旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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番外編【うちなぁ日々記】

2012-11-01 00:10:00 | ノンジャンル
 まずは言い訳。
 脊椎症性脊髄症の手術を5月10日に受けた。3週間の入院後、6月4日には放送現場に復帰したものの、左足指と左手指に痺れ感が残っていてリハビリ中である。この痺れ感がくせもので、朝夕ストレスに悩まされる。そうなると、いささか集中力を欠如し、従来通りの資料集めや原稿用紙を埋めることさえ億劫になる。と言って11年継続してきた「浮世真ん中」の筆を折るのは、いかにも口惜しい。
 そこで「樂」を選択した。[番外編・うちなぁ日々記=にちにちき]と称して、今日的な沖縄の日々を日記風に綴ることにしたのである。大した情報は提供はできないと、いまから思うのだが、何らかの形で[世間と関わっていたい]。この思い断ちがたく、拙分を私的視点で発信したいのである。
 新聞にたとえるならば、1面や経済面のそれではなく、3面記事や地方版を勝手ながら上原流に解釈して、読者諸氏と共有していきたい。それが、どの程度の意味をもつか。そこいらは存念の外に置いて、沖縄の日々を書いていく所存。気軽に笑読いただければ、ありがたく!ありがたく・・・。

 ※10月21日=日曜日=秋晴れ。
 旧暦9月7日。この日は、伝統的な長寿祝い「かぢまやー」が各地で催された。生まれ年を8回りさせた長寿者の祝儀式。「かぢまやー」には、2つの意味があって、100歳になる前に、盛大な祝儀を成し「孵でぃー替ぁゐんしでぃー かぁゐん=孵化仕直す」の願望を込めて、生地の集落の7つのカジマヤー=辻・十字路・三叉路=や7つの橋をこれまでの人生の道程に見立てて渡り、精気を取り戻すという意味と、いま1つは故事の「高齢になるに従って童に還る」に習って、幼児の玩具カジマヤー=風車=を自らも持ち、人々にも配って祝儀をするのである。
 この日のラジオニュースは、つぎのように伝えている。
 「旧暦9月7日は、数え年97歳のお祝いカジマヤーで、県内各地でパレードなど長寿を祝う催しが開かれました。このうち、今帰仁村では、玉城マツさんが、たくさんの子や孫に囲まれてお祝いが行われました。
 マツさんには97人の子や孫、曽孫がいますが、来年1月には98人目となる曽孫が誕生します。
マツさんは“また曽孫が増える!”と、嬉しそうに話していました。
 県内では、男性181人、女性946人の合わせて1127人が今年、カジマヤーを迎えています」

10月31日沖縄タイムスより

 ユダヤ系アメリカ人の作家サムエル・ウルマンは著書「青春とは」に、書いている。
 「真の青春とは 若き肉体にあるのではなく 若き精神の中にこそある 薔薇色の頬は強い意志 もえあがる情熱 そういうものがあるかないか〈略〉
臆病な精神のなかに青春はない 大いなる愛のために発揮される勇気と冒険心のなかにこそ 青春はある 臆病な二十歳がいる 既にして老人 勇気ある六十歳がいる 青春まっただなか 歳を重ねただけで 人は老いない 夢を失ったとき精神はしわだらけになる〈略〉 
勇気とほほえみを忘れず いのちのメッセージを受信しつづけるかぎり あなたはいつでも 青年」
 サムエル・ウルマンの青春論。実に納得!しかし、一方で「理屈としてはネ」と、溜息をもらしてしまうのは、私が立派で完璧な“臆病な老人”になった証明だろうか。でも、老いを笑い飛ばすことは、まだ出来る。

 “老いぬれば頭は禿げて目はくぼみ 腰はまがりて足はひょろひょろ

           2012年10月29日記