以下文は、経済発展には道徳が重要な意味を持つとの考え方を具現化した人物を探していたところ、渋沢栄一に行き着きました。更に渋沢栄一は日本の新しい紙幣にも採用されるようで、今日の日本にぴったりの人物だと思います。紙幣肖像人物を選んだ安倍政権は何かの縁だったかも知れません。可笑しな箇所はスルーして下さい。朝日、産経新聞、ウィキペディア等々を参考に記しています。一部コピー箇所があります。
昨年、2019年4月9日、2014年度上期に3種の新紙幣が発行されると報じられています。私達に身近な紙幣、この紙幣への渋沢栄一(日本の武士、官僚、実業家、慈善家で位階勲等爵位は正二位勲一等子爵、雅号「文人・画家・書家などが、本名以外につける風雅な名のこと。」は青淵)、肖像決定は安部政権であったから可能であったかも知れません。特筆すべきは著書等を読めば安倍首相と渋沢栄一・・・国、民に対する思い等は同一でもあると思います。
新しい紙幣の一万円券の肖像に決まったのは、日本の資本主義の父と言われ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)、東京株式取引所(現・東京証券取引所)等500以上の企業、団体設立・運営にあたった明治・大正期を代表する実業家の渋沢栄一です。渋沢栄一は1963年発行の千円券の肖像候補でも有りましたガ、伊藤博文に決まり機会を逸しています。
渋沢栄一は、以前に一度、紙幣肖像に採用されています。日本が大日本帝国と呼ばれた時代、大韓帝国併合前の朝鮮半島において日本政府の監督下、事実上の中央銀行に当たる朝鮮銀行から、1902年、渋沢栄一肖像の紙幣が発行されています。
対し、韓国側は日本政府が2019年4月9日に発表した新しい1万円札の肖像画に渋沢栄一が採用されたことについて、4月10日付の韓国の新聞各紙は、日本の新紙幣の人物は経済侵奪の張本人(ハンギョレ新聞)等批判的に報じています。主要紙の東亜日報は、日韓併合直前に日本の民間銀行が現地で流通させた紙幣の肖像に渋沢が採用されたことを紹介、韓国の歴史観に照らして波紋が起きかねないとした上で愛国心を強調する安倍首相の政治哲学と合致するとの解釈を伝えています。更に、中央日報は渋沢が日本資本主義の父と呼ばれていると伝えたうえで、初代韓国統監だった伊藤博文と親友だったと強調しています。
韓国では過去、日本が千円札肖像画に伊藤を採用していたことにも批判が起きています。韓国側のこのような論調は論にも値しない論調で無視すべき内容で、日本は凛とした姿勢が大切だと思います。
渋沢栄一は、1840年2月13日、武蔵国血洗島村(現・埼玉県深谷市)の豪農家に誕生、父・市郎右衛門は、地の特産物の藍玉(藍の葉を発酵・熟成させた染料である蒅を突き固めて固形化したもの。)の製造、養蚕を兼営、米、麦なども手がける富裕農家、近隣村落の信望も厚く、村役人を任され苗字、帯刀を許された人でした。渋沢栄一に転機が訪れ、17歳の頃、父の名代で村の代官所へ赴いたことがありました。世は幕末、村の領主・岡部藩安部家も積赤字に苦しみ、領内の豪農に御用金(幕府・藩・旗本などが財政窮乏を補うため臨時で農民、商人などに課した金)を課していました。豪農たちは、それを無条件で受け入れていました。
はじめて会合に出た渋沢栄一には何か釈然としない・・・渋沢が父に伝えてから返答しますと答えると、代官は彼を見下げ、百姓の小倅(こせがれ:若い男子をののしっていう語)がと嘲弄、腹立たしさが渋沢を襲いました。そもそも御用金は年貢ではなく、いわば藩が無心しているものであり返済されませんでした。それをなぜ高圧的に命じるのか、渋沢はその怒りを社会の仕組み、身分制度に向けます。1863年、国内における尊王攘夷ブーム最中、彼は同志と共に高崎藩の城を攻略し、横浜を焼き討ちしようというとんでもないことを画策、まさに無謀な計画で、この計画は事前に露見、渋沢は幕府のおたずね者となりましたが、その窮地を救ったのは、江戸留学時に面識のあった将軍家の家族で一橋家の用人・平岡円四郎でした。渋沢は算盤勘定ができるため、一橋家で平岡付きの用人となりました。
一橋家の財政再建で手腕を発揮した渋沢は、1867年正月、将軍徳川慶喜(よしのぶ)の実弟・昭武(あきたけ)のパリ万国博覧会列席に随行、パリへ渡った渋沢は、初めて汽車に乗り、市中を散策、西洋文明に触れました。特に銀行家が軍人と対等に会話を交わす場面には衝撃を受けたと言われています。当時、日本では商人の地位は低く、彼らには己れの卑屈さに馴れている一面がありました。当時の日本には利は義に反するといった儒教道徳が定着、経済を卑しいものとする幕府は、御用金頼みで財政難をしのごうとしていました。
欧州文明を見聞した渋沢、これからの日本は先ず殖産興業をおこさなければならないと痛感、先ず、商人を卑しめる慣習を拭い去り、彼らが自信と誇りを持てるようにしなければならないと渋沢は気づき、商人の社会的地位向上を目指しています。
帰国した渋沢を待っていたのは、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れ江戸から静岡に移住した慶喜たちの姿でした。
人の運命とは不思議なもの。帰国後、新政府から静岡藩を与えられた旧幕臣らとその地へ移った渋沢は勘定組頭となり、藩と在地商人らによる商法会所を設立。商業・金融業を始めますが、これが縁で新政府に見出されます。その後、政府の大蔵官僚を経た渋沢は、1873年、日本初の近代銀行である第一国立銀行が設立されると総監役、頭取に就任、ただ、この頃の国立銀行は国立銀行条例によって設立をみた金融機関であり、「国法によって創られた銀行」。国営・国有のものではなく、あくまで民間の銀行でした。また、条例の制定により、全国各地で国立銀行創設の気運も高まっていました。近代企業を株式会社として設立することを強調した渋沢栄一は、自ら先頭に立って経営参画、日本初の洋紙製造会社である抄紙会社(現・王子製紙)、紡績会社(現・東洋紡)、海上保険会社(現・東京海上日動火災保険)等を創設しました。
しかし、彼は決して自身の財を築くようなことはしませんでした。それは彼が生涯、三井、三菱、住友といったような大財閥を形成しなかったことからも明らかです。三井、三菱、住友等大財閥の生い立ち、経営方針等々、”表に出ない本質等を知っていた”からでしょう。
渋沢栄一は日本の近代産業を育成・発展させるため、論語(孔子:BC552~479、春秋時代末期の思想家・教育者・政治家で、その弟子の会話を記した書物で全20篇、全部で1万3千字あまりの本で、人の生きる道、考え方、道徳等を述べています。)を徳育の規範として、道徳経済合一説(道徳と経済は両立させることが可能)を実践しなければならないと提唱しています。
営利の追求も資本の蓄積も、道義に適ったものでなくてはならない。仁愛と人情に基づいた企業活動を、民主的で合理的な経営のもとで行なえば国は栄え、国民生活も豊かになる。そのためには先ずは、教育が重要と考えた渋沢栄一は、東京高等商業学校(現・一橋大学)、大倉高等商業学校(現・東京経済大学)、岩倉鉄道学校(現・岩倉高等学校)などの創設・発展にも尽力しています。
1909年、70歳で第一国立銀行などを除き、60にも及ぶ事業会社の役職を辞任しています。1916年、金融業界からも引退、有名な“論語と算盤”を出版しています。社会、公共事業に専念しつつ、道徳の大切さ、重要性を説いています。
激動期の明治後期~大正、日本人の暮らしがこの時期は豊かになりました。でも、心の豊かさはどうでしょうか・・・経済も同じで、企業は利潤を追求しますが、その根底に正しい道徳がなければ企業は不正の中に倒れ、存続できません。例え存続出来たとしても多くの民の幸せは得られないと説いているようです。
各種国際親善事業を自ら先頭に立って推進、“衣食足りて礼節を知る、貧すれば鈍す——経済と道徳は車の両輪のようなもの”と語り続けた渋沢栄一、新一万円札の肖像には、正に異論が無い人物だと思います。
今日、渋沢栄一が生きて社会に関わっていたら、国益、国民益を守るために奮闘した安倍政権の下、私達の豊かさの価値観は違っていたかも知れません。
コロナ・ウイルス行動制約下ですが、読書もお勧めです。是非、皆さんにお勧めするのは、現代語訳論語と算盤(ちくま新書)渋沢栄一、守屋淳・900円です。社会生活・活動で必須の経済でも道徳が大切かを解いています。
日本の巨大財閥とは違う道を歩んだ渋沢栄一、“何故”、違う道を歩んだか・・・言えることは、”表に出ることが無い巨大財閥設立の生い立ち、バックには・・・これらを見抜いた渋沢栄一”、心から経済発展による国の発展、民の幸せを願っていました。この考えは、今日のトランプ大統領、英国メイ元首相、ジョンソン首相、安倍首相にも通じるものがあると思います。日本の激動期に日本の発展のために尽力した渋沢栄一、新しい紙幣で目にすることを楽しみにしています。