旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑲

2012-03-10 00:00:00 | ノンジャンル
 ▲昭和56年〈1981〉
 ◇復帰10年目
 沖縄タイムス社と朝日新聞社が有権者69万1551人の内、1200人の面接によってまとめた「沖縄・復帰10年目の県民意識調査」が、4月30日に発表された。
 ◆復帰と暮らし
 「よかった」の答えが62%の「よくなかった」の20%の3倍を示した。
 ◆今の生活
 「暮らしやすい」27%に対し「暮らしにくい」が49%で、約半数が悲観的。
 全国平均の約3倍の失業率、物価高騰。さらに米軍基地の重圧などの生活環境の悪化を反映している。
 ◆安保と基地
 日米安保条約は「日本のためになる」28%「ならない」27%と評価はほぼ同じ。3月の全国調査では「ためになる」55%「ならない」13%「どちらとも言えない」20%に対して、沖縄県民の意識差がはっきりと出た。米軍基地に対する「不安感」67%の数字は、復帰1年目の調査「不安感」63%を上回った。不安の理由は「戦争に巻き込まれる」「基地がらみの事件事故」や「軍事演習の恐怖」が大半。「米軍基地をどうすべきか」の項目には、80%が「縮小・撤去」を願望している。
 ◆自衛隊について
 縮小、撤去を求める反対派が減少し、肯定派とほぼ同率になった。それでも全国調査の肯定派60%、反対派30%に比べると反対派が多い。反面、昭和55年〈1980〉12月、県議会で僅差ながら[県当局が自衛隊募集業務]を決めたことには、約半数が反対している。凄惨な陸上戦を体験した県民には、戦争に対する不安が拭い切れずにいる。

 ◇昔「ペーデー」今「自衛隊」
 復帰前、毎月1日と15日の米兵のペーデー〈給料日〉には、嘉手納、コザ、金武、浦添、那覇など、つまり基地を抱える市町村の歓楽街はドルを切るGIたちで賑わった。しかし、復帰10年、いまでは自衛隊の給料日・毎月18日が賑わう。彼らがよく出入りする店を誰が言ったか「自衛隊バー」と呼ぶ。
 那覇市小禄の歓楽街“新町通り”は、かつて那覇エアベース所属の米兵で繁盛していたが、いまはGIたちに代わって自衛隊員が経営を潤している。経営者や女性従業員によれば、自衛隊員は「ひとりではなく4~5人、もしくは10数人で来店する」「接客も難しくなく、紳士的で支払いもきっちりしている」と好評。4~5年前までは「お勤めは?」の問い掛けに「会社関係」と答えていた彼らも、10年にして「沖縄は国内」という認識が高まったのか「自衛隊勤務」を即答するようになっている。

 【公選知事】
 ※西銘順治〈にしめ じゅんじ〉。大正10年〈1921〉生~平成13年〈2001〉没。知念村〈現・南城市〉出身。復帰後第3代沖縄県知事
   
    写真:ウィキペディアHPより
小学校の一時期を南洋パラオで過ごした。東京帝国大学〈現・東京大学〉を卒業後、外務省入り。戦後帰郷して、沖縄ヘラルド紙、沖縄朝日新聞社の社長に就任した。昭和22年〈1950〉、沖縄社会大衆党結成に参加。昭和29年、同党公認で立法院議員選挙に出馬して当選。しかしその後、比嘉秀平琉球政府行政主席と共に同党を脱党。琉球政府政財局長、計画局長を歴任する。昭和37年〈1962〉、沖縄自由民主党の後押しに応じて、那覇市長選挙に出馬・当選。2期勤める。その間、当時の高等弁務官キャラウェイが、米本国ケネディー大統領の新政策「沖縄の離日政策」に端を発した、世に言う「キャラウェイ旋風」をめぐって沖縄自由民主党を離党。しかし、昭和43年〈1968〉には復党して総裁の座に就く。そして、この年に行われた行政主席選挙に「早期日本復帰は慎重に」と論じて立候補したが、「1日も早い日本復帰」を公約した革新系の推す屋良朝苗候補に敗れた。なお、この選挙では日米両政府が保守系である西銘順治を当選のための画策があったことが、平成22年〈2010〉末に公開された外交文書によって判明している。
 昭和45年〈1970〉の沖縄国政参加に自由民主党公認で立候補した西銘順治は、衆議院議員に当選するが、3期目半ばの昭和53年〈1978〉の沖縄県知事選挙に自民党、民社党推薦で出馬。革新系の県議会議長知花英夫〈嘉手納町出身〉を破って当選し、県政を保守の手に取り戻した。在任中、それまでの革新政権下では行われなかった「自衛隊募集」を県庁で開始したほか、公共事業を積極的に推進。沖縄県立芸術大学の設置など多くの事業を成し遂げた。
 平成2年〈1990〉衆議院議員に復帰して平成8年〈1996〉まで在任。激動の時勢を見極める政治力は、県民からも高く評価され「沖縄からの初の大臣誕生か」と大いに期待され、沖縄開発庁、経済企画庁の政務次官を歴任したが、期待の大臣就任は果たせなかった。

 およそ国政に携わる人物は、われわれからは“雲の上”の存在だが、西銘順治はひと味異なっていた。筆者なぞも、那覇市内の日本蕎麦、沖縄そばの店で近親者らしい人たちと麺をたぐっていたり、普通の小料理屋の店のカウンターで泡盛を口もとに運んでいる姿を都度見かけた。「私生活では“政治家”を感じさせない人物」とは、西銘順治を知る人たちの人物評。享年80歳。

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