旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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踊らせたかった・・・・むんじゅる節

2015-06-10 00:10:00 | ノンジャンル
 「兄は15歳だった。村遊びの踊り手に選ばれるのが13歳だったと聞いている。昭和14、5年ごろ、日本の戦争は劣勢を極めていたが、そんなことは民間には知らされなかった。むしろ、太平洋各戦線で連戦連勝との報が、朝礼の校長先生からの口から聞かされた。兄たちは、戦局よりも秋の村遊びの踊りのことが頭の中を占めていた。字の区長も長老も“神国ニッポンが、鬼畜のような米英に負けるわけがない”と信じて疑わなかった。その夏も村屋では村遊びの吟味がなされていたくらいだ。それが・・・昭和19年になって、戦局が怪しくなり“今年・・・来年の村遊びは出来るかどうか”と囁かれるようになった。それでも兄は(むんじゅる節)が踊りたくて・・・・」。

 沖縄の舞踊には、各地で演じられた民族舞踊と宮廷でなされた専門家による舞踊。そして明治以降役者連が創作した雑踊(ぞうWUどぅゐ)がある。雑踊とは、宮廷舞踊に対して各地で歌われてきた島うたに振付けされた舞踊を指す。
 ひと節のものもあれば、ふた節を組み合わせたものもあり、さらに3~4節の組み合わせもあって、いずれも華やか。個人的祝事の宴でも気軽に舞われる。
 横道に逸れるが、数曲で舞う演目を2,3記してみよう。

 ※{松竹梅}
 大正元年(1912年)。舞踊家玉城盛重(たまぐすく せいじゅう=1868~1945)構成振付けによって初演。曲順*揚作田節(あぎちくてんぶし・松の踊り)*東里節(あがりじゃとぅふし=竹の踊り)*赤田花風節(あかたはなふうぶし=梅の踊り)。このあとに鶴亀が加わって*夜雨節(ゆあみぶし)総舞踊になって*浮島節(うきしまぶし)。しかし、後年、盛重の甥・玉城盛義(せいぎ=1889~1971)が黒島節(くるしまぶし)下原節(そんばれぶし)加えて一層、華やかな祝儀舞いになった。

 ※{高平良万歳=たかでーらまんざい}
 田里朝直(たさと ちょうちょく=1703~1773)作、組踊「万歳敵討=まんざいてぃちうち」の1場面を独立させた舞踊。曲順*万歳道行口節*万歳こうし*ふんしゃり節*せんする節。
 父の仇を討つ兄弟の物語。遊芸人「京太郎=ちょんだらー」に身をやつしての仇討ちだけに緊迫感があり、遊芸ありで見るものを飽きさせない男踊り。プロはもちろん、芸事の好きなものは、好んで踊っている。
 「村遊びの演目は、組踊も棒術も臼太鼓もすべてそれを演じた先輩に教えてもらう。つまり、後継ぎをするのが慣例。兄は“むんじゅる節”受け継ぎたくて先輩に教授を申し出たが、戦局は(どうやら日本軍の不利)がどこからか漏れ聞こえるようになった。村遊びどころではなくなってくる。それでも兄は“むんじゅる節”が諦められず、先輩の家に通い詰めたことだが・・・・」。

 ※{むんじゅる節}
 明治27年(1894)。玉城盛重の手になる雑踊の代表的な作品。*早作田節で舞台に登場。次いで*むんじゅる節*芋ぬ葉節*月ぬ夜節、もしくは*赤山節からなる。
 「むんじゅる」とは、麦の蔓(つる)のこと。男性用は山形、女性用は俗に言う(まんじゅう笠)で(平笠=ふぃらがさ)の名がある。産地としては那覇の西方に浮かぶ粟国島(あぐにじま)、本部町西方、これまた離島の瀬底島(せそこじま・方言=シーク)が有名。
 踊りは白の襦袢に芭蕉布を纏い、カンプウ髪型に白の鉢巻。手には竹のチーグーシ(短い竹棒)を持ち素足で出羽(んじふぁ・出の踊り)を平笠をかぶり、早作田節を踊る。
 
 ♪若さ一時ぬ通い路ぬ空や 闇ぬさく坂ん車とうばる
 〈わかさ ふぃとぅとぅちぬ かゆいじぬすらや やみぬさくふぃらん くるまとうばる

 歌意=恋をする女童が、思い人と忍んで行く道は、譬え闇夜の悪路であってもなんのその!荷車などが通るような平坦な道同様。足取り軽い。
 踊りはこのひと節でいったん休止。客席を背に笠を取り、片袖を抜いて本踊り「むんじゅる節・一名照喜名節」、入羽「芋ぬ葉節」になる。そして、テンポの早い「月ぬ夜節・もしくは赤山節」になって退場する。

 「戦後この方は、ほとんど女性が踊っているが、戦前の殊に村遊びの折には、美少年が踊っていた。美少年が化粧をしてアングァスガイ(姉さん装束)で登場するのだから、拍手を受けないわけはない。ワシがいうのもなんだが、兄は村の女童から色目を掛けられるほどのイケメン?美少年だったから「むんじゅる節」は、きっと大うけしたと思う。それが・・・・。出羽の早作田節をなんとか習い終おせたときに沖縄戦が始まった。兄は一家の食料である芋を堀りに畑に出ていたらしいが、グラマン機の掃射に合って惨死じてしまった・・・・。
 兄が切望していた「むんじゅる節」は「早作田節」だけで終わった。本踊りまでは届かなかった。少年の憧れの踊りさえ全うさせない戦争って何だろう。
 ワシは60歳すぎてから、歌三線を習った。それも「むんじゅる節」の4曲を集中的に・・・・ワシの歌三線で兄に踊らせみたくてね。以来、夏のお盆には仏壇に向かって、清明祭にはお墓の前で「むんじゅる節」を通しで弾き歌っているよ」。
 兄よりはるかに年上になった弟は目をしばたたせて語った。
 6月23日は、沖縄戦で逝った人びとの「慰霊の日」である。
 外は梅雨。しとしとと沖縄中を濡らしている。