旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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サイレンの音に何を聞くか

2010-05-13 00:38:00 | ノンジャンル
 「サイレンの音を聞くと、血が騒ぐッ!」
 還暦前の友人は、かつて高校球児だった。県内大会はもちろんのこと、憧れの甲子園を目指して白球を追った日々が昨日のようによみがえり、サイレンは即「プレイボール!」に繋がるそうな。彼の頭にサイレン音が刷り込まれた経緯は分からないでもないが、私のサイレンの音に対する記憶とは、だいぶ相違する。
 件の高校球児よりもひと回り年上の私は、6歳のとき那覇の大空襲、すなわち昭和19年10月10日の那覇大空襲を経験、そのまま家族もろとも本島中部の恩納村山田集落から恩納岳を経て金武町の山中へと、明日をも知れぬ逃避行の日々だったから、サイレンの音は大人たちが叫ぶ「空襲警報ッ!」「空襲来襲ッ!」の声そのものに聞こえてならない。このことは、60余年経ったいまでも夜中、遠くの消防車のサイレンを聞いても、反射的にいやな目の覚まし方をしてしまう。幼児体験は一生つきまとうものらしく、サイレンを「プレイボール!」に繋げられる元高校球児が羨ましい。
    

 symbol7【女】一時、二時、三時、四時、五時と 六時のサイレンが鳴るまでは 愛し主さんと腕枕 泣きの涙で夜を明かす
 symbol7【男】可愛いお前はバラの花 花の香りが立ちこめて 語る今宵は夢のごと 六時のサイレン気にかかる

 これは昭和10年〈1935〉ごろ、那覇の花街・辻〈チージ〉で流行った俗謡「サイレン節」の歌詞である。泊まり込みの色男と枕をともにした色女の掛け合いが、大和口で成されているのが面白い。花街では、大和口が使える男がモテたのかも知れない。
 この「サイレン節」の旋律に別の歌詞を付け、さらに江戸時代の町駕籠の駕籠かきの男ふたりと女客を登場させて、役者・舞踊家の玉城盛義〈たまぐすく せいぎ=1889~1971〉が創作したのが、舞踊小歌劇「戻り駕籠」である。内容は、1日の終い駕籠にいわくあり気に頬っ被りをした女を乗せた駕籠かき。道々、駕籠の中の女の品定めが昂じて喧嘩になる。すると、女が仲裁に入ってその場をおさめるが、頬ッ被りを取ったその女の面相は、この世のモノとも思えないほどのヤナカ-ギー〈ぶす。醜女〉である。駕籠かきは腰を抜かして失神寸前!という所で幕となる。いまでも都度、演じられている。有事に用いるサイレンが人気狂言を生むとは、庶民はいつの時代もしたたかである。

「戻り駕籠」=いしなぐの会

 symbol7【女】アンマー〈阿母・この場合、妓楼の抱え女親〉に知られたら事になる 愛し主さん叱られる 二人の仲を守るため 鬼の来ぬ間に帰したい
 symbol7好きなお前と二人なら 地獄の果ても鬼はなし アンマーに知れたらその時は 可愛いお前は俺の妻

 昭和も10年代に入ると、日本帝国は戦争へと突っ走って行く。花街も有事に備えて警戒態勢を取らざるを得ない。昭和14年〈1939〉6月13日付の琉球新報紙にその事例を見ることができる。(概要次の通り)。
 『深夜、明け方まで妓楼街にいる遊興者に警鐘を乱打し、時局心を湧き立たせるため、那覇署と妓楼経営者が協議、辻遊郭の中心たる上ぬ角〈うぃーぬかどぅ〉にサイレン塔を設け、午前零時の門限と共にこれを鳴らし、閉楼・帰宅を促すようにする。サイレンは、組合の評議委員や使用人、アンマーが輪番、交代当番として鳴らし、大いに時局認識を高揚させることになった』

 symbol7【女】愛し主さんのためならば 雨傘不自由させませぬ 私の羽織を蓑にして 私の肩掛け傘にして
 symbol7雨傘不足はいとわぬが 袖引くお前が気にかかる 今度来る時その時は 奥様姿で迎えてね
 symbol7【女】今度主さん来る時は 奥様姿で待ちましょう またも来る時その時は 二階三階迎えて上げましょう
 
 そもそもサイレントは何か。
 ギリシャ語のseiren・セイレーンが語源らしく海の精・妖女・魔女・毒婦を意味するそうな。それというのも古代ギリシャ最高の叙事詩人ホーマー〈ホメロス〉の作品「オデュッセイア」の中に登場する美声の半人半鳥の魔女セイレーンは、怪しげな歌を歌って、沖行く舟の舟人を誘惑し、命を奪っていた。主人公オデュッセイアは、こうした怪奇事から舟人を救うために、舟子の耳に蝋を詰めさせ、身体を帆柱に括り付け、セイレーンの魔力を封じ込めることを得た。これによりセイレーンは、男心をとろかす魔力を失い、ついには海に身を投じて岩石になったという物語のようだ。
 この美声の魔女[セイレーン]が転じて警報、警笛のような[音を出す機器をサイレン]を意味するようになったという。

 甲子園の「プレイボール」や人命救助のための平和な音サイレンであればよいが、いまにも鳴りかねない昨今の[日本のサイレン]であってはならない。
 それにしても、魔女セイレーンの美声は聞いてみたい。たとえこの身は滅びようとも。