旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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表通り裏通り

2012-08-01 00:10:00 | ノンジャンル
 街には通りがある。村にも通りがある。それぞれの土地柄の生活を映して、通りがある。通りの呼称もさまざまだが、全国的に最多なのが<銀座通り>だそうな。
戦前戦後の日本の繁栄を象徴する東京銀座にならってのことだろう。
沖縄にも銀座通りはいくつかある。それが、那覇市や沖縄市といった都市部ではなく、3、40軒の商店が並ぶ地方の通りに命名されているのは、なんとも温かくていい。毎年、20個から25個の台風が通過する沖縄を<台風銀座>とは、誰が言い出したのだろう。
沖縄で一番有名な通りは、那覇市の<国際通り>である。県庁前から松尾、牧志を経て安里へ至る一帯は、戦前は田畑や湿原であったが、戦後、旧那覇市内に米軍が駐屯するや、職を求めて各地から人が集まり、思わぬ所に家が建ち<街>を造成した。はじめは、日用雑貨、闇物資が立ち売りされ、露店が主であったが「復興の槌音も高く」が合言葉になっていた昭和24年<1949年>ごろから、この一帯は一大建築ラッシュ。映画館、劇場、デパート、銀行、市場、商店が出現。言葉通り沖縄経済、文化を支える<大通り>になったのである。しかし、表通りの繁栄とは裏腹に、大通りから一歩裏通りに入ると、戦火の後は生々しく残り、バラック住宅はいい方で傾いたままの家屋、墓地などと、表通りとは天国と地獄の差があった。県庁前から安里三叉路までの約1.6キロに突如出来上がった繁華街。そして、その裏側との貧富の落差を見て、米従軍記者は「戦争が生んだ奇跡の1マイル」と表現した。この表通りは、沖映通りの起点から牧志ウガン小公園辺りまでだったが、その中間に「娯楽の殿堂アーニー・パイル国際劇場」があったため<国際通り>の呼称がついた。現在は県庁前から安里三叉路までを国際通りと称しているが、実際には県庁前から順に国際本通り、国際中央通り、国際大通り、蔡温橋通りと四つに区分されていて、これをまとめて<国際通り>としているのである。

 那覇市の華やかな大通りとは趣を異にして、沖縄市諸見里には<百軒通り>がある。かつて、外人専用のAサインバーを主に飲食街を形成。料亭静波、高見亭などがあって、結構な通りをなしていた。しかし、いまでは<百軒>を割り、64軒のいっぱい飲み屋が並んでいるが、下町の温かみにつつまれた憩える場であることは、最盛期以上ではあるまいか。その要因のひとつは、百軒通りの別名にある。“どこの誰かは知らないけれど”人呼んで<年金通り>。定年で現役を退いた方や、その年輩の方々が気軽に利用する、迎えるママやホステスも年では負けていない。双方年金受給者。そんなところから、通りの名がついた。アルコール類は沖縄産のビールと泡盛。肴は豆腐、ゴーヤーなど季節のモノのチャンプルーに近海魚のサシミ、煮つけ。その魚も常連さんが釣ってきたものが持ち込まれ、新鮮さこの上ない。
<年金通り>の一番のよさは<知識の泉>であること。なにしろ、元校長教頭。元公務員。元銀行支店長。元政党役員。元軍雇用員をはじめ、家督を息子にゆずって悠々、年金生活を楽しんでいる海人陸人<うみんちゅ あぎんちゅ。海人は漁業。陸人は農業や商業に従事する人>が常連である。しかも、戦前戦後を生き抜き、現在の沖縄の基礎を築いてきた人達の集まりだけに、語り合う言葉のひとつひとつに重みがある。知られざる戦後裏面史がある。永田町のおエライさんには届いていない<沖縄>が、夜毎語られる。
この<年金通り>の存在を聞きつけて、大和のレポーター、フリーライターが取材を敢行するが、いまだ、その成果を目にしていない。「おもしろオキナワばなし」ではすまされない<沖縄近代史>が語られるからだろう。
現役の県議会議員K氏は「政治家としての自分を見失いそうになると、年金通りに行く。理屈ではない政治のあり方が学べる」そうな。
あなたも行ってみるといい。ただし、面白半分で行くと無視される。あくまでも、素直に自分をさらけだして、話の輪の中に入ればいい。島うたのひとつも歌えば、なおいい。