旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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復帰のあとあさき

2012-05-10 00:44:00 | ノンジャンル
 1972年5月15日は、200ミリを越す豪雨であった。県内外の新聞雑誌は「うちなぁんちゅ=沖縄人=の嬉し泣きの涙か、納得のいかない悔し涙か、無情の涙か」などと伝えた。
ラジオのディレクターだった私も特別番組を制作。午後9時から午前1時までの生放送。キャスターは新屋敷二幸アナウンサー(元名桜大学教授)、コメンテーターは作家大城立裕氏。沖縄地上戦。敗戦。国に見捨てられたアメリカ世。それでも、母なる国への夢を捨てきれず、命がけの復帰運動の経緯などを語りながら番組は進められた。しかし、勝ち取った祖国復帰のフタを開けてみると、沖縄人の民意などどこにもなく、依然、在日米軍基地の75%は沖縄に置いたままの復帰。番組そのものもギクシャクしたままの終わり方だった。
基地付きは、40年経ったいまも変わらず、逆に強化されていく。これでも、復帰は果たされたのか。アメリカと日本の狭間に置かれて不安をかこっている沖縄人は、果たして<完全なる日本国民>に成り得ているのか・・・・。あの日の涙は、いまなお流し続けているのである。
古諺に「泣ち涙ぁ ぬぐてぃ とぅらし=人の泣き涙は拭ってあげよう」とある。祖国母国の<母>は、声はかけてくれたが、抱きしめてはくれない。涙も拭ってはくれない。それどころか、いまもって<痛みの涙>を強いている。
「そりゃあ、被害者意識ってぇもんよッ」
こんなコメントも聞こえる。その通りである。被害者なのだから、その意識をもつのは当然で<その意識>があればこそ、真の平和を本土の国民と共有するために、戦い続けているのである。
日本政府はイキなこともやってくれた。1981年5月15日付の琉球新報の記事に曰く。
「総理府は、昭和47年3月22日付で、屋良朝苗主席あてに5月15日の復帰の日に、市町村教育委員会を通して、沖縄の小、中学校児童約20万人に復帰記念メダルを配布するよう正式に通知した。このメダルは銅製で直径2.2センチ。裏側中央には国旗を描き、上辺に<復帰おめでとう>、下の方には<内閣>の文字。表は<守礼門>を中心にして、周囲に海をあしらった波形がデザインされている。ところが<核付き返還・屈辱の日>として、沖縄教職員組合は配布に反対。各分会に対しても、配布に非協力体制をとるよう指示。当時の児童生徒は、小学校が233校で12万9449人。中学校が149校で7万1144人。計20万593人。宮古、八重山、北部で校長を通して配られたものの、那覇や中部では、現場の反対にあい、約10万個が宙に浮いたまま回収された。那覇の場合は、教育委員会が受け取りを拒否したといわれる。この10万個のメダルは、県教育委員会の倉庫に今なお眠ったままで、取り扱いに苦慮している」
母は、泣く子に甘いアメをあたえて、基地付き復帰を納得させようとしたが、子は、アメを受け取らなかった。なめなかった。


2002年。
政府と県の異例の共催で<沖縄復帰30周年式典>が、19日午後、宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで開かれた。小泉首相、綿貫衆議院議長、倉田参議院議長、山口最高裁長官ら<三権の長>が揃った。会場は盛り上がったようだが、一般家庭はモリ下がった。
平成生まれの子のコメントが耳の底から離れない。
「祝日なのにどうして日の丸を揚げないの。むつかしい顔をした大人たちはヘンッ!」
この子たちに<復帰>をどう伝えたらよいのだろうか。
梅雨入りした沖縄地方。涙も枯れ果てたのか空梅雨である。