以下文はROSSIA BEYOND・2018年12月25日・アレクセイ・ティモフェイチェフ、旧約聖書、ウィキペディア等々を参考に記していますが、素人が精査した一側面に過ぎません。一部可笑しな文が多々あると思います。雑日記とします。
自分の国が無くなるなんて考えられないですが、世界の近代のみを見た場合でも多くの国々が無くなっています。国が大きくても永遠ではないようです。日本は数千年の歴史を誇る世界でも極めて稀な国であることが分ります。何故このような長い歴史を維持、誇っているか・・・異論があるかも知れませんが、天皇制・皇室、古来から日本、郷土、家族等を守るため名も無い多くの武士たちの公のために奮闘、近代では神風攻撃隊等々に尽きると思います。唯、国が存続しますようにと念仏を唱えるばかりでは国家の存続は難しいようです。
有史以来、世界では数百以上の多くの国が悲劇を伴い消滅しています。近代国家で消滅してしまった主な国を調べると10ヶ国位あるようです。これらの国々に共通するのは多くの悲惨な国民の犠牲、不幸等々を伴って消滅していることです。消滅後、新たな国となっても厳しい現実を垣間見ることが出来ます。日本と言う国が再認識できるかもしれません。
チベット(1912年~1950)
中国の自治区でもあるチベットは、一つの国でした。
1912年独立、指導者ダライラマ13世とダライラマ14世によって統治されていましたが、1949年に中国がチベット侵攻、以後、中国の支配下になり現在に至っています。難しいかもしれませんが中国侵攻に抵抗する意思、軍事力等々を保有していたら違った様相を呈していたかも知れません。これは琉球王国にも言えると思います。
1951年までチベットの君主の座に就いていたダライラマ14世・・・1959年にインドへ亡命、政治難民となりインドのダラムサラに樹立された中央チベット行政府(現、チベット人民機構、通称「チベット亡命政府」)においてチベットの国家元首を務めています。亡命後は法的には領土をもたない亡命政権の長という地位にありながら、世界中に散らばるチベット民族に対して政教両面において指導的立場にある人物と目されています
チベット亡命政府は、民族の独立国家を要求しているわけではなく外交、国防は中国政府に委ね、それ以外の宗教、文化、経済面におけるチベット人の自治を求めていると言われています。
チベットは中国の一部でいい、チベット民族の人間としての自由、尊重、高度自治を・・・それがチベット亡命政府の主張のようです。そもそも、チベット問題とは1951年、中国が当時のチベット政府に17箇条におよぶ協定への署名を強要した後、軍事力で侵攻して自国へと取り込んだことに端を発します。1959年にはインドのダラムサラで現ダライ・ラマ十四世を中心としたチベット亡命政府が発足しています。
17箇条におよぶ協定
第一条
チベット人民は団結して、帝国主義侵略勢力をチベットから駆逐し、チベット人民は中華人民共和国の祖国の大家族の中に戻る。
第二条
チベット地方政府は、人民解放軍がチベットに進駐して、国防を強化することに積極的に協力援助する。
第三条
中国人民政治協商会議共同綱額の民族政策に基づき、中央人民政府の統一的指導のもと、チベット人民は民族区域自治を実行する権利を有する。
第四条
チベットの現行政治制度に対しては、中央は変更を加えない。ダライ・ラマの固有の地位および職権にも中央は変更を加えない。各級官吏は従来どおりの職に就く。
第五条
パンチェン・エルデニの固有の地位および職権は維持されるべきである。
第六条
ダライ・ラマ、およびパンチェン・エルデニの固有の地位および職権とは、十三世ダライ・ラマおよび九世パンチェン・エルデニが互いに友好関係にあった時期の地位および職権を指す。
第七条
中国人民政治協商会議共同綱領が規定する宗教信仰自由の政策を実行し、チベット人民の宗教信仰と風俗習慣を尊重し、ラマ寺廟を保護する。寺廟の収入には中央は変更を加えない。
第八条
チベット軍は逐次人民解放軍に改編し、中華人民共和国国防武装兵力の一部とする。
第九条
チベットの実際状況に基づき、チベット民族の言語、文字およぴ学校教育を逐次発展させる。
第十条
チベットの実際状況に基づき、チベットの農・牧畜・商工業を逐次発展させ、人民の生活を改善する。
第十一条
チベットに関する各種の改革は、中央は強制しない。チベット地方政府はみずから進んで改革を進め、人民が改革の要求を提出した場合、チベットの指導者と協議する方法によってこれを解決する。
第十二条
過去において帝国主義と親しかった官吏および国民党と親しかった官吏は、帝国主義および国民党との関係を断固離脱し、破壊と反抗を行わない限り、そのまま職にあってよく、過去は問わない。
第十三条
チベットに進駐する人民解放軍は、前記各項の政策を遵守する。同時に取引きは公正にし、人民の針二今糸一本といえども取らない。
第十四条
中央人民政府は、チベット地区のいっさいの渉外事項を統一して処理し、かつ平等、互恵、およぴ領土主権の相互尊重という基礎の上に隣邦と平和な関係を保ち、公平な通商貿易関係を樹立発展させる。
第十五条
本協約の施行を保証するため、中央人民政府はチベットに軍政委員会および軍区司令部を設立する。中央人民政府が派遣する人員以外に、できるだけチベット地方の人員を吸収して工作に参加させる。
軍政委員会に参加するチベット地方の人員には、チベット地方政府および各地区・各主要寺廟の愛国分子を含むことができ、中央人民政府が指定する代表と関係各方面が協議して名簿を提出し、中央人民政府に任命を申請する。
第十六条
軍政委員会、軍区司令部、およびチベット進駐人民解放軍の所要経費は、中央人民政府が支給する。チベット人民政府は、人民解放軍の食糧およびその他、日用品の購買と運輸に協力するものとする。
第十七条
本協約は署名捺印ののち、直ちに効力を発する。
チベット侵攻に関する中国政府の主張は、もともとチベットは中国の一部、堕落したチベット仏教僧侶らが政治を動かし、農奴制だった社会を中国が解放したというものです。中国人民解放軍侵攻との戦いで43万人以上のチベット人が死亡、その後の獄死、強制労働、処刑等を含め120万人ものチベット民族が死亡したとも言われています。(チベット亡命政府によるインフォメーション・チベット白書、日中出版より)
その後、チベット地区へ漢民族が大量に移住、政策による大規模な漢民族の移住(囚人もチベットに移住するなら解放されたという話もある)が行われることによって、チベット民族の立場は悪化の一途をたどり、貧困化の加速、自文化の崩壊、民族存続の危機、信仰の不自由という状況が続いています。移住計画と中国化政策によって、今やチベット自治区においてすら、チベット民族はマイノリティーとなっているようです。
ソビエト連邦(1922年~1991年)
ソビエト連邦(ソ連)は、世界で最も有名な超大国消滅国で、社会主義の理想を掲げ、一時期は世界の超大国としてアメリカと冷戦を繰り広げたほどの国家でしたが、時代は資本主義を中心に回転をはじめ、徐々に徐々に社会主義勢力が押されていきました。そして、1991年ついにソビエト連邦崩壊。ソビエト連邦の崩壊は歴史の終わりと呼ばれたほどの大事件でした。
ソ連崩壊の主要因等・・・3つの要因が考えられると言われています。
*原油価格等
崩壊の一原因とも言われる1985年9月13日のサウジアラビアのアハマド・ザキ・ヤマニ石油鉱物資源相のサウジアラビアが石油減産に関する協定終了宣言・・・この日はサウジアラビアが石油市場におけるシェアを拡大し始めた日でした。
これらの主張は故エゴール・ガイダル氏は(政治家、経済学者、下院国家会議議員、右派連合共同議長、ソ連崩壊後エリツィン時代前期に首相代行、第一副首相などを歴任)ソ連崩壊後の1990年代の急進的な経済改革を主導した人です。
1986年原油価格下落が大きな転機となり、ソ連にとって収益を生み出すためのあらゆる可能性が崩れました。原油収入は穀物の購入に必要な資金をもたらしていました。当時、ソ連における穀物輸入は17%にも及んでいました。原油収入はソ連が西側から消費財を買い、エリート層に使わせるのにも当てられていたようで、実質的にはエリートへの賄賂でもあったと言われています。
ソ連原油価格の下落は、経済の減速と軌を一にし、それは1960年代に始まったようです。この長期的な傾向は原油収入の減少でさらに悪化、ソ連の経済モデルの崩壊をもたらしたと言われています。
*民族間の緊張
1980年代後半、ペレストロイカ(政治体制の改革運動。ロシア語で「再構築」を意味)の時代には各ソ連構成共和国では民族主義がぶつかり合って生じる対立、紛争がますます激しくなっていました。民族主義による暴力の最初のケースは1986年末にカザフスタンの首都アルマトイで起きました。カザフ人の若者は共和国の首長としてロシア人が任命されたことに失望、やがて不穏な状況を鎮めるために軍隊が派遣、それからアゼルバイジャンの都市スムガイトでポグロム(ユダヤ人に対し行なわれる集団的迫害行為等)が発生、グルジアの首都トビリシでも暴力的事件発生、アゼルバイジャンの首都バクーその他でも暴力沙汰、そしてバクーその他でも同様の事件が起きています。
最悪の流血をともなった紛争は、アゼルバイジャンとアルメニア間のカラバフで生じました。これらはソ連崩壊の引き金となった主な政治的誘因の一つとも呼ばれています。
1980年代後半までに、民族紛争は新たな、致命的な転機を迎え何百、何千もの命を奪っています。
1990年の時点でもソビエト共和国の大多数はソ連を離脱することを望んでいませんでした。
ロシアの歴史家アレクサンドル・シュビン氏によれば、状況は比較的静穏に見えた。バルト三国とグルジア(ジョージア)だけがはっきり分離主義的な道に踏み出しただけだったと述べていますし、民族の分離主義運動が、ソ連国家の構造にもたらしたあらゆる危険にもかかわらず、それだけではソ連を崩壊させるには足りなかったと述べています。
*ゴルバチョフの改革
ソ連8月クーデター(新連邦条約の締結を翌日に控えた1991年8月19日に、ソビエト連邦のモスクワで発生したクーデター)後、ソビエト連邦大統領ミハイル・ゴルバチョフが共産党を禁止する条約に調印、これはソ連の終わりを意味します。
ソ連崩壊を引き起こした要因はゴルバチョフのペレストロイカとともに1980年代半ばに始まっており、この国の指導部の行動だと考えられます。
ゴルバチョフ氏が故意に社会主義、ソ連を破壊しようとしたというロシアで広まっている陰謀論さえあります。これは取るに足りない臆説で、彼が自分の支配を本当に弱体化させたがっていた兆候などまったくないようです。
ペレストロイカは、それまでに悪化の兆しが見られたソ連の体制を改革しようとしたものです。彼の最初の改革、いわゆる経済の加速は現代化された社会主義の可能性を解き放つはずでした。これらの改革を新スターリン主義と呼んでいます。ゴルバチョフの改革が冷酷な前任者の政策同様のパラダイム(科学史家・科学哲学者のトーマス・クーンによって提唱された科学史及び科学哲学上の概念で一般には模範、範を意味)で行われたからだと言われています。
ゴルバチョフの最善を目指した意図にもかかわらず経済は加速に失敗、それとは反対に、彼の非効率的な政策は、国家を弱体化させる下方スパイラルにつながったようです。ゴルバチョフ以前のソ連システムはうまくいっていなかったが、彼の改革のせいで機能停止に陥ったようです。
経済を現代化する方法を必死に探し求めてゴルバチョフは、民主化の過激なプロセスを始動させたが、これがソビエト体制と帝国の死を必然的なものにしたようです。舞台に新たな人物が登場、その中にはボリス・エリツィンもいました。彼は独立したロシアを創ろうとしていました。これはソ連の終焉が不可避であることを意味したようです。
ゴルバチョフは、ロシア本国では偉大なる超大国ソ連を崩壊させてしまった戦犯であると位置付けられているようです。現在も多くの地方都市ではレーニン像が立っているようです。
ソ連崩壊では多くの国民が屈辱を味わっています。経済的混乱等による想像を絶する大量の乞食が発生し、ソ連国民としての誇りも地に落ちた言われ、何よりも紙切れ同然のルーブルに対し、最強のドル・・・多くの資産等が強いドルで買い叩かれています。国民は唯、眺めるのみで術がなかったと言われています。この状況はドイツのナチス台頭前に極似しています。これらの状況を見たプーチン(現大統領)氏は国益、国民益等を掲げて登場し、現在に至るようです。
ロシア世論調査結果(ロシアにおいては最も信頼できる、レバダ・センターによる調査結果)2018年11月22~28日にロシア全土で1600人の成人を対象に実施した対面調査結果
ソ連邦崩壊を残念に思うという回答者が66%、思わないという回答者が25%(回答困難が9%)
主にどういう理由でソ連邦崩壊を残念に思っていますか?
一体の経済システムが崩れたから:52%、大国に属しているという感覚が失われてしまったから:36%、お互いの不信感、反感が増大したから:31%、親戚、友人たちとの繋がりが遮断されてしまったから:24%、どこに行っても、我が家だという感覚が失われたから:24%、自由に旅行したり休暇に出かけたりするのが難しくなったから:13%
ソ連邦崩壊は避けられたと思いますか?
避けられた:60%、不可避だった:27%(回答困難12%)
特筆すべきは、日本では報道されませんが、激動・混乱の中で生まれた新制ロシアが旧ソ連から核兵器を受け継いだことが何よりも最大・最良・賢い選択であったと全ロシア国民が支持しています。当時、西側等は新制ロシアの大国化を阻止するため、旧ソ連の核兵器を持ち出し・解体、売却等々しようと血眼で旧ソ連核兵器策を講じていたとも言われています。
*南ベトナム (1945年~1976年)
南ベトナムは先の大戦で日本降伏によって誕生した国家でした。
ベトナム国・ベトナム共和国・南ベトナム共和国と何度も国名が変わっています。
現ベトナムは社会主義国ですが、もとは南ベトナムはフランス、アメリカの植民地の影響を強く受けた反共産主義国家です。
ベトナムでのインドシナ戦争がジュネーヴ休戦協定が成立してフランスの撤退後、アメリカはその休戦協定を承認せず新たに南ベトナムを支配、北の共産主義勢力の南への診療を阻止しようとしました。1955年、アメリカはフランスの傀儡国家であったベトナム国のバオ・ダイを追放、親米派のゴーディン・ジェムを首班とするベトナム共和国を成立しましたが、これはアメリカの傀儡政権でした。ゴーディン・ジェム氏はジュネーヴ協定の取り決めである南北統一選挙を拒否、反対派を厳しく弾圧、南ベトナム政府は大統領の一族登用など腐敗がひどく、国民の支持がなく、カトリック信者だったので仏教徒を弾圧、仏教徒の焼身自殺などの抗議があいついで政情は安定しませんでした。1963年に軍部クーデタが起き、アメリカも見放したため殺害、ケネディ大統領暗殺の3週間前でした。
最終的にはベトナム戦争終了後、1975年現在のベトナムに吸収され消滅しました。社会主義、資本主義の戦いによって生まれ、冷戦のあおりを受け、多くの国民の犠牲を出して消滅した国ですが、ベトナム戦争(1960年12月~1975年4月)で、南ベトナムだけで戦死者28万5000人、行方不明者149万人、民間人158万1000人の犠牲を出しています。
*ユーゴスラビア連邦共和国 (1992年~2003年)
21世紀まで存在したユーゴスラビア国は2003年に消滅しました。冷戦終結とともに誕生、セルビアとモンテネグロという2つの国による連邦国家でした。この国の歴史は戦争の歴史ばかりです。ユーゴスラビア紛争、コソボ紛争等多くの戦争が起こっています。この紛争で死者・行方不明者20万人、被災者・難民270万人の犠牲をだしています。現在ではセルビア、モンテネグロの2つの国に分かれました。町中では空爆、銃跡等の名残が多く残っていると言われています。
*アラブ連合共和国(1958年~1961年)
1958年2月、アラブ民族主義(国家の枠を超えてアラブの一体性を実現しようとする運動等)を掲げたナセル大統領のエジプト共和国とバース党政権のシリアが合併して成立した国家で、反米親ソ路線をとる両国の合併でしたが、アラブ世界の盟主を自覚するナセルの主導権が強まるとシリア側が反発、1961年に解消しました。
これらの背景にはスエズ戦争後、中東地域でのイギリスの後退、後にソ連の影響力が強まったことを警戒したアメリカは1957年1月アイゼンハワー・ドクトリンを発表、中東への武力介入もありえることを宣言、アラブ民族の統一と連帯を説くアラブ民族主義が燃えあがってしまいました。
シリアではバース党が台頭しソ連に接近、エジプトのナセル大統領を説いて、エジプトとシリアの統合を実現しました。このカイロ・ダマスクス枢軸の成立はアメリカだけでなく周辺のイラク、ヨルダン、サウジアラビアの3王国にも大きな衝撃を与えました。この国家統合は、シリア側が言い出したものの合併後はエジプトが強まったためにシリア内部に分離派が生まれ、1961年に軍部がクーデターを起こして連合共和国の解消を決めたため、あっけなく消滅しました。エジプトは1971年までアラブ連合共和国の国名を続けています。
*アイレク共和国(1995年)
アイレク共和国は1995年6月26日独立、1995年6月28日に消滅した国家です。
2日で消滅した国で歴史の短い国です。この国はニカラグアとコスタリカの間に存在、最初はコスタリカ人が住んでいましたが、徐々にニカラグア人が移住、ニカラグアなのかコスタリカなのかよくわからない地域が誕生
そのカオスな地域の主な産業はワニを捕獲してその皮を売るというものですが、1990年にニカラグア政府が自然保護のためその地域でのワニの捕獲を禁止、それに怒った地元民が急に独立宣言、アイレク共和国が誕生、しかし、2日後にニカラグア軍が制圧、あっけなくその歴史は幕を閉じました。
*ローデシア(1965年~1979年)
ローデシアはアフリカに存在した国で、現在のジンバブエの前身です。もともと現在のジンバブエとは全く違う国で、最初は白人が政治の実権を握る国家でした。黒人には参政権は与えられない不平等な国でした。憲法改正で人種差別をなくす動きが国家単位でおこり、1980年に現在のジンバブエ共和国として独立しました。
*タンガニーカ/タンガニーカ共和国
タンガニーカは1961年から1962年、タンガニーカ共和国は1962年から1964年、アフリカ南東部でインド洋に面する場所に存在していた国家です。1964年にザンジバルと合併、タンザニアとなりました。
*アビシニア(エチオピア帝国)・アフリカ最古の独立国
1137年~1974年まで東アフリカに存在した国です。現在のエチオピア北部とエリトリア地域です。
英語圏等国ではアビシニア、同国内ではエチオピア帝国と呼ばれていました。
国家成立年は1137年で、軍事クーデターにより、最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が1974年に倒れ、帝国は終焉しました。ハイレ・セラシエ1世(1892年7月23日~1975年8月27日)はエチオピア帝国最後の皇帝(在位1930年11月2日~1974年9月12日)で、アフリカ統一機構初代議長でした。
1974年9月2日早朝、皇帝はアディスアベバの宮殿内で陸軍のクーデターにより逮捕・廃位しました、拘禁中の1975年に暗殺(犯人はメンギスツという説もあります。1997年にエチオピア当局は廃位直後に射殺されたと発表)されています。長らく遺骨は行方不明でしたが、1992年に旧宮殿敷地内から発掘、2000年にアディスアベバの至聖三者大聖堂内の墓地に埋葬されました。
息子のアスファ氏は妹等と共にアメリカのニューヨーク州に逃れ、慎ましく過ごされていましたが、1989年には皇帝アムハ・セラシエ1世を称しましたが、1997年にバージニア州で死去されています。アスファの息子ゼラ・ヤコブ氏は現在、エチオピアのアディスアベバに戻って居住されているようです。
1934年に甥であるリジ・アラヤ・アベベ皇太子(~2002)と日本の黒田広志・子爵の次女雅子氏(22才)との縁談(第二候補として田畑亀太郎氏(福岡県門司市の資産家)三女茂子氏(24才))がありましたが、エチオピアを狙うムッソリーニの干渉により破談になっています。
ハイレ・セラシエ皇帝は1956年11月、戦後初めて日本を訪れた国家元首の国賓で日本から大歓迎されています。1970年も大阪万博観覧のため来日されています。
表に出ることは極めて少ないようですが、エチオピア皇室は日本同様、旧約聖書の中の血縁的(アブラハム→イサク→ヤコブ)スファラディー・ユダヤ人です。エチオピア皇室は旧約聖書に登場する、シバの女王の血統であったとも言われています。旧約聖書・列王紀上 10章、歴代志下 9章に出てくるシバの女王、シバはアラビア半島南西部地域(イエメンのマーリブを中心とする地域)の古代名でシバの女王の統治期間はソロモン王とほぼ同時期の紀元前10世紀頃です。新約聖書では地の果てからやって来た南の女王と表現されています。シバの女王とソロモンが交わって生まれた息子がエチオピアに王朝を建てたという根強い説があります。この説はエチオピアの王国史の一部ともなっています。
日本同様、数千年の歴史を誇っており、旧約聖書の流れを汲むと言われたエチオピア皇室が無くなったことは日本の皇室のみならず、人類にとって極めて大きな事案であることは間違いないでしょう。
エチオピアはヨーロッパ諸国によりアフリカのほぼ全土が植民地化されていた時代も独立を保っていたアフリカ最古の独立国です。アフリカ諸国の中で植民地化を免れた国は、エチオピア帝国、リベリアのみです。
*アラウカニア・パタゴニア王国(フランス人弁護士・冒険家が国王)
1860年から1862年に南アメリカ大陸の南部に建国された国家で、現在のアルゼンチンとチリの一部です。1860年頃、原住民であるマプチェ族がアルゼンチンやチリの進出を食い止めるため武装抵抗を行っていました。1860年にこの地を訪れたフランス人の弁護士かつ冒険家のアルリ・アントワーヌ・ド・トゥナンがマプチェ族に共感、アラウカニアの独立を宣言、自身は国王となっています。
その後パタゴニアも同国の領域に含めています。しかし地球上のどの主権国家にも同国は承認されていません。1862年にトゥナン氏はチリ政府拘束、後に同国はアルゼンチンとチリの領土となりました。