以下文は、「ある通商国家の興亡―カルタゴの遺書」 単行本1989年5月 森本 哲郎 著、「ある通商国家の興亡 カルタゴの遺書」オンデマンド (ペーパーバック)2016年7月 森本 哲郎 著、ウィキペディア等々を参考にしています。
当時のカルタゴ(紀元前九世紀頃、フェニキア人がアフリカ北部の地中海岸に建設した都市国家、紀元前六世紀頃、地中海西部を制覇したが紀元前146年、ポエニ戦争でローマに敗れて滅亡)は、不思議と日本の戦後、現代日本に似ている部分があり、このままでは日本の未来は巧妙に間接侵略等々され、気がついた時には“間接”興亡となってしまう可能性はあると思います。
通商国家、カルタゴの史実に言えることは・・・
平和ボケしていたカルタゴの市民
孫子の兵法は無視されていた。
全てが自分中心の商いに明け暮れていた生き方
に尽きると思います。カルタゴ滅亡の史実は世界の軍事、一般教育等々、勿論日本の自衛隊等でも、史実の教材として一部参考にされていると思います。
カルタゴと聞いたら、多くの方は遠い昔にあった国で滅亡国だとお分かりだと思いますが、具体的に地理的には何処か、滅んだ真相はと言うと解かり難(に)くいと思います。
カルタゴの名は、フェニキア語のカルト・ハダシュト(Kart Hadasht:新しい町)に由来していると言われています。
カルタゴは、イタリア、シチリアの反対側のアフリカ大陸の地中海側に面し、現在のアフリカ大陸チュニジアに位置しています。
当時のカルタゴは高い造船技術を有し、スペイン、シチリア等の海外領土を支配していました。紀元前3世紀、地中海貿易で富を蓄え、ローマと並ぶ強国になりました。
紀元前264年、ローマとカルタゴの間にあるシシリー島でカルタゴとローマは激突・・・この戦いは23年間の中断をはさんで63年間続きました。
第1次ポエニ戦争(紀元前264年~紀元前241年)、第2次ポエニ戦争(紀元前219年~紀元前201年)です。ポエニという名称は、ローマ人によるフェニキア人の呼び名から名付けられています。
第2次ポエニ戦争でローマに敗戦、“戦勝国から武装解除させられ、戦争を放棄する”ことになりました。
全ての海外領土は放棄、軍船、象もローマに引き渡し、軍隊は自衛のものだけが許されますが自衛戦争の場合でもローマの許可が必要で、後々許可の項が問題となり、カルタゴが滅亡する主因となります。
50年払いで1万タラント(古代ギリシャ・ヘブライの重量単位、貨幣単位)の賠償金をローマに支払うことが決まりますが、何とかカルタゴは残りました。
紀元前187年、カルタゴは50年払いと決められた賠償金を一括払いしたいと申し出します。カルタゴ人の経済力にローマ人達は、羨望と同時に恐怖心をも抱き始めます。
カルタゴの100人会(将軍職は特定の家系の出身が多く、その権限を制限するために設立された会)は貴族の世襲制、戦後代議員が選挙で選ばれるようになり、カルタゴは、民主主義の国家に生まれ変わります。
以後、カルタゴは戦後の復興を経済、経済繁栄を見事に成し遂げ、戦後賠償も終えましたが、その経済繁栄を脅威だと捉えた強国ローマに滅ぼされました。
滅亡直前、カルタゴの愛国者・ハンニバル将軍(紀元前247年~紀元前183年・64才没、古代カルタゴの将軍、ローマと数十年に渡り戦闘を行っています。戦術家としての才能に優れ、現代も各国軍隊からも教育資料として参考にされています。)はローマの野心を見抜き、祖国カルタゴの危機を市民に必死に訴えましたが、平和ぼけしたカルタゴ市民は耳を貸すどころか、ハンニバルを中傷する人さえ現われています。
最終的にハンニバルは、ローマ帝国に洗脳された者達にローマに売られ、自殺にまで追い込んでしまいました。
当時、経済大国であったカルタゴの最大の問題は、隣国のヌミディア、騎馬兵を有する強国です。自衛力しか保有しないカルタゴを馬鹿にし領土をどんどん侵犯します。カルタゴはローマに調停をお願いしますが黒幕のローマは取り合いません。
カルタゴとヌミディアの間で戦争勃発、カルタゴは敗北・・・自衛戦争であってもローマの事前許可のない戦争は条約違反、ローマはカルタゴに対して突然宣戦布告、ビックリしたのはカルタゴ、ローマの許しを得ようと、300人の貴族の子供を人質に差し出しますが、8万人の最強ローマ兵がカルタゴに進軍開始、カルタゴの使者がどうしたら許してもらえるか?とローマの司令官に問います。
ローマの司令官の回答は・・・
全ての武器を差し出せ!
カルタゴは20万人分の鎧、投げやり、投げ矢、2000の石弓を差し出します。
司令官は、最後の要求を使者に言い渡します。
我々は、カルタゴの街を根こそぎ破壊することを決めた。カルタゴ市民には、今の街より10マイル内陸部に新しい居住地帯を造ることを許可しよう。
使者からローマの意向を聞いた20万人のカルタゴ人は驚愕、嘆き悲しみ、最後に激怒します。カルタゴ人は、丸腰で戦う覚悟を決めます。
返事の猶予期間の30日間、密かに戦争準備がすすめられます。
武器職人は、連日徹夜で武器を作ります。
若い女性は、長い髪を元から切って石弓の弦が作られます。
こうして、始まったのが、第3次ポエニ戦争(紀元前149年~紀元前146年)で、この戦いはローマによるカルタゴの民族浄化とも言われています。
カルタゴは、ここで奇跡的な粘りを見せます。
丸腰で三年間ローマの猛攻を食い止めました。しかし、戦闘と飢え、疫病で20万人のカルタゴ市民は10万人に減少・・・
ついに、ローマ兵は城壁を破り、街へ進入します。
女、子供までがレンガを投げて抵抗しますが、5万人が虐殺されました。
ビュルサの砦に逃げ込んだ5万人のカルタゴ人は、オリーブの枝を掲げて投降しますが、一部が処刑され、残りは奴隷として売られます。 カルタゴの街は瓦礫となりました。
カルタゴの復活を恐れたローマは、この地に塩を撒き不毛の土地にします。700年続いた経済大国カルタゴと世界の富を独占したカルタゴ人は、BC146年こうして滅亡しました。
カルタゴが滅亡した時代は違いますが、背景は戦後、現代日本にも通じるものがあります。この史実は決して他人事ではないように思います。
「ある通商国家の興亡―カルタゴの遺書」・・・遺書とは英語ではfarewell letter note で、直前に迫った死を知って、残された家、友人に向けて残されるもので、この著者は未来の国々への貴重な史実のため遺書と言う言葉を使用していると思います。
世界でこのカルタゴの史実を学び、一番教訓となるのは可笑しな憲法保有国でもある日本意外にはないと思います。私達はこのカルタゴが滅んだ史実を真剣に学ぶ必要があると思います。
平和、秩序と声高々にいくら叫んでいても、世界は報いてくれません。やはり世界の史実を見た場合、国力に応じた防衛力整備、備えあれば憂い無しのもと、その上で理想を求めるのが最も理想のように思えます。
カルタゴの武将、ハンニバルは2000年以上経た現在でも、その戦術、特に包囲殲滅戦術は研究対象として各国の軍隊組織から参考にされるなど戦術家としての評価は非常に高く、今日、チュニジアで流通している5ディナール紙幣にも肖像が使用されていると言われています。
私達は学校でカルタゴの滅亡を学びますが、何故滅んだか、日本の教育現場では軍事力の必要性は全く触れません、タブーのようです。私達、日本人はカルタゴの史実から、学ぶべきものは多々あると思います。
今、日本は安倍政権を経て、新しい菅政権下で、国を守ろうと言う気概を醸成しようとしていると思いますが、メディア等は相変わらず安倍政権同様、菅政権でも憲法問題には重箱の隅を突くようにバッシング機会を伺っているような昨今、憲法改正を目指していなかったら安倍元首相も徹底的なバッシングは無かったでしょう。
憲法改正は国家としての尊厳等、何よりも私達に”夢・希望・誇り”を取り戻すことが出来ます。私達に目に見えない物質的なものを越える、良い意味での大きな影響を与えると思います。
今、日本は未来が決まる岐路にあると思います。諸論等あろうかと思いますが、カルタゴの史実から何かを感じ取ってもらいたいものです。