもの(小中華)と見なそうとする文化的優越主義思想で、この文化とは儒教文化で中華文明にあたると思います。韓国の小中華思想の元となった中華思想は儒教に裏付けられた漢民族の文化優越主義、地理的世界観、政治的世界観があります。中華思想の基で中国王朝は周辺諸民族を他者化(自他の区別をつけるもの)し、夷狄(野蛮人)、禽獣(獣に等しい)と蔑む一方、冊封体制(事大朝貢体制)によってその世界観を具現化し、また同時に夷狄の教化に当たってきたようですが、中国王朝の世界観は周辺諸国では否定的です。冊封体制(事大朝貢体制)であった朝鮮では中国王朝に従い、積極的に中華文明つまり儒教及びそれに伴う華夷観を受容、中華に同化することで自国の格上げを図る道を選択してきたようです。

朝鮮は本来の華夷秩序においては夷狄に相当するものですが、自らを中国王朝と共に中華を形成する一部“小中華”と見なしてきました。朝鮮の中国王朝に対するこうした姿勢は政治的には事大、文化的には慕華(中華を慕う思い)となり、政治的文化的に中華に従うものとして整合性の取れたもので、朝鮮は時には漢民族以外の中国王朝(金、元、清等)に事大を強いられることがあり、これを事夷と呼び華夷観と政治的現実の狭間で苦しめられることとなったようです

朝鮮は自らを小中華と見なすことは、周辺諸国を野蛮な夷狄、禽獣として他者化することも意味していました。この自らを華、周辺諸国を夷とする姿勢は文化的優越主義に止まらず政治的地理的世界観にも表れ、現実を無視し、朝鮮は中国王朝と共に世界の中心をなし、周辺諸国を従属させていると解釈しようと志向しています。一例として、李氏朝鮮初期の1402年製作の、混一疆理歴代国都之図では、中国が世界の中心に位置、朝鮮は実情よりかなり拡大された形で描かれています。対し日本、琉球、東南アジアはかなり小さく描かれ、方角も誤って描かれています。女真族の居住地であった中国東北地方は曖昧なまま処理されています。この地図が描き出した世界観は、明と李朝が中華でありそれ以外の地域は夷であるとするものです。こうした他者化の論理は、時に国内にも向けられ、中華文明を身につけていない者は同じ朝鮮人でも差別化に繋がったようです。

 

李朝後期の両班達は自身を礼義を識り、漢詩漢文を巧みに操り、儒教の経典に精通した中華文明の体現者と捉え、一方庶民を夷狄禽獣の類いと階層的差別意識をもってきました。朝鮮のこうした積極的な中華文明受容の姿勢は、中華に同化することを目指したものですが、朝鮮独自の文化の発展を阻害してきたようです。

李朝前期の世宗が朝鮮独自の文字、ハングルを制定しようとしましたが、官僚、知識人階級から、捨中国自同扵夷狄(中国を捨て夷狄に同化する)行為だと反発を受けハングルは李朝末期になるまで正規の文字になっていません。中華文明を尊び独自性を排除しようとする考えは儒者共通のものです。小中華思想を掲げ中国にならって科挙を取り入れ、儒教を支配理念とした朝鮮に顕著に表れるようです。残念ながら、朝鮮だけで中華思想の枠組みのもとでは、非漢民族であり中国大陸の東端に位置する朝鮮は、東夷としての位置を免れなかったようです。

 

中華思想から見た周辺国・・・

古代中国で、属国でもあり朝鮮の位置づけは日本や琉球王国よりも遥かに下位で国家としての認知も遅れていたようです。

一例として倭には印綬・金印が、琉球王国には銀印が贈られましたが、朝鮮には贈られていません。中世には朝貢属国の筆頭であるとされ冊封国としての認識が続きました。

印綬(いんじゅ:中国に於いて臣下に対して印章を授けることによって官職の証とした制度)に関しては、古代日本は当時の中国から金印を贈られ、琉球(1383年、明が鍍金銀印「琉球国王之印」を琉球国王に贈る“明実録“)や越南(ベトナム)は銀印が贈られたとありますが朝鮮にこれらの印が送られたとの記録はないようです。

当時の漢代に於いて諸侯王は内臣の場合は金璽綟綬(きんじれいじゅ)が授けらますが、外臣で王号を持つ者は金印紫綬となります。日本の志賀島で発見された漢委奴国王印(57年、委奴国王、後漢の都・洛で初代皇帝・光武帝から金印“漢委奴国王印”を授かる“後漢書”倭伝・建武中元2年、倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬)や、まだ見つかっていない倭女王卑弥呼が授けられた“親魏倭王”印は金印紫綬、1404年に第3代皇帝・永楽帝(えいらくてい)は足利義満を“日本国王として冊封して金印を下賜”しています。

韓国に金印が無いことに対し、一部の韓国学者が言うにはまだ発見されてないだけで何処かに埋まっている、日本に贈られた金印は朝鮮から強奪した等・・・唯、朝鮮が受けたのは銅で作られた印で記録もあるようです。これらの事実から朝鮮は琉球、越南(ベトナム)以下の最下位の国であった言えそうです。

日本に対し、上から目線、平気で嘘をつく等々、私達からすれば理解できないですが小中華思想では極自然かも知れません。これらの事実等が国際化の現代でも生き続き対日策に反映しているかも知れません。韓国=儒教・小中華思想ですが、韓国の人達の中にもこれらの思想等で国際化時代で生きていけないと感じ努力されている人達がいることを理解することも必要だと思います。

先ず、私達は現、韓国の根底・肝が間違いなく儒教・小中華思想であることを理解することは極めて大切であると思います。日本が冊封体制(事大朝貢体制)を弥生時代等の一時期等以外、頑として受け付けなかった先人達・・・日本は誇り高き国であることが判ります。如何に韓国と付き合い、交流するか、より良き両国の未来を構築するには・・・答えは比較的見えやすいように思う昨今です。


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ここで始めることが世界を変える。

2019-11-24 23:58:06 | 日記

以下文はウィキペデイア、admiral william h mcraven university of texas内のUniversity of Texas at Austin 2014 Commencement Address - Admiral William H. McRaven(2014年テキサス大学卒業式祝辞・マクレビン米国海軍大将の祝辞)を参考に記していますが素人の英訳で意味不明文が多々あると思います。US・Yahooで「admiral william h craven university of texas」を検索すると手を加えていない多くの動画を見ることが出来ます。 

 

米国には多くの大学(2015年時点で、米国には4726校の学位授与機関があり、3026校は4年制、1700校は2年制です。)がありますが、1876年テキサス州憲法により1881年テキサス州オースチン市に設置された共学制の州立大学で1883年開講、1984年に最初の学士号を授与、テキサス州の公立学校で入学試験を課したのはこの大学が最初と言われています。

1891年ガルベストンの医科分校開講、1895年にアーリントン・カレッジ、1897年に看護学部設置、1919年にエルパソのテキサス鉱山・冶金学校を合併、1943年歯科分校設置、1949年サウスウェスト医学校を合併、1963年生化学大学院設置、1967年従前のテキサス大学の諸施設を統合しテキサス大学機構を組織しています。

オースティン校(学生数:約50000名 留学生数:4560名:2006年統計)に多くの学部があり教員数約2500名,学生数約47900名(1997年)、多くの日本人留学生も在籍しています。大学機構全体での学生数は10万人を超えると言われています。

出身有名人はスポーツ選手も多いようです。他にはマイケル・デル・デル社の創設者、メリンダ・ゲイツ・ビル・ゲイツの奥さん、ジョージ・H・W・ブッシュ・41代大統領、ジョージ・W・ブッシュ・43代大統領、リンドン・B・ジョンソン・36代大統領、エドワード・ホワイト・宇宙飛行、チェスター・ニミッツ 海軍・元帥等々です。

 

何故、2014年テキサス大学卒業式祝辞に登壇したマクレビン米国海軍大将を紹介したいかと言うと、学生達に明確により良き世界、米国の未来を目指し、生き抜く指針の一助を示しているからです。自身の軍人として生きてきた過去を分かり易く、卒業する学生達に今日、明日、将来、誰でも即実践できる手法等を分かり易く説いています。これらの祝辞の中には世界、米国の未来に繋がる言葉である「希望」が散りばめられているように思います。

日本の高校、大学等で制服姿の自衛官高官が登壇し祝辞等を述べるシーンはありませんが海外諸国では極普通です。米国では軍高官でなくても士官、下士官でも高校、中学等で要請、ボランティア活動等々により講演を行って世界の現実等を自身の任務体験により分かり易く知らせています。日本は戦後GHQによる軍人=悪策等を徹底的に受け、今も自衛官に大きな影響を与えていると思います。世界には200近い国が存在しますが軍人に対する敬意を払わない国はありません。如何に日本が可笑しな国かが分かります。私達の日本を守っている自衛官に対し、多くの人達が敬意を払わない事は本当に残念です。

昨今では2008年、元・田母神俊雄航空幕僚長が5月24日午後1時過ぎ、東大五月祭のイベントで「極東の軍事情勢と21世紀における我が国の針路」というテーマで講演を行っていますが、制服自衛官が同大安田講堂で講演するのは東大の長い歴史でも恐らく初めてのようです。(主催者・東大国家安全保障研究会)、1000人収容可能な同講堂は2階席を含めほぼ満員、大盛況だったようです。学生等は現職自衛官の講和等を欲しているようですが、反対する可笑しな人達がいたのも事実のようです。

元・田母神空幕長は講演会以外でも当日、東大生とミーテイングを行っています。

東大生の皆さんは将来日本のリーダーとなるでしょうが、世の中には一生懸命努力しても恵まれない弱い立場の人達がいます。このような弱い立場の人達を忘れないで手を差し伸べて欲しいと発言しています。

高度の軍事戦略、安全保障、危機管理等のノウハウを持った自衛官高官が日本社会、特に大学教育等で有効活用できない現実は改めるべきだと思いますし国家の損失です。世界の多くの大学等では軍事戦略、安全保障等々が学べますが日本では皆無に近いです。日本の対外、外交力等が弱い主因等かも知れません。幸い、現安倍政権は外交策等々に自衛官高官を最も有効活用をしている戦後初の政権と言えると思います。

 

米国海軍大将・マクレビン氏の祝辞(2014年テキサス大学卒業式)

今日招かれたことに感謝します。

私はテキサス大学を卒業し37年が経過しました。テキサス大学のスローガンは「ここで始めることが世界を変える。」です。今日約8000人が卒業します。

Ask・Comの統計によると平均的な米国人は一生に10000人に出会うそうです。もし、誰もが一生で出会う人の内、僅か10名の人生を変えることが出来るなら5世代、125年後には今日の卒業生が人生に影響を与えることが出来る人数は8億人になります。考えて見て下さい、米国の人口の2倍を超えます。もう一世代経過すると80億人、世界の全ての人生を変えることが出来ます。10人の人生を変えることなんか難しいと思うならば、それは間違いです。

 

イラク戦争時、バグダッドで若い士官が右へ行かず、左へいくと決めたことで10人の部下を生還させることができました。

アフガニスタンでは下士官が不審な動きを察知しテロリストの爆弾から逃れることが出来数十名の兵士を救いました。

これらを考えた場合、一人の判断によって命を救われたのは兵士だけではありません。生きて生還したからこそ、彼らの未来の子供達も救われ、またその子孫達も救われたのです。何世代もの命が一人の判断により救われたのです。世界を変えることは何処でも、誰でも出来るでしょう。ですから、まさにここで始めることが世界を変えます。ですが、問題は変わった世界がどのような世界なのかと言うことです。今より良い世界であることは間違いないでしょう。

私のような海軍軍人からアドバイスで出来ることがあります。

軍隊とは関わりのない生活をしている人達にも当てはまると思います。

この世の困難は全て似たようなもののであり、困難を乗り越え、前進する、そして自分を変え、環境を変える、そのための教訓は全てに等しく当てはまるものです。

私のSEALs(海軍特殊戦コマンド:標語はReady to Lead,先導する準備は出来ている。Ready to Follow,従う準備も出来ている。Never Quit,決して諦めない。the Only Easy Day Was Yesterday,楽できたのは昨日まで。It Pays to be a Winner,勝利することで全てが報われる。)での訓練は一生分の試練が6か月に凝縮されたものでした。以下の言葉をはなむけの言葉とします。

 

*毎朝の完璧なベッドメーキングは全ての始まりで、全ての有事即応の第一歩となる基本の一つを叩き込まれます。これには極めて厳しく指導されます。毎朝のベッドメーキングが出来ていないと次のステップに進みません。小さなことを正しく出来なければ決して大事を成すことは出来ません。その日が惨めな日であっても一日が終わり、ベッドに就きますが、完璧にベッドメーキングしたベッドは明日への勇気、希望を与えます。

*世界を一人で変えることは出来ません、助けが必要です。目的に至るまで友人、同僚、善意の人達等、それを導く強いリーダーが必要です。世界を変えたければ、共に助けてくれる友を見つけなさい。

*SEALsの訓練では平等の意味を教えてくれました。目的を成し遂げると言う意思が全てです。人種、教育レベル、社会的地位などいっさい意味を持ちません。世界を変えたいなら相手の心の大きさで評価しなければなりません。

*決してうまくいかない、どんなに準備しても・・・しかし、やるしかありません、人生とはこのようなものです。もし世界を変えようとするならば、やるしかなく前進するしかありません。

*落ちこぼれた者が特訓を受けますが、最初はいやいやながらですが、どんどん強靭になって行きます。世界を変えたければこの特訓を恐れてはなりません。

*困難な障害を乗り超える・・・勇敢な手法も必要です。ある訓練生は愚かとも言える危険な方法でしたが成功し記録を書き替えました。失敗すれば怪我は避けられず訓練から脱落します。世界を変えようとするなら新しい手法も必要です。

*水泳訓練ではサメのいる海を泳がなくてはなりません。サメに対処するには動くな、逃げようとするな、恐怖を見せるな・・・自分に向かってくるサメには全身の力を振り絞ってサメの鼻をなぐりつけろ、サメは逃げていく。世界を変えたいならサメの前で引き下がってはなりません。

*敵艦攻撃は暗い中で行われ、艦船の目標部分に到達しなければなりません。この最も暗く、憂鬱な瞬間こそ沈着冷静になるべき時で、身に着けたスキル、精神力、肉体的力を結集すべき時であることをSEALsは知っています。世界を変えたければもっと暗い瞬間に最高の自分を出さなくてはなりません。

*不眠不休訓練・・・6日間不眠不休で肉体的、精神的耐え抜きます。内容は極めて極限状態で厳しく、いつでも自ら脱落できます。あまりの厳しさに一人が完遂する希望のために歌い始め、最後は全員で歌い希望を繋ぎました。

私が世界を回って学んだことは希望の力でした。一人の人間の力、ワシントン、リンカーン、キング牧師、ネルソン、マンデラ、幼いパキスタンの少女・マララ、こうした一人が人々に希望を与えることによって世界を変えることが出来るのです。

世界を変えようと思ったら、どんな困難な状況であっても希望を繋ぐために歌を歌い始めるのです。

*真鍮のベル、訓練は自ら真鍮のベルを鳴らせば終わりです。ベルさえ鳴らせば朝5時に起きなくても、ベルさえ鳴らせば氷水の中で泳がなくていい、ベルさえ鳴らせば持久走も障害走も全ての辛い訓練に耐えなくていいのです。世界を変えたいと思うなら自らベルを鳴らしてはなりません。

 

今、皆さんは卒業しようとしています。

人生と言う旅をしようとしています。

世界をより良いものにしようとしています。

それは容易ではありません。皆さんは次世紀の8億人の人生を変えることが出来る人達です。

人生は公平ではありません。

何度も失敗するでしょう。

しかし、危険を冒し、苦しい時こそ立ち上がり、不正に立ち向かい、虐げられる者を助け、決して決して諦めないならば次の世代、それに続く世代も、今よりずっと素晴らしい世界に暮らすことになるでしょう。

ここで始めたことが世界を変えるでしょう。

皆さん、ありがとう


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消えた近代の国々

2019-11-13 17:16:20 | 日記

以下文はROSSIA BEYOND・2018年12月25日・アレクセイ・ティモフェイチェフ、旧約聖書、ウィキペディア等々を参考に記していますが、素人が精査した一側面に過ぎません。一部可笑しな文が多々あると思います。雑日記とします。

 

自分の国が無くなるなんて考えられないですが、世界の近代のみを見た場合でも多くの国々が無くなっています。国が大きくても永遠ではないようです。日本は数千年の歴史を誇る世界でも極めて稀な国であることが分ります。何故このような長い歴史を維持、誇っているか・・・異論があるかも知れませんが、天皇制・皇室、古来から日本、郷土、家族等を守るため名も無い多くの武士たちの公のために奮闘、近代では神風攻撃隊等々に尽きると思います。唯、国が存続しますようにと念仏を唱えるばかりでは国家の存続は難しいようです。

有史以来、世界では数百以上の多くの国が悲劇を伴い消滅しています。近代国家で消滅してしまった主な国を調べると10ヶ国位あるようです。これらの国々に共通するのは多くの悲惨な国民の犠牲、不幸等々を伴って消滅していることです。消滅後、新たな国となっても厳しい現実を垣間見ることが出来ます。日本と言う国が再認識できるかもしれません。

 

チベット(1912年~1950)

中国の自治区でもあるチベットは、一つの国でした。

1912年独立、指導者ダライラマ13世とダライラマ14世によって統治されていましたが、1949年に中国がチベット侵攻、以後、中国の支配下になり現在に至っています。難しいかもしれませんが中国侵攻に抵抗する意思、軍事力等々を保有していたら違った様相を呈していたかも知れません。これは琉球王国にも言えると思います。

1951年までチベットの君主の座に就いていたダライラマ14世・・・1959年にインドへ亡命、政治難民となりインドのダラムサラに樹立された中央チベット行政府(現、チベット人民機構、通称「チベット亡命政府」)においてチベットの国家元首を務めています。亡命後は法的には領土をもたない亡命政権の長という地位にありながら、世界中に散らばるチベット民族に対して政教両面において指導的立場にある人物と目されています

チベット亡命政府は、民族の独立国家を要求しているわけではなく外交、国防は中国政府に委ね、それ以外の宗教、文化、経済面におけるチベット人の自治を求めていると言われています。

チベットは中国の一部でいい、チベット民族の人間としての自由、尊重、高度自治を・・・それがチベット亡命政府の主張のようです。そもそも、チベット問題とは1951年、中国が当時のチベット政府に17箇条におよぶ協定への署名を強要した後、軍事力で侵攻して自国へと取り込んだことに端を発します。1959年にはインドのダラムサラで現ダライ・ラマ十四世を中心としたチベット亡命政府が発足しています。

 

17箇条におよぶ協定

第一条

チベット人民は団結して、帝国主義侵略勢力をチベットから駆逐し、チベット人民は中華人民共和国の祖国の大家族の中に戻る。

第二条

チベット地方政府は、人民解放軍がチベットに進駐して、国防を強化することに積極的に協力援助する。

第三条

中国人民政治協商会議共同綱額の民族政策に基づき、中央人民政府の統一的指導のもと、チベット人民は民族区域自治を実行する権利を有する。

第四条

チベットの現行政治制度に対しては、中央は変更を加えない。ダライ・ラマの固有の地位および職権にも中央は変更を加えない。各級官吏は従来どおりの職に就く。

第五条

パンチェン・エルデニの固有の地位および職権は維持されるべきである。

第六条

ダライ・ラマ、およびパンチェン・エルデニの固有の地位および職権とは、十三世ダライ・ラマおよび九世パンチェン・エルデニが互いに友好関係にあった時期の地位および職権を指す。

第七条

中国人民政治協商会議共同綱領が規定する宗教信仰自由の政策を実行し、チベット人民の宗教信仰と風俗習慣を尊重し、ラマ寺廟を保護する。寺廟の収入には中央は変更を加えない。

第八条

チベット軍は逐次人民解放軍に改編し、中華人民共和国国防武装兵力の一部とする。

第九条

チベットの実際状況に基づき、チベット民族の言語、文字およぴ学校教育を逐次発展させる。

第十条

チベットの実際状況に基づき、チベットの農・牧畜・商工業を逐次発展させ、人民の生活を改善する。

第十一条

チベットに関する各種の改革は、中央は強制しない。チベット地方政府はみずから進んで改革を進め、人民が改革の要求を提出した場合、チベットの指導者と協議する方法によってこれを解決する。

第十二条

過去において帝国主義と親しかった官吏および国民党と親しかった官吏は、帝国主義および国民党との関係を断固離脱し、破壊と反抗を行わない限り、そのまま職にあってよく、過去は問わない。

第十三条

チベットに進駐する人民解放軍は、前記各項の政策を遵守する。同時に取引きは公正にし、人民の針二今糸一本といえども取らない。

第十四条

中央人民政府は、チベット地区のいっさいの渉外事項を統一して処理し、かつ平等、互恵、およぴ領土主権の相互尊重という基礎の上に隣邦と平和な関係を保ち、公平な通商貿易関係を樹立発展させる。

第十五条

本協約の施行を保証するため、中央人民政府はチベットに軍政委員会および軍区司令部を設立する。中央人民政府が派遣する人員以外に、できるだけチベット地方の人員を吸収して工作に参加させる。

軍政委員会に参加するチベット地方の人員には、チベット地方政府および各地区・各主要寺廟の愛国分子を含むことができ、中央人民政府が指定する代表と関係各方面が協議して名簿を提出し、中央人民政府に任命を申請する。

第十六条

軍政委員会、軍区司令部、およびチベット進駐人民解放軍の所要経費は、中央人民政府が支給する。チベット人民政府は、人民解放軍の食糧およびその他、日用品の購買と運輸に協力するものとする。

第十七条

本協約は署名捺印ののち、直ちに効力を発する。

 

チベット侵攻に関する中国政府の主張は、もともとチベットは中国の一部、堕落したチベット仏教僧侶らが政治を動かし、農奴制だった社会を中国が解放したというものです。中国人民解放軍侵攻との戦いで43万人以上のチベット人が死亡、その後の獄死、強制労働、処刑等を含め120万人ものチベット民族が死亡したとも言われています。(チベット亡命政府によるインフォメーション・チベット白書、日中出版より)
その後、チベット地区へ漢民族が大量に移住、政策による大規模な漢民族の移住(囚人もチベットに移住するなら解放されたという話もある)が行われることによって、チベット民族の立場は悪化の一途をたどり、貧困化の加速、自文化の崩壊、民族存続の危機、信仰の不自由という状況が続いています。移住計画と中国化政策によって、今やチベット自治区においてすら、チベット民族はマイノリティーとなっているようです。

 

ソビエト連邦(1922年~1991年)

ソビエト連邦(ソ連)は、世界で最も有名な超大国消滅国で、社会主義の理想を掲げ、一時期は世界の超大国としてアメリカと冷戦を繰り広げたほどの国家でしたが、時代は資本主義を中心に回転をはじめ、徐々に徐々に社会主義勢力が押されていきました。そして、1991年ついにソビエト連邦崩壊。ソビエト連邦の崩壊は歴史の終わりと呼ばれたほどの大事件でした。

ソ連崩壊の主要因等・・・3つの要因が考えられると言われています。

*原油価格等

崩壊の一原因とも言われる1985年9月13日のサウジアラビアのアハマド・ザキ・ヤマニ石油鉱物資源相のサウジアラビアが石油減産に関する協定終了宣言・・・この日はサウジアラビアが石油市場におけるシェアを拡大し始めた日でした。

これらの主張は故エゴール・ガイダル氏は(政治家、経済学者、下院国家会議議員、右派連合共同議長、ソ連崩壊後エリツィン時代前期に首相代行、第一副首相などを歴任)ソ連崩壊後の1990年代の急進的な経済改革を主導した人です。

1986年原油価格下落が大きな転機となり、ソ連にとって収益を生み出すためのあらゆる可能性が崩れました。原油収入は穀物の購入に必要な資金をもたらしていました。当時、ソ連における穀物輸入は17%にも及んでいました。原油収入はソ連が西側から消費財を買い、エリート層に使わせるのにも当てられていたようで、実質的にはエリートへの賄賂でもあったと言われています。

ソ連原油価格の下落は、経済の減速と軌を一にし、それは1960年代に始まったようです。この長期的な傾向は原油収入の減少でさらに悪化、ソ連の経済モデルの崩壊をもたらしたと言われています。

*民族間の緊張

1980年代後半、ペレストロイカ(政治体制の改革運動。ロシア語で「再構築」を意味)の時代には各ソ連構成共和国では民族主義がぶつかり合って生じる対立、紛争がますます激しくなっていました。民族主義による暴力の最初のケースは1986年末にカザフスタンの首都アルマトイで起きました。カザフ人の若者は共和国の首長としてロシア人が任命されたことに失望、やがて不穏な状況を鎮めるために軍隊が派遣、それからアゼルバイジャンの都市スムガイトでポグロム(ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為等)が発生、グルジアの首都トビリシでも暴力的事件発生、アゼルバイジャンの首都バクーその他でも暴力沙汰、そしてバクーその他でも同様の事件が起きています。

最悪の流血をともなった紛争は、アゼルバイジャンとアルメニア間のカラバフで生じました。これらはソ連崩壊の引き金となった主な政治的誘因の一つとも呼ばれています。

1980年代後半までに、民族紛争は新たな、致命的な転機を迎え何百、何千もの命を奪っています。

1990年の時点でもソビエト共和国の大多数はソ連を離脱することを望んでいませんでした。

ロシアの歴史家アレクサンドル・シュビン氏によれば、状況は比較的静穏に見えた。バルト三国とグルジア(ジョージア)だけがはっきり分離主義的な道に踏み出しただけだったと述べていますし、民族の分離主義運動が、ソ連国家の構造にもたらしたあらゆる危険にもかかわらず、それだけではソ連を崩壊させるには足りなかったと述べています。

*ゴルバチョフの改革

ソ連8月クーデター(新連邦条約の締結を翌日に控えた1991年8月19日に、ソビエト連邦のモスクワで発生したクーデター)後、ソビエト連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフが共産党を禁止する条約に調印、これはソ連の終わりを意味します。

ソ連崩壊を引き起こした要因はゴルバチョフのペレストロイカとともに1980年代半ばに始まっており、この国の指導部の行動だと考えられます。

ゴルバチョフ氏が故意に社会主義、ソ連を破壊しようとしたというロシアで広まっている陰謀論さえあります。これは取るに足りない臆説で、彼が自分の支配を本当に弱体化させたがっていた兆候などまったくないようです。

ペレストロイカは、それまでに悪化の兆しが見られたソ連の体制を改革しようとしたものです。彼の最初の改革、いわゆる経済の加速は現代化された社会主義の可能性を解き放つはずでした。これらの改革を新スターリン主義と呼んでいます。ゴルバチョフの改革が冷酷な前任者の政策同様のパラダイム(科学史家・科学哲学者のトーマス・クーンによって提唱された科学史及び科学哲学上の概念で一般には模範、範を意味)で行われたからだと言われています。

ゴルバチョフの最善を目指した意図にもかかわらず経済は加速に失敗、それとは反対に、彼の非効率的な政策は、国家を弱体化させる下方スパイラルにつながったようです。ゴルバチョフ以前のソ連システムはうまくいっていなかったが、彼の改革のせいで機能停止に陥ったようです。

経済を現代化する方法を必死に探し求めてゴルバチョフは、民主化の過激なプロセスを始動させたが、これがソビエト体制と帝国の死を必然的なものにしたようです。舞台に新たな人物が登場、その中にはボリス・エリツィンもいました。彼は独立したロシアを創ろうとしていました。これはソ連の終焉が不可避であることを意味したようです。

ゴルバチョフは、ロシア本国では偉大なる超大国ソ連を崩壊させてしまった戦犯であると位置付けられているようです。現在も多くの地方都市ではレーニン像が立っているようです。

ソ連崩壊では多くの国民が屈辱を味わっています。経済的混乱等による想像を絶する大量の乞食が発生し、ソ連国民としての誇りも地に落ちた言われ、何よりも紙切れ同然のルーブルに対し、最強のドル・・・多くの資産等が強いドルで買い叩かれています。国民は唯、眺めるのみで術がなかったと言われています。この状況はドイツのナチス台頭前に極似しています。これらの状況を見たプーチン(現大統領)氏は国益、国民益等を掲げて登場し、現在に至るようです。

ロシア世論調査結果(ロシアにおいては最も信頼できる、レバダ・センターによる調査結果)2018年11月22~28日にロシア全土で1600人の成人を対象に実施した対面調査結果

ソ連邦崩壊を残念に思うという回答者が66%、思わないという回答者が25%(回答困難が9%)

主にどういう理由でソ連邦崩壊を残念に思っていますか?

一体の経済システムが崩れたから:52%、大国に属しているという感覚が失われてしまったから:36%、お互いの不信感、反感が増大したから:31%、親戚、友人たちとの繋がりが遮断されてしまったから:24%、どこに行っても、我が家だという感覚が失われたから:24%、自由に旅行したり休暇に出かけたりするのが難しくなったから:13%

ソ連邦崩壊は避けられたと思いますか?

避けられた:60%、不可避だった:27%(回答困難12%)

特筆すべきは、日本では報道されませんが、激動・混乱の中で生まれた新制ロシアが旧ソ連から核兵器を受け継いだことが何よりも最大・最良・賢い選択であったと全ロシア国民が支持しています。当時、西側等は新制ロシアの大国化を阻止するため、旧ソ連の核兵器を持ち出し・解体、売却等々しようと血眼で旧ソ連核兵器策を講じていたとも言われています。

 

 

*南ベトナム (1945年~1976年)

南ベトナムは先の大戦で日本降伏によって誕生した国家でした。

ベトナム国・ベトナム共和国・南ベトナム共和国と何度も国名が変わっています。

現ベトナムは社会主義国ですが、もとは南ベトナムはフランス、アメリカの植民地の影響を強く受けた反共産主義国家です。

ベトナムでのインドシナ戦争がジュネーヴ休戦協定が成立してフランスの撤退後、アメリカはその休戦協定を承認せず新たに南ベトナムを支配、北の共産主義勢力の南への診療を阻止しようとしました。1955年、アメリカはフランスの傀儡国家であったベトナム国のバオ・ダイを追放、親米派のゴーディン・ジェムを首班とするベトナム共和国を成立しましたが、これはアメリカの傀儡政権でした。ゴーディン・ジェム氏はジュネーヴ協定の取り決めである南北統一選挙を拒否、反対派を厳しく弾圧、南ベトナム政府は大統領の一族登用など腐敗がひどく、国民の支持がなく、カトリック信者だったので仏教徒を弾圧、仏教徒の焼身自殺などの抗議があいついで政情は安定しませんでした。1963年に軍部クーデタが起き、アメリカも見放したため殺害、ケネディ大統領暗殺の3週間前でした。

最終的にはベトナム戦争終了後、1975年現在のベトナムに吸収され消滅しました。社会主義、資本主義の戦いによって生まれ、冷戦のあおりを受け、多くの国民の犠牲を出して消滅した国ですが、ベトナム戦争(1960年12月~1975年4月)で、南ベトナムだけで戦死者28万5000人、行方不明者149万人、民間人158万1000人の犠牲を出しています。

 

*ユーゴスラビア連邦共和国 (1992年~2003年)

21世紀まで存在したユーゴスラビア国は2003年に消滅しました。冷戦終結とともに誕生、セルビアとモンテネグロという2つの国による連邦国家でした。この国の歴史は戦争の歴史ばかりです。ユーゴスラビア紛争、コソボ紛争等多くの戦争が起こっています。この紛争で死者・行方不明者20万人、被災者・難民270万人の犠牲をだしています。現在ではセルビア、モンテネグロの2つの国に分かれました。町中では空爆、銃跡等の名残が多く残っていると言われています。

 

*アラブ連合共和国(1958年~1961年)

1958年2月、アラブ民族主義(国家の枠を超えてアラブの一体性を実現しようとする運動等)を掲げたナセル大統領のエジプト共和国とバース党政権のシリアが合併して成立した国家で、反米親ソ路線をとる両国の合併でしたが、アラブ世界の盟主を自覚するナセルの主導権が強まるとシリア側が反発、1961年に解消しました。

これらの背景にはスエズ戦争後、中東地域でのイギリスの後退、後にソ連の影響力が強まったことを警戒したアメリカは1957年1月アイゼンハワー・ドクトリンを発表、中東への武力介入もありえることを宣言、アラブ民族の統一と連帯を説くアラブ民族主義が燃えあがってしまいました。

シリアではバース党が台頭しソ連に接近、エジプトのナセル大統領を説いて、エジプトとシリアの統合を実現しました。このカイロ・ダマスクス枢軸の成立はアメリカだけでなく周辺のイラク、ヨルダン、サウジアラビアの3王国にも大きな衝撃を与えました。この国家統合は、シリア側が言い出したものの合併後はエジプトが強まったためにシリア内部に分離派が生まれ、1961年に軍部がクーデターを起こして連合共和国の解消を決めたため、あっけなく消滅しました。エジプトは1971年までアラブ連合共和国の国名を続けています。

 

*アイレク共和国(1995年)

アイレク共和国は1995年6月26日独立、1995年6月28日に消滅した国家です。

2日で消滅した国で歴史の短い国です。この国はニカラグアとコスタリカの間に存在、最初はコスタリカ人が住んでいましたが、徐々にニカラグア人が移住、ニカラグアなのかコスタリカなのかよくわからない地域が誕生

そのカオスな地域の主な産業はワニを捕獲してその皮を売るというものですが、1990年にニカラグア政府が自然保護のためその地域でのワニの捕獲を禁止、それに怒った地元民が急に独立宣言、アイレク共和国が誕生、しかし、2日後にニカラグア軍が制圧、あっけなくその歴史は幕を閉じました。

 

*ローデシア(1965年~1979年)

ローデシアはアフリカに存在した国で、現在のジンバブエの前身です。もともと現在のジンバブエとは全く違う国で、最初は白人が政治の実権を握る国家でした。黒人には参政権は与えられない不平等な国でした。憲法改正で人種差別をなくす動きが国家単位でおこり、1980年に現在のジンバブエ共和国として独立しました。

 

*タンガニーカ/タンガニーカ共和国

タンガニーカは1961年から1962年、タンガニーカ共和国は1962年から1964年、アフリカ南東部でインド洋に面する場所に存在していた国家です。1964年にザンジバルと合併、タンザニアとなりました。

 

*アビシニア(エチオピア帝国)・アフリカ最古の独立国

1137年~1974年まで東アフリカに存在した国です。現在のエチオピア北部とエリトリア地域です。

英語圏等国ではアビシニア、同国内ではエチオピア帝国と呼ばれていました。

国家成立年は1137年で、軍事クーデターにより、最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が1974年に倒れ、帝国は終焉しました。ハイレ・セラシエ1世(1892年7月23日~1975年8月27日)はエチオピア帝国最後の皇帝(在位1930年11月2日~1974年9月12日)で、アフリカ統一機構初代議長でした。

1974年9月2日早朝、皇帝はアディスアベバの宮殿内で陸軍のクーデターにより逮捕・廃位しました、拘禁中の1975年に暗殺(犯人はメンギスツという説もあります。1997年にエチオピア当局は廃位直後に射殺されたと発表)されています。長らく遺骨は行方不明でしたが、1992年に旧宮殿敷地内から発掘、2000年にアディスアベバの至聖三者大聖堂内の墓地に埋葬されました。

息子のアスファ氏は妹等と共にアメリカのニューヨーク州に逃れ、慎ましく過ごされていましたが、1989年には皇帝アムハ・セラシエ1世を称しましたが、1997年にバージニア州で死去されています。アスファの息子ゼラ・ヤコブ氏は現在、エチオピアのアディスアベバに戻って居住されているようです。

1934年に甥であるリジ・アラヤ・アベベ皇太子(~2002)と日本の黒田広志・子爵の次女雅子氏(22才)との縁談(第二候補として田畑亀太郎氏(福岡県門司市の資産家)三女茂子氏(24才))がありましたが、エチオピアを狙うムッソリーニの干渉により破談になっています。

ハイレ・セラシエ皇帝は1956年11月、戦後初めて日本を訪れた国家元首の国賓で日本から大歓迎されています。1970年も大阪万博観覧のため来日されています。

表に出ることは極めて少ないようですが、エチオピア皇室は日本同様、旧約聖書の中の血縁的(アブラハム→イサク→ヤコブ)スファラディー・ユダヤ人です。エチオピア皇室は旧約聖書に登場する、シバの女王の血統であったとも言われています。旧約聖書・列王紀上 10章、歴代志下 9章に出てくるシバの女王、シバはアラビア半島南西部地域(イエメンのマーリブを中心とする地域)の古代名でシバの女王の統治期間はソロモン王とほぼ同時期の紀元前10世紀頃です。新約聖書では地の果てからやって来た南の女王と表現されています。シバの女王とソロモンが交わって生まれた息子がエチオピアに王朝を建てたという根強い説があります。この説はエチオピアの王国史の一部ともなっています。

日本同様、数千年の歴史を誇っており、旧約聖書の流れを汲むと言われたエチオピア皇室が無くなったことは日本の皇室のみならず、人類にとって極めて大きな事案であることは間違いないでしょう。

エチオピアはヨーロッパ諸国によりアフリカのほぼ全土が植民地化されていた時代も独立を保っていたアフリカ最古の独立国です。アフリカ諸国の中で植民地化を免れた国は、エチオピア帝国、リベリアのみです。

 

*アラウカニア・パタゴニア王国(フランス人弁護士・冒険家が国王)

1860年から1862年に南アメリカ大陸の南部に建国された国家で、現在のアルゼンチンとチリの一部です。1860年頃、原住民であるマプチェ族がアルゼンチンやチリの進出を食い止めるため武装抵抗を行っていました。1860年にこの地を訪れたフランス人の弁護士かつ冒険家のアルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンがマプチェ族に共感、アラウカニアの独立を宣言、自身は国王となっています。

その後パタゴニアも同国の領域に含めています。しかし地球上のどの主権国家にも同国は承認されていません。1862年にトゥナン氏はチリ政府拘束、後に同国はアルゼンチンとチリの領土となりました。

 


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不思議の国・日本(フィクション)

2019-11-03 12:20:05 | 日記

旧約聖書と大化の改新

以下文は旧約聖書、日本のあけぼの―建国と紀元をめぐって・カッパ・ブックス・三○宮崇○著・1959年1月1日、古代オリエント史と私 学生社・単行本(1984年1月1日三○宮崇○(著)、大化の改新、ウィキペディア等々を参考に記していますが、可笑しな解釈等多々あると思います。”フィクション”雑日記とします。

 

1989年〈平成元年〉2月24日の昭和天皇の大喪の礼(たいそうのれい)では164の国、地域からほぼ世界中から元首、代表が弔問(イギリスは中国艦隊から海軍儀仗兵500名を派遣)に訪れています。

2019年10月23日の新しい天皇陛下の即位礼正殿の儀には、191の国と国際機関などほぼ世界中の代表が参列しています。凄いことで、如何に世界の国々等が天皇陛下、皇室への尊敬等々を垣間見ることができます。世界の歴史でも例がないような参列者、何故でしょうか・・・自分なりに考えることは日本人としてのアイデンティティ(自己同一性、社会学等では、ある者が何者であるかについて他の者から区別する概念)自身等のためにも意義があると思います。

 

新しい令和の元号となった日本・・・日本人が元号を使い始めたのは、大化の改新(645年)からです。

大化の改新:大化元年(645年)から翌年にかけて中大兄皇子(天皇の子供・なかのおおえのおうじ・第38代天皇で諱は葛城)と中臣鎌足(豪族・なかとみのかまたり、後の藤原鎌足で藤原氏の始祖で、天皇に寄り添い、現在も京都を中心に国体の中枢にいるとも言われ、京都が権力の中枢と言われる所以のようです。)が中心となって蘇我氏(豪族・仏教派)に始まる一連の政治改革です。それまで仏教派の人々が政治の実権を握っていたものを、神道派の人々が取り戻して成した政治改革で天皇中心の政治がそこから始まります。そのときの元号、大化が日本最初の元号です。

この神道派の人達の多くは日本のタブーとも言われる、現在も日本の国体を司っているとも言われる旧約聖書に出てくる血統的スファラディー・ユダヤ人とも言われています。

日本の天皇家、皇室、相撲、日本文化、大和心・精神、現日本国の紋章、古事記等々もルーツを辿れば旧約聖書に行き着くとも言われています。これら等のルーツを辿れば日本は古代ユダヤ人の最終到着地、平安京(エルサレム)であるとも言われています。

日本にはネイティブ日本人とも言われる縄文人等が定住していましたが、多くの有色人種が日本に渡来しており、厳密に言えば20以上の有色人種の他民族国家とも言えそうです。これらの根拠を探すのは比較的容易だと思います。

日本と言う国が古来から世界で最も恵まれた自然環境、天皇制を頂点に据える国であり、世界のリーダーの多くはこれらの事実を理解等しているとも言われています。

私達は何かの縁ありで日本に生を受けていると思いますが、世界の人類史上でも稀に見る旧約聖書をルーツにする日本(50%程度)・・・私達はかけがえの無い日本での生涯を与えられているかも知れません。

如何に日本と言う国が凄い国であるかが旧約聖書を紐解くと理解できるように思いますし、これらの事実に日本人であることに大きな感動を覚えます。

旧約聖書は宗教とは何の関係もない、人類の書だと理解するべきだと思います。天皇は旧約聖書の流れでもある善を司る大祭司長であるとも言われ、国家の安泰、国民の幸せ、世界の平和を祈られていると言われています。世界でこのような制度、システムは存在しませんし、如何に私達が極めて恵まれた天皇制を頂点とする日本にいるかが分ります。

世界には26の王室等々が存在しますが、一説では天皇と違い、善を崇拝しないで真逆を崇拝するとも言われています。これらの事実に耐え切らなかったのがダイアナ妃であり、ダイアナ妃問題の核心部分だとも言われています。

 

日本の未来が定まったとも言われる等々、大化の改新は神道・古代ユダヤのしきたりを継承していると思いますし、神社そのものが古代ユダヤ神殿のコピーであることは間違いないとも言われています。全ての神社の頂点にいる人と言えば・・・

大化の改新の際に成された様々な出来事を素人なりに精査すると、びっくりするほど

古代イスラエルの伝統等が生かされています。

大化の改新は日本書紀・皇極天皇の治世第4年の7月1日に始まったとされ大化元年となります。この7月1日というのはユダヤでは新年にあたります。旧約聖書ではこの日を、聖なる集会の日と定められています。

「ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。どんな労働の仕事もしてはならない。火によるささげ物を主にささげなさい。」

(レビ記23章24節)

大化の改新では政治改革、法律改革がなされていますが、改革の中身を見ると古代イスラエルのモーセの律法、旧約聖書がもとになったであろうと思われる内容にそった改革が次々になされています。

大化の改新・・・不当に自分の身に取り入れたものは、倍にして徴収せよ。

(もし人が金銭または物品の保管を隣人に託し、それが隣人の家から盗まれた時、その盗びとが見つけられたならば、これを二倍にして償わせなければならない。)(出エジプト記22章8節)

これらはヨセフ・アイデルバーグ著・日本書紀と日本語のユダヤ起源(徳間書店)の中でわかり易く解説しています。

大化の改新をなしたのは神道派の人々や天皇家で、モーセの律法の書、つまりトーラーの巻き物(これが訛って、トラの巻と言う言葉が現代も生きています。)を所有していたと考えるのが自然です。

大化の改新・・・男奴隷と女奴隷の間に生まれた子は女奴隷側のものとする。

(男奴隷と女奴隷の間に生まれた子は、その母である女奴隷につけよ。)

(旧約聖書出エジプト記21章4節)

大化の改新・・・土地の分配を家族の人数に応じて行う。

民数記(26:54)

大化の改新の朝集使(ちょうしゅうし)の項・・・不当に自分の身に取り入れたものは、倍にして徴収せよと命じられている。自分のものでないものを偽って自分のものとして得るような人間がいたら、「二倍」のものをその者から取り上げよ。

モーセの律法と同じ。(旧約聖書出エジプト記22章9節)

大化の改新時の旧俗の廃止の項・・・死者のために、生きている者が断髪したり、股を刺したりする。死者のために生きている者が自分を傷つけるという風習は、今日も様々な民族に見られる。大化の改新の詔(みことのり)はそれを禁じた。

(自分の体に傷をつけることや入墨を禁じられていた。それは異教の風習だからである。祭司をはじめ一般の人々も、頭の毛を剃ることを禁じる。)

仏教の僧侶は頭を剃るが、神道神官は頭を剃らないし、入墨もしません。

(旧約聖書レビ記19章28節)、(旧約聖書レビ記21章5節、19章27節)

大化の改新の旧俗の廃止の項・・・人々の裁判について、たとえ明らかな三人の証人があっても、皆で事実を明らかに申し立てて、その後に官にはかるべきである。みだりに訴えをすべきではないとある。この言葉の背景には、証人は一人ではいけない。少なくとも二人、あるいは三人いなければいけない。しかしたとえ三人いても、みだりに訴えをすべきではなく、もし訴えをするなら、よくよく皆で事実を明らかに申し立ててからにすべきである。

(どんな咎(とが:あやまち)でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、一人の証人によっては立証されない。二人の証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。)(旧約聖書申命記19章15節)

旧俗の廃止の項・・・馬を人に預けている間に、預かっている人の不手際で馬が死んでしまったような場合、過大な償いをその人に要求するという風潮がこれまで世間によく見られ、大化の改新では、そうした償い要求を厳に禁じる法律が出された。

(ろばでも、牛でも、羊でも、またどんな家畜でも、その番をしてもらうために隣人に預け、それが死ぬとか、傷つくとか、奪い去られるとかして、目撃者がいない場合、隣人の絶対に手をかけなかったという主への誓いが、双方の間になければならない。その持ち主がこれを受け入れるなら、隣人の償いをする必要はない。)

(旧約聖書出エジプト記22章10~11節)

これらは極一部で日本語、君が代、古事記等々、日々意識することは少ないようですが古代イスラエルと日本の結びつき等々・・・武烈天皇等以前は神武天皇のように武勇の天皇だったようですが、天皇の継承等々があり以降、神事を司る天皇となり現在に至っているようです。激動の現在も其の流れは途切れることなく生きていると言われています。

表に出ることは稀ですが、日本の天皇、皇室に対する世界の頂点に立つ人達の憧れ等は極めて大きく世界でも最高位の位置付けのようですが、どうしてもこれらに対する妬み等が隣国等一部の国にあるようです。何故かを問うと天皇、皇室のシステムは旧約聖書、シュメール等そのもので人類の歴史そのものとも言えると思います。

大化の改新は645年ですが、現在もこの流れは生きており、日本の肝は“政治の中枢は東京”で“権力の中枢は京都”と考えるのが極自然に思える昨今です。

 


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