‟枕ゆゐ他に 誰が知ゆが涙 夢やちょんアリに 知らしぶしゃぬ”
<まくらゆゐ ふかに たがしゆが みなだ いみやちょん アリに しらしぶしゃぬ>
詠歌は色っぽいが、春の夜というのにこのところ、とんとそんな夢をみることがない。夢を見ることがないではない。見ても現実的には味気ないどころか、なぜそんな夢を見たのか詮ないワンシーンでしかない。
琉歌の歌意は、
(夢を見てハタッと目覚めた。気がつけば枕が濡れている。傍らには誰もいないひとり寝である。せめて、せめてこの夢だけは彼女に知らせたい)となっているが小生の場合、相手は(いまは白髪のお婆さん~)が、無理してセーラー服を着けているのだから、目覚めても、その夢を振り払うかのように頭を振ってから溜息を吐き、外のまだ冷たい春の夜風を耳にして、また寝を決め込むのである。
夢とはなにか。またぞろ辞書に頼る。
ゆめ・夢=眠っている間に、さまざまなできごとを実際におこっているかのように、見聞きしたり感じたりする現象。はかないこと。たやすくは実現できない願い。理想として予想されるもの。現実から離れた甘い考え。
などなどとある。これだけ見ると、自分の頭の中で展開される意識なのに(夢も希望)もないような感じがいてならない。小生の夢が消極的な結末で幕を引くのは、碌な生き方をしていないせいだろう。いま一度、恋しびとの夢を見て枕を濡らすほどにならなければならないが・・・・夢は五臓六腑の疲れでみるという。疲れるほどのことはしていないのだが・・・・。
‟夕び見ちゃる夢や道標思てぃ とぅめどぅめい いちゅる 無蔵が住み家”
<ゆうび んちゃる いみや みちしるび とぅむてぃ とぅめどぅめい いちゅる ンゾが しみか>
*無蔵=んぞ。んぞーさ。妻や恋人に対する美称。転じて、愛おしい。かわいいの意。
対語=里・サトゥ。男性に対する美称。*とぅめどぅめい=探し求めるさま。畳語・重ねことばになると日常語風に(とぅめーい どぅめーい)と言う。
歌意=昨夜夢に出てきた彼女。どこの誰かは知らないが、とにかく美しく聡明なひとだった。彼女との語らいを手掛かりに今日は、何としても(とぅめどぅめい)住み家を探し当てずにおくものか。
いやはや、羨ましい若さではある。
直接、言葉は交わしていなかったが、名前とどこに住んでいるかは分かっていて(とぅめどぅめい)存在を確かめに行った経験は小生にもある。
彼女の家は、バスに乗って(当時はマイカーもなく、タクシーもそうそう普及していない時分)小高い丘を越えて小1時間はかかる所にあった。大きな家で、珍しく孟宗竹を植え込んだ庭があった。決して裕福ではなかった小生の住まいとは大違い。それだけで彼女を訪ねる勇気はしぼみ、ただただ家の周りをウロウロするのみ。間の悪いことには、不審者に見えたのか、出てきたのは、彼女の祖父らしい眼光鋭い御仁。怖気づいて退散するよりすべはなかった。以来、彼女に逢うことはあっても♪及ばぬ恋と諦めました~だけど恋しいあのひとよ~。歌謡曲そのままで今日に日を繋いでいる。八重山の「とぅばらーま」の1歌詞(思ぉてぃ通ゆらば千里ん1里~逢わん戻らば元ぬ千里~)を実感したのもそのころだった。
♪夢に見る沖縄 元姿やしが 音に聞く沖縄 変わてぃ無らん
<いみにみるウチナー むとぅしがた やしが ウトゥにちく ウチナー かわてぃ ねらん>
歌意=異郷にいて見る沖縄は、自分が出てきた時と同じ元の佇まいだが、音信に聞く沖縄は(戦争で)元姿の欠片さえなく、変わり果てたそうな・・・・。
これは昭和の民謡の父故普久原朝喜(ふくはら ちょうき=1903年12月30日~1981年10月20日)作詞作曲による「懐かしき古里・原名は故郷」の1節。戦前に大阪へ渡り、かの地に没した朝喜翁の傑作のひとつ。国破れて山河ありとは言うものの、沖縄戦間もなく作詞作曲をした折りには、郷愁を通りこして断腸の想いがあったにちがいない。しかし、朝喜翁は(夢)を捨てなかった。
♪何時か自由なやい親兄弟ん揃るてぃ 打ち笑い笑い暮らすくとぅや
<いちか じゆうなやい うやちょうでん するてぃ うちわらい わらい くらすくとぅや>
「いまはアメリカの統治下にあって束縛されているが、いつの日か自由を取り戻し、親子が兄弟が縁者が笑顔で暮らすことを得よう。それまでは(夢)を捨てまい」。
朝喜翁は苦渋、絶望の中でも(明日への夢)を詠み込むことを忘れなかった。
そうなのだ。自由を謳歌している時に見る夢は甘かったり、切なかったり、はかなかったりで終わるが、困難時に見る、あるいは持つ夢は強い夢は意志とエネルギーを生み出すものと思われる。
3月下旬とは言え曇りの夜、雨の夜は掛け布団が欠かせない。いい夢だけを選んでみることは出来ないだろうが、さて今夜はどんな夢と出逢うのだろうか。
「末は博士か大臣か!」とんでもない!もう、そんな夢は要らない。出来得るならばフランス映画の、それもラブストーリーの主役にでもなろうか。うん!それがいい。けれども・・・・もしも、もしもその相手役が古女房であったりするとどうしよう。きっと(恐怖の夢)にうなされ再三、カパッと起き、冷や汗を拭うことになるだろう。
<まくらゆゐ ふかに たがしゆが みなだ いみやちょん アリに しらしぶしゃぬ>
詠歌は色っぽいが、春の夜というのにこのところ、とんとそんな夢をみることがない。夢を見ることがないではない。見ても現実的には味気ないどころか、なぜそんな夢を見たのか詮ないワンシーンでしかない。
琉歌の歌意は、
(夢を見てハタッと目覚めた。気がつけば枕が濡れている。傍らには誰もいないひとり寝である。せめて、せめてこの夢だけは彼女に知らせたい)となっているが小生の場合、相手は(いまは白髪のお婆さん~)が、無理してセーラー服を着けているのだから、目覚めても、その夢を振り払うかのように頭を振ってから溜息を吐き、外のまだ冷たい春の夜風を耳にして、また寝を決め込むのである。
夢とはなにか。またぞろ辞書に頼る。
ゆめ・夢=眠っている間に、さまざまなできごとを実際におこっているかのように、見聞きしたり感じたりする現象。はかないこと。たやすくは実現できない願い。理想として予想されるもの。現実から離れた甘い考え。
などなどとある。これだけ見ると、自分の頭の中で展開される意識なのに(夢も希望)もないような感じがいてならない。小生の夢が消極的な結末で幕を引くのは、碌な生き方をしていないせいだろう。いま一度、恋しびとの夢を見て枕を濡らすほどにならなければならないが・・・・夢は五臓六腑の疲れでみるという。疲れるほどのことはしていないのだが・・・・。
‟夕び見ちゃる夢や道標思てぃ とぅめどぅめい いちゅる 無蔵が住み家”
<ゆうび んちゃる いみや みちしるび とぅむてぃ とぅめどぅめい いちゅる ンゾが しみか>
*無蔵=んぞ。んぞーさ。妻や恋人に対する美称。転じて、愛おしい。かわいいの意。
対語=里・サトゥ。男性に対する美称。*とぅめどぅめい=探し求めるさま。畳語・重ねことばになると日常語風に(とぅめーい どぅめーい)と言う。
歌意=昨夜夢に出てきた彼女。どこの誰かは知らないが、とにかく美しく聡明なひとだった。彼女との語らいを手掛かりに今日は、何としても(とぅめどぅめい)住み家を探し当てずにおくものか。
いやはや、羨ましい若さではある。
直接、言葉は交わしていなかったが、名前とどこに住んでいるかは分かっていて(とぅめどぅめい)存在を確かめに行った経験は小生にもある。
彼女の家は、バスに乗って(当時はマイカーもなく、タクシーもそうそう普及していない時分)小高い丘を越えて小1時間はかかる所にあった。大きな家で、珍しく孟宗竹を植え込んだ庭があった。決して裕福ではなかった小生の住まいとは大違い。それだけで彼女を訪ねる勇気はしぼみ、ただただ家の周りをウロウロするのみ。間の悪いことには、不審者に見えたのか、出てきたのは、彼女の祖父らしい眼光鋭い御仁。怖気づいて退散するよりすべはなかった。以来、彼女に逢うことはあっても♪及ばぬ恋と諦めました~だけど恋しいあのひとよ~。歌謡曲そのままで今日に日を繋いでいる。八重山の「とぅばらーま」の1歌詞(思ぉてぃ通ゆらば千里ん1里~逢わん戻らば元ぬ千里~)を実感したのもそのころだった。
♪夢に見る沖縄 元姿やしが 音に聞く沖縄 変わてぃ無らん
<いみにみるウチナー むとぅしがた やしが ウトゥにちく ウチナー かわてぃ ねらん>
歌意=異郷にいて見る沖縄は、自分が出てきた時と同じ元の佇まいだが、音信に聞く沖縄は(戦争で)元姿の欠片さえなく、変わり果てたそうな・・・・。
これは昭和の民謡の父故普久原朝喜(ふくはら ちょうき=1903年12月30日~1981年10月20日)作詞作曲による「懐かしき古里・原名は故郷」の1節。戦前に大阪へ渡り、かの地に没した朝喜翁の傑作のひとつ。国破れて山河ありとは言うものの、沖縄戦間もなく作詞作曲をした折りには、郷愁を通りこして断腸の想いがあったにちがいない。しかし、朝喜翁は(夢)を捨てなかった。
♪何時か自由なやい親兄弟ん揃るてぃ 打ち笑い笑い暮らすくとぅや
<いちか じゆうなやい うやちょうでん するてぃ うちわらい わらい くらすくとぅや>
「いまはアメリカの統治下にあって束縛されているが、いつの日か自由を取り戻し、親子が兄弟が縁者が笑顔で暮らすことを得よう。それまでは(夢)を捨てまい」。
朝喜翁は苦渋、絶望の中でも(明日への夢)を詠み込むことを忘れなかった。
そうなのだ。自由を謳歌している時に見る夢は甘かったり、切なかったり、はかなかったりで終わるが、困難時に見る、あるいは持つ夢は強い夢は意志とエネルギーを生み出すものと思われる。
3月下旬とは言え曇りの夜、雨の夜は掛け布団が欠かせない。いい夢だけを選んでみることは出来ないだろうが、さて今夜はどんな夢と出逢うのだろうか。
「末は博士か大臣か!」とんでもない!もう、そんな夢は要らない。出来得るならばフランス映画の、それもラブストーリーの主役にでもなろうか。うん!それがいい。けれども・・・・もしも、もしもその相手役が古女房であったりするとどうしよう。きっと(恐怖の夢)にうなされ再三、カパッと起き、冷や汗を拭うことになるだろう。