旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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話のはなし・茶の香り

2010-06-10 00:20:00 | ノンジャンル
「直彦くん。茶飲み友だちになろうね。」
 沖縄の女流作家新垣美登子女史に、そう声を掛けられたのは、もう40余年前のことである。女史は「花園地獄」「哀愁の旅」「黄色い百合」等々の新聞小説で健筆をふるっていた。明治34年<1901>那覇市生まれの女史は、日本女子大学国文科中退後、帰郷して県庁に勤めた。戦後「みと美粧院」を開業するかたわら、昭和34年<1959>那覇市上之蔵に財団法人琉球高等美容学校を設立、校長として〔自立する職業女性〕のさきがけを成し、文筆家金城芳子、女医千原繁子さんらとともに「女傑」の異名を馳せていた。
 その後の昭和36、7年ごろ、放送屋の駆け出しだった私に「茶飲み友だち」の勧誘をしたのは、琉球放送にはRBC放送劇団があって、昭和29年から30年・沖縄タイムス紙に連載された「黄色い百合」の放送劇化が縁であってのことだろう。もっとも私は放送劇団のその他大勢組で出演はしていない。
 「先生の周囲には作家、新聞人、文化人の方々がいらっしゃるのに、ボクみたいな若僧ではつまらないでしょう」
 そう遠慮すると美登子女史は、いつもそうであったように薄化粧に赤い紅を引いた口もとをほころばせて言った。
 「もう年寄りの男友だちは飽きた。キミみたいなイキのいい男を好むようになっているのよ」
以来、東京あたりから珍味のモノが届いたと言っては電話をもらい、わざわざ機会を作って、美登子女史が茶飲み友だちの男女先輩方と交す世間ばなしを伺うべく、琉球放送からもごく近い那覇市久茂地のお宅に押しかけ、多くの耳学問をさせてもらった。とは言っても先輩たちが話題にのせる茶飲みばなしの内容が、すべて理解できたわけではない。しかし、自分が少しずつ(大人)になっていくような気がしたのは確かである。
 いま、私の周りにもイキのいい若者たちがいるが、なかなか茶飲み友だちには成り得ていない。茶飲みばなしと無駄ばなしを一緒くたにしているのだろうか。いずれにせよ若い時の多くの年上との無駄ばなし、茶飲みばなしは後々の(いい肥しになる)と思うのは、やはり今日的ゼネレーションギャップというものか。


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 「おばさん。旨さ茶ぁ入ってぇくとぅ 飲みが参んそぉーりんでぃさい
 60年も前、少年だったころ、わが家でちょっとした慶事がある場合、ごく身近な縁者に声を掛けて「茶沸かしぇ=ちゃーわかしぇ」という茶話会を開いていた。チャワキ(茶請け)は、タンナファクルーか米軍キャンプ流れのクラッカー、あるいは自家製のアガラサーと称するイースト菌で膨らませて蒸したカステラふうなそれだったと記憶している。母の言いつけで茶沸かしぇの口上を述べに行くのが少年の役目だった。
 「おばさん。おいしいお茶を入れましたので、飲みにおいでください」
 沖縄さんとは別に中国から輸入した通称支那茶は、時期的にシーミー(清明)のころに多く出回ったことから、シーミーチャの別名があって、この呼称の方が親しまれた。
 一方現在でも愛飲されている〔さんぴん茶〕の歴史は古く、中国でははじめ薬用として飲まれたという。〔さんぴん茶〕の名称も中国語の香片茶(シャンピェンツア)が転じたもの。基本的には緑茶の茶葉にジャスミンの花弁を香りづけとして混ぜて味わいを深くした。これまた中国語では茉莉茶(モウリイ ホワツア)と言い、沖縄でもジャスミンは茉莉花(ムイクァ)の名で親しまれ、宮廷音楽の「昔嘉手久節=んかし かでぃくぶし」の歌詞になっている。“ムイク花小花物言やんばかい 露は打ち向かてぃ 笑らてぃ咲ちゅさ”がそれである。茉莉花の白い小花が朝露を受けて咲いているさまは、まるで人に何か云いたげな風情。花びらが笑っているように見えると意訳できよう。
 モクセイ科の低木ジャスミンは、沖縄でも古くから観賞用として庭などに植えられ、時には花のひとひら、ふたひらを摘んで茶や白湯にひたして香りを楽しみながら飲んだそうな。昭和40年ごろまでさんぴん茶は「ばらさんぴん」の名で売り出されていた。中国や台湾から箱詰めで入った香片茶を一度、専用の筵様のものに広げ、茶葉と香片花を均等に混ぜてから茶舗の店頭に出された。しかも3匁、5匁あるいは1斤というふうに袋に入れて量り売りをする。つまり、茶筒に入ったものは別として〔ばら売り〕をしたところから〔ばらさんぴん〕の名が付いたと言われる。この呼称は沖縄だけではなかろうか。
 しかし、ばらと言え、さんぴん茶を日常的に飲めるのは裕福な家庭。庶民は一度湯をそそいで飲んだ茶葉は決して捨てない。天日干しにして二度、三度と用いる。さらに、完全に出がしらになった茶葉も、庭木や鉢植えの根もとに撒き、肥料と防虫に役立てた。立派なリサイクルである。
 俗諺に「茶とぅ煙草しぇ倉ぁ建たん」がある。茶代や煙草代を倹約したからと言っても、その程度の金銭では米蔵も金蔵も建たない。倹約は別のことでやるべきだと説いている。言い換えれば、どんなに貧しくてもお茶や煙草はケチらず、むしろそれを楽しむ心のゆとりを持とうと勧めている。倹約について松下産業を興した大事業家松下幸之助翁は、幼少時代を貧苦の中で過ごした経験を踏まえて「欲しいものを買うな。必要なものを求めよ」と提言している。茶と煙草が必要なものかどうか考えあぐねるところだが、私風には、いかなる暮らし向きの中でも茶と煙草をたしなむのは、ささやかな心のゆとり、癒しと心得て実践している。「お茶はよしとして、煙草はどうかな」という声が家人や周囲から聞こえてくるのも確かだが…。愛煙家には住みづらい世の中になった。
 
item1item1item1後の文章は、琉球新報「巷ばなし 筆先三昧」5月30日掲載を転写。