旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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島を離れる・・・・卒業式・進学

2018-04-01 00:10:00 | ノンジャンル
 僕の小学校、中学校は、家から徒歩で3分ほどのところにあった。
 カンカンカン!米軍製の空ガスボンベが告げる始業の音を聞いて、駆けて行けば、1時間目に間に合った。昭和20年前半のことである。
 しかし、高校は集落から小高い丘をひとつ越えて行かなければならなかった。路線バスが走ってはいたが「親は何のためにお前に両足を与えて生んだっ」と怒鳴る兄がいて、よっぽどのことがないかぎり、バス通学は許されなかった。
 それは貧しさというよりも、学校が30分では行ける近場にあったからである。
 いま、離島の子たちは小学校、中学校を卒業しても、島に高校がなく、親元を離れて、沖縄本島の高校に進まなければならない。バス通学が制限された僕なぞとは異なる(15歳の独立)を強いられている。

 この春、高校進学のために島を離れるいくつかの離島の子らの卒業式を覗いてみよう。

 {南大東島}
 南大東中学校第70期卒業式は14人。全員が高校進学を決めていて、15年を過ごした(ふるさと)を後にする。
 「届けこの想い。響けこの歌、愛する島を誇りに、はばたけ15の春」をテーマに、島びとこぞって卒業式を挙行、一人ひとりがスピーチをした。
 「島のことは決して忘れない。挫折しそうになったら、島の風景や島びとや親を思い出して頑張る」。
 「誇れる島があるから、どんな困難も乗り越えられる」
 純粋な決意に両親や教員も熱い涙でエールを送った。

 {北大東島}
 ここも第70期の卒業生6人を送り出した。
 「高校では、新しい友達をたくさんつくりたい」
 「将来の夢は消防士。体力をつけたい」
 「高校では部活と勉強の文武両道を目指す」
 すでに(人生設計)を成している。

 {粟国島}
 小中学校生11人。
 「ランドセルを背負って小学校入学から9年。喧嘩もしたけど、みんなで楽しく過ごせた。父母には感謝の気持ち以外にない。15年間育ててくれてありがとう」」
 「島の暮らしでは、人とのつながりの大切さを学んだ。いつも一緒にいた同級生もほとんど違う高校に進むが、みんな目標を持って頑張りたい」。

 {渡名喜島}
 卒業生4人。
 「両親や地域の人たちに感謝している。いまほど(感謝)の意味を理解したことはない。これからも迷惑をかけることがあるかも知れない。応援してほしい」。
 同小中学校は、小学校卒業生が2人。島を出て行く中学卒業生4人とは、兄弟姉妹同様育った仲。真珠の涙を見せる子もいて、島中が優しさに包まれた。
 「人生は、分かれ道と上り下りのある峠の連続のようなもの。迷ったらゆっくり考え、自分で決めて前へ進んでほしい。夢の実現に向かって歩み続けてほしい」とは、先生たちの(贈る言葉)。

 {座間味村}
 中学校卒業生は同校70期生6人。
 卒業式会場にいた弟に向けて「島を離れるが、自分に代わって家族をまもってほしい」と呼び掛けるしっかり者や、涙に言葉を遮られ、在校生や参列者から励まされる子もいて、地域の人たちは、幼いころから見守ってきた子らの門出を祝った。卒業生代表は「不安はあるが、仲間と過ごした島での楽しい時を胸に成長したい」と謝辞を述べ、会場からの拍手を浴びた。
 卒業生6人は、村内の公共施設に合宿。料理や洗濯など身の回りのことを自分でできるよう実習して、独立する(15の春)に備えた。

 これら島を離れて高校進学をする子らは、先に本島や本土に出た兄弟や親戚宅に同居するか、下宿、アパート暮らしをすることになろうが、すでに独立心は都会の子よりも確立されているようだ。

 僕の中学校卒業、高校進学のころはどうだったか。
 「高校に行ったら演劇部を作ろう。いや、文芸部にしよう」なぞと、生活感のないことばかりを(悪ガキ)仲間と語り合っていた。なかには「高校生になったら、煙草を吸ってもいいんだよね」などと抜かす奴もいた。そいつはいま、40年近く勤めた警察畑を20年前に定年退職して、盆栽と地域の老人活動を楽しんでいる。
 ‟夢の花ひとつ求めて卒業す