旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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島うたの秋

2015-10-02 09:43:00 | ノンジャンル
 空も長月 初め頃かや 四方ももみじを
 染める時雨に 濡れて雄鹿の 鳴くも寂しき
 折りに告げくる 雁の初音に 心浮かれて
 共に打ち連れ 出ずる野原の キキョウ刈萱
 萩の錦を さても見よとや 招く尾花の 袖の夕風
 吹くも身に沁む 夕陽入江の 海士のこどもや
 竿のしずくに 袖を濡らして 波路はるかに
 沖に漕ぎ出で 月は東の山の木の間に いまぞほのめく

 琉球舞踊の中の宮廷舞踊に対する明治以降の創作舞踊(雑踊・ぞうWUどぅゐ)のひとつ「秋の踊り」の歌詞である。いつごろ詠まれたかは定かではない。しかし、組踊「義臣物語・一名国吉比屋」には「道輪口説」の節名で用いられていることから推測すれば、かなり古くから歌われていたのだろう。完全な和歌になっていて、琉球・大和の芸能文化の交流がしのばれる。
 踊りは沖縄の舞台役者新垣松含(あらかき しょうがん)とも、親泊興照(おやどまり こうしょう)の振付けともいわれる。末広の扇を持って踊る。それは爽やかで、まさに‟秋の踊り”である。

 日中はまだ暑さが残るものの、宵闇が夜の闇にかわる頃は、あたりに‟袖の夕風”を感じるようになった。昨夕は風に促されて三線を持ち出し、「遊びしょんがね節」に乗せて次の琉歌を歌ってみた。

 ♪親ぬ聞かすたる昔物語 今や孫前なち語るいそしゃ
 〈うやぬ ちかすたる んかしむぬがたゐ なまや マグめなち かたる いそしゃ

 *いそしゃ=いそさともいい。嬉しい、楽しいの意。
 歌意=童のころ、親がよく聞かせてくれた昔ばなしを、今は自分の孫を前にして語っている。なんと嬉しく、心和むことか。

 「おれも昔ばなしをするようになったか」。
 いささか小鼻がむず痒くなって、ひとなでしてしまう。
 「昔とはなんだ」
 またぞろ辞書の世話になる。
 昔=①遠い過去。②今からずっと前。③過ぎ去った年月を数えることば。
 何と味気ない解説。せめて「親兄弟に甘えて育ち、年頃になって恋を知り、仕事に打ち込んで紆余曲折しながら生きてきた、かつての日々」くらいにはしたいものだが、辞書の限られた字数や大義では、そうもいかないのだろう。
 親に甘える。
 沖縄口では甘えん坊を「フンデー」という。一人っ子、末っ子に多いようだ。親は愛おしさのあまり、その子の言い放題、仕放題を聞き入れる。これを俗語は「鼻から這うらすん=はなからほうらすん」と、言い当てた。
 手のひらならいざ知らず、鼻に這う・鼻に着くモノは、何でも鬱陶しく嫌なものだ。それをすべて許して、子が鼻の上に這うものもいとわない可愛がり方をするさまのこと。私は9人兄弟の末っ子に生まれているが、フンデーした記憶がない。生まれて7年後には終戦。フンデーする環境ではなかった。フンデーは、平和な暮らしの中でこそできることだ。

 ところで「フンデー」の語源だが、中国痛の友人によれば福建省地方のことばで「放題」の転語なそうな。云い放題、仕放題、飲み放題のように、思うままにする、勝手にするの意味を持つが、福建語での読み「ふんでー」がそのまま琉球語になったと教示してくれた。
 友人の知識にケチをつけるつもりはさらさらないが、今一度確認してみたい。福建語に造詣の深い方、そこらあたりを教えては下さるまいか。この歳でフンデーするしだい。それにしても「放題」の転語が「フンデー」その通りであれば目からうろこで面白い。

 フンデーは幼児にかぎらない。
 すっかり熟した女にも多い。「フンデー物言い=むぬいい」がそれだ。
 ちょいと親しくなると女は「ねぇー~」と、鼻に色をつけた発音で甘えてくる。そうフンデーされて、悪い気がする男はいないだろう。かく云う私もフンデー物言いに理性を奪われて、幾度苦汁を飲まされたことか。が、ふり返ってみれば、ウソでもいいから、フンデーされた昔日が恋しい。

 再び三線を取り「遊びしょんがね節」
 
 夏ぬ走川に涼風ぬ立ちゅし むしか水上や秋やあらに
 〈なちぬ はいかわに しだかじぬ たちゅし むしか みなかみや あちやあらに

 歌意=街中を離れ、郊外の川の岸辺に寄れば、流れの水面に涼風が立っている。もしかすると川上には、秋が生まれているのかも知れない。
 柄ではないが、秋はものを思わせる。
 ‟あした浜辺をさまよへば 昔のことぞ偲ばれる”(浜辺の歌)の心境・・・・。
 旧暦9月15日には、月影を踏んで、そこらの浜辺をフンデーしてくれるヒトを散策したいが、この私に「フンデー」してはくれまいか。