RBCiラジオの番組「民謡で今日拝なびら」は、来春2月に50年の節目をつける長寿番組だ。午後3時生放送。
プロデューサー兼ライターとして関わった私だが、会社の方針で遂に声出しするようになって45年ほど経っている。現在は、沖縄芝居の役者北島角子<月・水>、八木政男<火・木>両人が出演。金曜日は「逢ちゃりば兄弟」と題して、日々を懸命に全うしている市井の方々に出演願っている。
長寿番組ともなると<勝手な解釈だが>聴取者にとって北島・八木・上原は〔親戚つき合い〕になって春夏秋冬、ごく個人的な手紙・ハガキも寄せられる。一家の慶事・悩みごと・周囲に起きた珍事、奇談。それらを放送コードの許す範囲にアレンジして、リクエストの“島うた”を共に紹介している。例年、6月から8月にかけては戦中・戦後の体験、追想を語る手紙、ハガキが目立つ。
昭和20年4月1日、米軍は沖縄に上陸。多くの民間人の命を奪いながら、6月23日に地上戦を終結させている。この体験は、沖縄人の心の傷になって残っていても、独立国日本は、世代が代わった今日に至るも何らケアをしていない。沖縄戦の風化をまっているのだろうか。
7月はじめ。那覇市の主婦東江茂美さんから手紙をいただいた。本人に直接逢ったことはない。私信とも言うべきものだが、手紙の住所を手掛かりに連絡をとり、本人の了解を得て紹介したい。沖縄戦がはっきりと見える。かの日米戦争は65年の時を経ても、一人ひとりが背負い続けているのだ。
東江茂美さんからの手紙
私の母親の両親は沖縄戦の最中、喜屋武村<現・糸満市>で亡くなったそうです。砲火の下を逃げ惑う中、母の父親は足を負傷。妻と娘に「先に逃げろッ」と言って避難行の途中で別れ、母親と娘は自然壕に逃げ込みました。その時、娘<私の母>はマラリアにかかっていたそうです。一緒にいた避難民に迷惑がかからないようにと、壕の入り口近くにいたところ、爆弾の破片を受けて母親は即死。私の母も喉を負傷。いまも傷痕があります。
『母親の亡骸を目の前にしても涙も出ず。悲しいとか苦しいとか辛いとか、何の感情も湧かず・・・・何も考えられなかった』と、母は言います。壕を後にする時、亡骸が母親と分かるようにと、絣の着物に包み置き、壕を離れました。戦火が治まったころ、絣の着物を目安に現場を訪れてみると、亡骸はそのままの状態で残っていたそうです。妻子を先に避難させた父親<私の祖父>の消息は分かっていません。最近、母が私に『我んねぇ親ぬ骨ぇ ちゅーさがやぁ=私・・・・母親の遺骨はどうしたのかナ』と言います。母の記憶は、あの時のまま止まっているのでしょう。止まった記憶をあの世まで持っていくのかと思うと切ないです。母の妹ふたりは九州に疎開。父親は最後まで疎開には反対だったようですが、最終的には『家族の誰か、ひとりでも生き残れるように』と、母親が説得、決断したそうです。そんな悲しい決断をしなければならなかった祖父母に、私は逢いたかった。いろんな昔の話を聞きたかった。いろんなことを教えてもらいたかった。私も50歳を過ぎて、ますますその思いはつのります。この8月に私も、初孫を抱きます。子や孫のために、悲しい歴史をくり返さないよう祖父母の思い、母親の思いを伝えていきます。母は82歳になりました。
いまひとつの戦後。
老婆は女の子の孫をおぶって村に下りてくる。
立ち寄るのは戦火を免れた自分の家である。戦前は裕福な農家だったらしく一番座、二番座、裏座、そしてシム<台所>のある大きな茅葺きの家。
老婆は、夏のひとときを福木やクヌブンギー<九年母木・島みかんの木>の下で孫とともに涼をとり、あたりが暮れなずむころ家の床下に貯蔵してあった米5合ほどと、近くの畑に伸びほうだいになっている青物を摘んで山に帰っていく。そんな日が何日も何日もくり返されていた。
その家は石川真山さん・老婆の長男の家なのだが、金武村<現・町>の山中で捕虜になり、捕虜収容地のひとつ、ここ石川市<現・うるま市>に連行されてきた那覇市出身上原直實一家8人が仮宿としていた。上原直實は、老婆に言った。
「この家は、あなた達の家ですよ。那覇の空襲を逃れてきたわれわれが住んでいるが、家主のあなた達は、どこでどうしているのか」
老婆は答える。
「避難民はアメリカ兵に見つかって捕虜になったが、わたし達は石川岳に準備してあった防空壕に身を隠している。なぜ?。わが一家は、まだアメリカ軍に見つかっていないんだもの。勝手に投降しては天皇陛下に申し訳ない。わたし達が捕虜になるまで、あなた達はわが家に住んでいていいよ」
そう言って老婆は、石川岳に帰って行った。
沖縄を占領した米軍にとって山中に身を潜めた民間人なぞ、もはや敵ではない。完全に無視されながらも老婆一家は〔直接、アメリカ兵に発見されない限り、捕虜ではないッ〕として、山籠りを続行。ニッポン人であることを誇っていた。
結局、老婆一家はアメリカ兵の手垢のつかない純粋なニッポン人のまま自主下山。上原直實一家は元の主に家を返して当時、〔沖縄復興の槌音も高く〕民政府が建造した企画ハウスに移り住むのだった。
こうした悲喜交々の事例は各地であった。8月になると決まって話に出る。
「あの老婆はすでに亡くなったが、婆さん一家はアメリカの捕虜という汚名もなく、純粋なニッポン人として生き抜いてきた。いまでは子孫も繁栄していてよかった」
当時、私は7歳。上原直實は親父である。
プロデューサー兼ライターとして関わった私だが、会社の方針で遂に声出しするようになって45年ほど経っている。現在は、沖縄芝居の役者北島角子<月・水>、八木政男<火・木>両人が出演。金曜日は「逢ちゃりば兄弟」と題して、日々を懸命に全うしている市井の方々に出演願っている。
長寿番組ともなると<勝手な解釈だが>聴取者にとって北島・八木・上原は〔親戚つき合い〕になって春夏秋冬、ごく個人的な手紙・ハガキも寄せられる。一家の慶事・悩みごと・周囲に起きた珍事、奇談。それらを放送コードの許す範囲にアレンジして、リクエストの“島うた”を共に紹介している。例年、6月から8月にかけては戦中・戦後の体験、追想を語る手紙、ハガキが目立つ。
昭和20年4月1日、米軍は沖縄に上陸。多くの民間人の命を奪いながら、6月23日に地上戦を終結させている。この体験は、沖縄人の心の傷になって残っていても、独立国日本は、世代が代わった今日に至るも何らケアをしていない。沖縄戦の風化をまっているのだろうか。
7月はじめ。那覇市の主婦東江茂美さんから手紙をいただいた。本人に直接逢ったことはない。私信とも言うべきものだが、手紙の住所を手掛かりに連絡をとり、本人の了解を得て紹介したい。沖縄戦がはっきりと見える。かの日米戦争は65年の時を経ても、一人ひとりが背負い続けているのだ。
東江茂美さんからの手紙
私の母親の両親は沖縄戦の最中、喜屋武村<現・糸満市>で亡くなったそうです。砲火の下を逃げ惑う中、母の父親は足を負傷。妻と娘に「先に逃げろッ」と言って避難行の途中で別れ、母親と娘は自然壕に逃げ込みました。その時、娘<私の母>はマラリアにかかっていたそうです。一緒にいた避難民に迷惑がかからないようにと、壕の入り口近くにいたところ、爆弾の破片を受けて母親は即死。私の母も喉を負傷。いまも傷痕があります。
『母親の亡骸を目の前にしても涙も出ず。悲しいとか苦しいとか辛いとか、何の感情も湧かず・・・・何も考えられなかった』と、母は言います。壕を後にする時、亡骸が母親と分かるようにと、絣の着物に包み置き、壕を離れました。戦火が治まったころ、絣の着物を目安に現場を訪れてみると、亡骸はそのままの状態で残っていたそうです。妻子を先に避難させた父親<私の祖父>の消息は分かっていません。最近、母が私に『我んねぇ親ぬ骨ぇ ちゅーさがやぁ=私・・・・母親の遺骨はどうしたのかナ』と言います。母の記憶は、あの時のまま止まっているのでしょう。止まった記憶をあの世まで持っていくのかと思うと切ないです。母の妹ふたりは九州に疎開。父親は最後まで疎開には反対だったようですが、最終的には『家族の誰か、ひとりでも生き残れるように』と、母親が説得、決断したそうです。そんな悲しい決断をしなければならなかった祖父母に、私は逢いたかった。いろんな昔の話を聞きたかった。いろんなことを教えてもらいたかった。私も50歳を過ぎて、ますますその思いはつのります。この8月に私も、初孫を抱きます。子や孫のために、悲しい歴史をくり返さないよう祖父母の思い、母親の思いを伝えていきます。母は82歳になりました。
いまひとつの戦後。
老婆は女の子の孫をおぶって村に下りてくる。
立ち寄るのは戦火を免れた自分の家である。戦前は裕福な農家だったらしく一番座、二番座、裏座、そしてシム<台所>のある大きな茅葺きの家。
老婆は、夏のひとときを福木やクヌブンギー<九年母木・島みかんの木>の下で孫とともに涼をとり、あたりが暮れなずむころ家の床下に貯蔵してあった米5合ほどと、近くの畑に伸びほうだいになっている青物を摘んで山に帰っていく。そんな日が何日も何日もくり返されていた。
その家は石川真山さん・老婆の長男の家なのだが、金武村<現・町>の山中で捕虜になり、捕虜収容地のひとつ、ここ石川市<現・うるま市>に連行されてきた那覇市出身上原直實一家8人が仮宿としていた。上原直實は、老婆に言った。
「この家は、あなた達の家ですよ。那覇の空襲を逃れてきたわれわれが住んでいるが、家主のあなた達は、どこでどうしているのか」
老婆は答える。
「避難民はアメリカ兵に見つかって捕虜になったが、わたし達は石川岳に準備してあった防空壕に身を隠している。なぜ?。わが一家は、まだアメリカ軍に見つかっていないんだもの。勝手に投降しては天皇陛下に申し訳ない。わたし達が捕虜になるまで、あなた達はわが家に住んでいていいよ」
そう言って老婆は、石川岳に帰って行った。
沖縄を占領した米軍にとって山中に身を潜めた民間人なぞ、もはや敵ではない。完全に無視されながらも老婆一家は〔直接、アメリカ兵に発見されない限り、捕虜ではないッ〕として、山籠りを続行。ニッポン人であることを誇っていた。
結局、老婆一家はアメリカ兵の手垢のつかない純粋なニッポン人のまま自主下山。上原直實一家は元の主に家を返して当時、〔沖縄復興の槌音も高く〕民政府が建造した企画ハウスに移り住むのだった。
こうした悲喜交々の事例は各地であった。8月になると決まって話に出る。
「あの老婆はすでに亡くなったが、婆さん一家はアメリカの捕虜という汚名もなく、純粋なニッポン人として生き抜いてきた。いまでは子孫も繁栄していてよかった」
当時、私は7歳。上原直實は親父である。