旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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見栄・見得

2012-08-10 00:15:00 | ノンジャンル
梅棹忠夫、金田一春彦、板倉篤義、日野原重明監修。講談社カラー版「日本語大辞典」に、
見え=見えるさま。見かけ。外見。
見栄=自分をよく見せようと、うわべをつくろうこと。
見得=歌舞伎で役者が感情の高潮を誇張し、動きを一瞬静止して、美しいポーズをとる演技。と、ある。さらに、
見得を切る=(1)役者が見得の所作をする。(2)ことさら、大げさな態度を示す。
見栄を張る=うわべを飾る。と、記されている。

 私。東京、大阪などへ出かけると、よく、見得を切ったり、見栄を張ったりする。いっぱいやりながら話していると「上原サンは、空手をやりますか」と、聞かれる。沖縄戦、復帰前後の沖縄、基地問題などを語り合ったあとに出てくる問い。皆疲れて、話題を変えようとしての問いのようだ。
「とんでもないッ。いくら空手の本場とは言え、皆が皆、空手を心得ているわけではない。私なぞ、とてもッとてもッ」とは、とてもッ言えない。沖縄の名誉をかけて<見得>を切る。
「道場こそ開いてないが、××流7段だッ」と、いい放ちスッと立ち上がると、腰を落とし拳を握り、八の字に構えた両足をおもむろに逆八の字歩を進める。そして、二度三度拳を突き出し、前後に足を飛ばす。この一連の動作を20秒から30秒内にやった後、姿勢を元に戻して、フーッと息を吐く。結果、大抵は「おうッ!」という感嘆の声がある。この程度は沖縄人、見よう見まねか血のせいか誰でもできる。私は、間髪を入れず言う。
「しかし、二度と私の前では、空手の話はしないでほしい。半年前に稽古中、相手の急所に蹴りが入り、相手は・・・・・・」
あとは、うつむいて沈黙する。座の一同は<上原は、沖縄でもそれと知られた武道家・・・なのかも知れないッ>と、思い込む。
待てッ。この事例は<見得を切る>と言うよりも<大ぼら>あるいは<大嘘>に属するのかも知れない。とかく、知らぬ他国では、自分を大げさに表現したくなるものだ。私の良い癖か悪癖か。

見栄を張って、飛行機に乗り遅れたことがある。東京でのはなし。いつもなら誰かの世話になって羽田空港を往来するのだが、魔が差したのかその日は<見栄>いっぱいの私。「送るヨ」という友人の厚意に対して「それほどの田舎者ではないヨ」と、断りを入れて東京駅から羽田に向かった。東京=浜松町=モノレール=羽田のルート。私は電車が好きだ。沖縄には電車が走ってないからだ。殊に満員電車に乗ると、この大東京を動かしている重要な国民になったようで、五体に充実感が走る。が、その日の電車には空席があった。ゆったり坐って周囲を見ると、乗客のほとんどが小説、雑誌、新聞を黙々と読んでいるか、眠るかしている。私は「これが都会人だ。田舎者と思われては、沖縄のためにならないッ」と、判断。すぐさま、持ち合わせの推理小説を取り出して都会人になる努力をした。その後がいけない。都会人への感情移入が深すぎた。ハッと気づいたときには、電車は浜松町をすでに通過。車内アナウンスは品川駅を案内していた。気は動転。あとは駅員に泣きついて浜松町に戻してもらい、モノレールに乗って羽田に着いたときには、私の飛行機は飛び立っていた。
教訓=東京の電車の中では、見栄を張って読書をしてはいけない。いまひとつ、自分を「田舎者だと思われてはッ」と<思う>のは、選ばれた田舎者だけで、多忙な都会人は私が思うほど、私を田舎者扱いはしていない。意識すらしていない。見得を切ったり、見栄を張ったりするのは、もう、懲りた。
そう決心したのはその時だけで、いまも見得、見栄をしつこく切ったり張ったりしている。しつこくなくなったら人間、ダメになる。