「オレの友人でね。親父さんが88歳のトーカチ祝い(斗搔き祝い)てんで、カチャーシーを舞いたいが、自分にはその素養がまるでない。しかし、親父さんの生涯、最後の祝いになるやも知れないと一念発起。舞踊道場の門をたたいた」。
「へッ?カチャーシー舞いには型はない。サンシン(三線)の早弾きに身を任せて、足で拍子を取り、手を上げて、手首を返したり、回したりすれば踊れる。舞踊道場へ習いに行くようなものではないぜ。沖縄人として踊れないほうがよっぽど恥ずかしい」。
「ところが彼はその恥を振り捨てて道場に行った。道場のお師匠さんは云ったそうな。ウチは伝統的古典舞踊の道場。俗っぽいカチャーシー舞いなぞ教えてはいない。が・・・。貴方の親孝行が嬉しい。カチャーシー舞いには流儀はない。基本的な足の運びと手の振りを教えましょうということになって、この男、祝座で踊り、親父さんは感動し、列席者の嬉し涙を誘ったそうな」。
「これまで1度も人前で踊ったことがなかったのだがねその男」。
カチャーシーとは。
祝いの座、おるいは昔日の毛遊び(もうあしび・野遊び)などでなされた即興舞いである。もちろん、歌三線や鳴り物、手拍子はつきもの。カチャーシーの語意は直訳すれば沖縄語の(掻き混ぜる)だ。では、何を掻き混ぜるのか。庶民の喜怒哀楽である。したがって、士族階級にはその(舞い)はなされていない。余談になるが、宮廷の踊座に勤め、優雅な伝統宮廷舞踊を継承、指導した舞踊家の一人は(下々の者は、なんと自由な舞いを身につけていることか。羨望のかぎり・・・。1度はカチャーシー舞いの輪の中に入りたかった。と言いつつ逝ったという逸話がある。
カチャーシーは節名ではない。形態である。曲節は早弾きの「嘉手久=かでぃーくー」「あっちゃめー」「はりくやまく」「唐船どーい」など、とかくハイテンポのそれだ。カチャーシー歌でカチャーシー舞いをする。この方が分かり易いだろう。
「オレなぞは、物心ついたときには踊れたものだ。普通に生活の中にカチャーシー舞いはあったものね」。
「まったくだ。特別な祝座でもなく、普通の一家団欒の場でも三線の早弾きが耳に入ると、身体がムズムズして踊ったものね幼児のころから」。
「口で三線の音を発する口三線(くちじゃんしん)でも踊ったね。それを親兄弟が(上手!上手!うまいっ!うまいっ!と囃し立てるものだから、おだてにつられて踊ったなあ。それで素地ができて沖縄人は皆、カチャーシーが踊れる」。
「それが教習になって、謂わばDNA化している。キミの友人の孝行息子も自意識過剰に抑圧され、羞恥を先行させて(やればできる)のに(やらなかった)だけだろうよ。これからは真っ先に座の中央にでて舞うだろう。めでたし!めでたしだ!」。
カチャーシー舞いは自由型を本領とする。個性を発揮すればよい。足は前後左右に運び、跳んだり跳ねたり、時たま身体を一廻りさせればよい。手振りは、五指を開いて品よく舞う型を(アングァー舞い=姉さん舞い)、逆に拳を握り、空手の所作を取り入れたりするのを(ニーシェー舞い=二才舞い)と称しているが、男女の別なく、打ち出す歌三線節曲によって、これまた自由自在に踊っていい。
けれども役者などプロ級になると、創意工夫された型があった。
その1=「三尺舞い=さんじゃく もうい」。
云うまでもなく尺貫法の三尺四方の中でなすカチャーシー舞い。テンポが速いだけに意外に難しい。足腰の強さが要求される。また、あえて座布団1枚の上で舞う至芸もある。
はたまた脱線するが、メートル法が定着したいま、尺貫法をメートル法に換算して「90.09㎝舞い」と云うかといえば、決して云わない。「三尺」でなければならないのである。
その2=「カタンチャー舞い」。
カタンチャーは、片一方のこと。普通のカチャーシー舞いに始まるが突然、両手を左肩の上に上げて踊り、さらにその所作を右肩の上に代える、その場合、両足を交差させる技もある。熟練を要するが、流儀、流派があるわけではない。カチャーシー舞いを(得意)と自認する方は、自分なりのカタンチャー舞いを生み出してみるがいい。
その3=ハーチブラー舞い。
ハーチブラーとはおかめ、ひょっとこのようなお面のこと。
お面を後頭部に付け、まずは正面向きで踊り一瞬、くるりと廻ってお面を正面にして踊る。もちろん、手の動きも後頭部でなす。ハイテクニックで熟練を要するが、大向こうを唸らせる。
さて、蘊蓄を垂れている筆者。20秒以上のカチャーシーが踊れない。言葉通り自意識過剰、というよりも(羞恥)が先になって、手足が金縛り状態になるのである。
過日、義父の生年祝いの座で複数人同時ならいざ知らず、一人ひとりが交互に立って踊る「一人なあ舞うらしぇー」になった際、手を引っ張られ、腰を押されても座に出ず、遂にはその祝座から逃亡したことがある。あとできいたが、義父はじめ親戚一同、カチャーシーも踊れない男を婿にするのではなかった」と、悲嘆していたそうな。多少、心残り。
件の親父孝行をした男にならって、いまからでもカチャーシーを習得しようかと、心の片隅では思ってはみるのだが・・・。
「へッ?カチャーシー舞いには型はない。サンシン(三線)の早弾きに身を任せて、足で拍子を取り、手を上げて、手首を返したり、回したりすれば踊れる。舞踊道場へ習いに行くようなものではないぜ。沖縄人として踊れないほうがよっぽど恥ずかしい」。
「ところが彼はその恥を振り捨てて道場に行った。道場のお師匠さんは云ったそうな。ウチは伝統的古典舞踊の道場。俗っぽいカチャーシー舞いなぞ教えてはいない。が・・・。貴方の親孝行が嬉しい。カチャーシー舞いには流儀はない。基本的な足の運びと手の振りを教えましょうということになって、この男、祝座で踊り、親父さんは感動し、列席者の嬉し涙を誘ったそうな」。
「これまで1度も人前で踊ったことがなかったのだがねその男」。
カチャーシーとは。
祝いの座、おるいは昔日の毛遊び(もうあしび・野遊び)などでなされた即興舞いである。もちろん、歌三線や鳴り物、手拍子はつきもの。カチャーシーの語意は直訳すれば沖縄語の(掻き混ぜる)だ。では、何を掻き混ぜるのか。庶民の喜怒哀楽である。したがって、士族階級にはその(舞い)はなされていない。余談になるが、宮廷の踊座に勤め、優雅な伝統宮廷舞踊を継承、指導した舞踊家の一人は(下々の者は、なんと自由な舞いを身につけていることか。羨望のかぎり・・・。1度はカチャーシー舞いの輪の中に入りたかった。と言いつつ逝ったという逸話がある。
カチャーシーは節名ではない。形態である。曲節は早弾きの「嘉手久=かでぃーくー」「あっちゃめー」「はりくやまく」「唐船どーい」など、とかくハイテンポのそれだ。カチャーシー歌でカチャーシー舞いをする。この方が分かり易いだろう。
「オレなぞは、物心ついたときには踊れたものだ。普通に生活の中にカチャーシー舞いはあったものね」。
「まったくだ。特別な祝座でもなく、普通の一家団欒の場でも三線の早弾きが耳に入ると、身体がムズムズして踊ったものね幼児のころから」。
「口で三線の音を発する口三線(くちじゃんしん)でも踊ったね。それを親兄弟が(上手!上手!うまいっ!うまいっ!と囃し立てるものだから、おだてにつられて踊ったなあ。それで素地ができて沖縄人は皆、カチャーシーが踊れる」。
「それが教習になって、謂わばDNA化している。キミの友人の孝行息子も自意識過剰に抑圧され、羞恥を先行させて(やればできる)のに(やらなかった)だけだろうよ。これからは真っ先に座の中央にでて舞うだろう。めでたし!めでたしだ!」。
カチャーシー舞いは自由型を本領とする。個性を発揮すればよい。足は前後左右に運び、跳んだり跳ねたり、時たま身体を一廻りさせればよい。手振りは、五指を開いて品よく舞う型を(アングァー舞い=姉さん舞い)、逆に拳を握り、空手の所作を取り入れたりするのを(ニーシェー舞い=二才舞い)と称しているが、男女の別なく、打ち出す歌三線節曲によって、これまた自由自在に踊っていい。
けれども役者などプロ級になると、創意工夫された型があった。
その1=「三尺舞い=さんじゃく もうい」。
云うまでもなく尺貫法の三尺四方の中でなすカチャーシー舞い。テンポが速いだけに意外に難しい。足腰の強さが要求される。また、あえて座布団1枚の上で舞う至芸もある。
はたまた脱線するが、メートル法が定着したいま、尺貫法をメートル法に換算して「90.09㎝舞い」と云うかといえば、決して云わない。「三尺」でなければならないのである。
その2=「カタンチャー舞い」。
カタンチャーは、片一方のこと。普通のカチャーシー舞いに始まるが突然、両手を左肩の上に上げて踊り、さらにその所作を右肩の上に代える、その場合、両足を交差させる技もある。熟練を要するが、流儀、流派があるわけではない。カチャーシー舞いを(得意)と自認する方は、自分なりのカタンチャー舞いを生み出してみるがいい。
その3=ハーチブラー舞い。
ハーチブラーとはおかめ、ひょっとこのようなお面のこと。
お面を後頭部に付け、まずは正面向きで踊り一瞬、くるりと廻ってお面を正面にして踊る。もちろん、手の動きも後頭部でなす。ハイテクニックで熟練を要するが、大向こうを唸らせる。
さて、蘊蓄を垂れている筆者。20秒以上のカチャーシーが踊れない。言葉通り自意識過剰、というよりも(羞恥)が先になって、手足が金縛り状態になるのである。
過日、義父の生年祝いの座で複数人同時ならいざ知らず、一人ひとりが交互に立って踊る「一人なあ舞うらしぇー」になった際、手を引っ張られ、腰を押されても座に出ず、遂にはその祝座から逃亡したことがある。あとできいたが、義父はじめ親戚一同、カチャーシーも踊れない男を婿にするのではなかった」と、悲嘆していたそうな。多少、心残り。
件の親父孝行をした男にならって、いまからでもカチャーシーを習得しようかと、心の片隅では思ってはみるのだが・・・。