旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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歌謡曲の中の風景

2016-05-01 00:10:00 | ノンジャンル
 目を射るような日差しが飛び込んできた。
 久しぶりの朝寝の起きぬけに、まずは風を入れようとカーテン、そして窓を開けてみると、すでに昇ったティーダ(太陽)は、勢いを発揮していて、目が開けられない。目をつぶったまま深呼吸と背伸びをする。風はさわやかだ。ようやく明るさに馴れて、
 (さて、髭でも剃るか)
 洗面所の鏡に向かったとたん鼻歌が出た。
 ♪晴れた空 そよぐ風 港出船のドラの音楽 夢も通うよあのホノルルの 歌も懐かし あのアロハオエ~ああ 憧れのハワイ航路~
 んっ?なぜ「憧れのハワイ航路=岡晴夫=」が、口をついて出たのだろう?
 さっき部屋に取り込んだ5月の陽が‟晴れた空そよぐ風”を記憶の引き出しから誘導したのだろう。歌と記憶の関わりはそうしたもので、ジーンズを履くと、決まって登場する歌と人物がいる。日活スター赤木圭一郎と彼の歌だ。

 ◇「流転」唄/赤木圭一郎。
 昭和40年前後。戦前、上原敏が歌った股旅ものを赤木圭一郎はレコーディングした。
 ♪男命を三筋の糸に かけて三七サイの目崩れ 浮世歌留多の浮き沈み~
 こてこての演歌を(かっこいい男)の代名詞にもなった赤木圭一郎は世に出したのである。しかも、それまで聞き慣れなかったスローロックでだ。昭和30年代後半から40年代の若者は、新しい歌のようにして歌った。
 スクリーンでみる彼は、長い脚を細めのジーンズに通し、しかも、普通の革靴を白いソックスで履きこなして、横浜か東京と思われる港やビル街を闊歩する。これがまた(かっこよく)ボクも赤木圭一郎にライバル心をむきだしにして、そうそうは手に入らなかったジーンズを、なんとか探し出して履いていた。けれども、当時、市販されるジーンズの裾は、だぶついたモノばかりで、赤木圭一郎のように(すっきりした足の長さ)を強調することができなかった。それでも、白いソックスは欠かさず(白が黒)になるまで(成り切り)をしていたものだ。彼のジーンズは特注だったに違いない。
 ♪どうせ一度はあの世とやらへ 落ちて流れて行く身じゃないか~啼くな夜明けの渡り鳥~
 赤木圭一郎は、若くしてあの世とやらへ逝った。
 存命ならば、幾つになっているのだろうか。いやいや、埒もないことは考えまい。彼はジーンズとスローロックの中でいまも生きているのだから・・・・。
 ♪意地は男よ情はオナゴ ままになるなら男を捨てて おれも生きたや恋のため~

 テレビの旅番組を見ながら(行ってみたい)と思うのは毎度のことである。
 国内の2泊3日の短い旅の場合、春夏秋冬、行き先は(いい天気)を望むのは誰しも同じだろう。ただ、北国へ行くならば、ボクは冬がいい。沖縄に生まれ育ったボクにとっては、雪の日は最良の(いい天気)だからだ。ないモノねだりで2、3日なら(雪)楽しみたいのである。
 「誰を連れていくか」。
 またぞろ、歌からの発想になるが、おふくろを東京に連れて行きたかった。「東京だヨおっ母さん」が、ボクの親不孝をせめる。

 ◇「東京だヨおっ母さん」唄/島倉千代子。
 ♪久しぶり手をひいて 親子で歩ける嬉しさに 小さい頃が浮かんで来ますよおっ母さん ここが二重橋 記念の写真をとりましょうね~
 ボクはおふくろの手をひいたことがない。5男4女の末に生まれたボクは、おふくろの手をひく場面になっても、それは兄や姉がサッサとやってしまい、その手はボクまでは回ってこなかったである。
 「東京に連れて行ってほしい」。
 兄や姉、そしてボクが長じて、出張や小旅行で本土に行くことを知ると、こういう言葉をかけるおふくろ・・・・。彼女の行きたい(東京)は国会議事堂でも銀座でも浅草でもない。靖国神社だ。沖縄が90年の生涯、1歩も出たことのないおふくろ。長兄、次兄を上海沖とビルマ(現ミャンマー)で戦死させたおふくろ。息子二人の霊魂は、彼女に抱かれることなく、靖国神社に足止めされた。
 「東京に行きたい!」
 母の心情を察しながらも「いつか行こう」「連れて行きたい」。兄、姉、ボク。そう口では言う子たちに母は、しびれを切らしたのか、靖国神社を通りこして直接、息子二人に逢いにと、あの世に行ってしまった。孝行したい時には親はなし・・・。後悔しても、もう間に合わなさすぎるのである。
 ♪やさしかった兄さんが 田舎の話しを聞きたいと 桜の下で さぞかし待つだろおっ母さん~あれが九段坂 逢ったら泣くでしょ兄さんも~

 もうすぐ「母の日」。
 カーネーションを上げたことがあったろうか。食事に連れて行ったことがあったろうか。なにひとつ(ない)のである。兄や姉7人も天寿を全うして両親のところへ行った。残ったのは、すぐ上の姉とふたりだけだ。母の日には、セピア色になった数少ないおやじとおふくろの写真を持って、姉の家を訪ねよう。そして「東京だヨおっ母さん」を歌いながら「おっ母さん!ごめん!」を言おう。
 因みにおやじは昭和25年病没した。59歳。ボクより年下になってしまった。