『明治』は言うまでもなく明治天皇睦仁〈むつひと=1852~1912〉時代の年号。江戸時代最後の年号慶応から改元されて、1868年9月8日を元年としている。明治は、1912年7月30日まで続き『大正』に改元される。
『大正』は、大正天皇嘉仁〈よしひと=1879~1926〉時代の年号。1912年7月30日を元年とし、大正15年〈1926〉12月25日までを指している。そして日本は、激動の『昭和』に入る。
『昭和』は、1926年12月25日を元年とする昭和天皇裕仁〈ひろひと=1901~1989〉の時代。昭和64年1月7日まで年号を刻んだ。
◆大正15年〈1926〉・昭和元年。
□「さまよへる琉球人」事件。
小説家広津和郎〈ひろつ かずお=1891~1968=東京生まれ〉が、月刊誌「中央公論」に小説『さまよへる琉球人』を発表した。『貴重な書物を借用しても返却しない文化青年と、いったん売った石油コンロを借り出して転売した二人の沖縄青年』を描いた身辺小説。しかし、題名と内容が沖縄人を誤解させるとして、沖縄青年同盟は激しく抗議。結果、広津和郎は報知新聞に釈明を、中央公論に沖縄青年同盟の抗議書全文と釈明文を掲載。『今後、この作品を創作集に再録しない』と、絶版声明を出して決着した。廃藩置県後、なにかと偏見、差別された沖縄人の怒りが爆発した出版物事件だった。
※【官選知事時代】
◆今宿次雄〈いまじゅく つぐお=1884~没年不詳〉。京都府生まれ。*第14代沖縄県知事。
明治42年〈1909〉東京帝国大学政治学科卒業。同年7月、文官高等試験に合格して、滋賀県属になった。以後、滋賀県警視。滋賀県、和歌山県、熊本県理事官。内務省社会局書記官、埼玉県内務部長などを歴任後、大正15年〈1926〉9月28日、沖縄県知事に任じられる。在任中の事績については多くの記録はないが、温厚な人柄ながら県議会の操縦などに、手腕を発揮したとされる。しかし昭和2年〈1927〉4月。第1次若槻礼次郎内閣が倒れ、田中義一内閣が成立した際、健康状態を理由に辞表を提出。同年5月7日に依願免職となった。
◆飯尾藤次郎〈いいお とうじろう=明治8年〈1875〉~没年不詳。愛媛県生まれ。*第15代沖縄県知事。
明治36年〈1903〉東京帝国大学仏法科卒業。岐阜県地方区裁判所検事を振り出しに大阪府警視、高知県事務官、新潟県警察部長。富山県、宮城県、熊本県の内務部長。朝鮮総督府平女北道、黄海道の各県知事を歴任。昭和2年〈1927〉5月7日、沖縄県知事に就いた。
在任中、大蔵省預金部から県救済資金400万円の低利融資の取り付け、糖業改良奨励金41万余円の獲得など、県経済の立直しに努力。また、県立第二中学校宮古分校や県立第三中学校の設立、那覇市立高等女学校を県立高等女学校に移管するなど、中等教育の振興につとめた。昭和3年〈1928〉12月26日、岩手県知事に転出。
◆昭和2年〈1927〉
□『青い目の人形』
野口雨情作詞・本居長世作曲大正10年〈1921〉発表の唱歌「青い目の人形」とは直接の関係はないが、この年アメリカの児童から“友好の証”に「青い目の人形」1万2000体が日本に贈られてきた。その内、沖縄県にも63体が配布され、各地の児童のアイドルになった。けれども、やがて日米関係がキナ臭くなるや、それは『敵国のモノ』として、軍部は排除にかかった。人形は銃剣で突かれ、軍靴に踏まれ、焼かれて大部分が廃棄された。それでも軍部の目を逃れた人形も、全国に170余体が現存しているという。沖縄に来た人形はどうか。贈り主の米軍の砲火によって、すべて消えたとされる。
◆細川長平〈ほそかわ ちょうへい=明治17年~昭和42年。1884~1967=香川県出身。*第16代沖縄県知事。
明治42年〈1909〉東京帝国大学法科卒業。文官高等試験合格後、岐阜県事務官、岐阜県理事官。徳島県警察部長、熊本県警察部長などを歴任。昭和3年〈1928〉12月26日、沖縄県知事に任命された。在任6ヵ月を過ごし、昭和4年〈1929〉7月5日、埼玉県知事に転出。
◆昭和4年〈1929〉。
□西武門節〈にしんじょう ぶし〉流行る。
那覇市久米大通りは通称久米大道〈くにんだ うふみち〉と言い、南と北に大門があった。南口をウフジョウ〈大門〉、北口をニシンジョウ〈西武門〉と称した。北口は遊郭チージ近くに位置していたため、遊女たちは馴染みの客をここで送迎。この西武門での未練の別れのさまを歌ったのが代表的俗謡「西武門節」だ。メロディーは当時、那覇港や泊港に国頭地方の生産物を搬送するのに出入りしていたヤンバルブニ〈山原船〉の船子たちが遊郭辻やワタンヂ〈渡地〉遊郭に遊んだおりによく歌った「山原節小=やんばるぶしぐぁ」文句はチージに遊ぶ那覇の粋人たちが思い思い即興で歌ったものが、時とともにまとまって、今に残る歌詞になったとされる。
『大正』は、大正天皇嘉仁〈よしひと=1879~1926〉時代の年号。1912年7月30日を元年とし、大正15年〈1926〉12月25日までを指している。そして日本は、激動の『昭和』に入る。
『昭和』は、1926年12月25日を元年とする昭和天皇裕仁〈ひろひと=1901~1989〉の時代。昭和64年1月7日まで年号を刻んだ。
◆大正15年〈1926〉・昭和元年。
□「さまよへる琉球人」事件。
小説家広津和郎〈ひろつ かずお=1891~1968=東京生まれ〉が、月刊誌「中央公論」に小説『さまよへる琉球人』を発表した。『貴重な書物を借用しても返却しない文化青年と、いったん売った石油コンロを借り出して転売した二人の沖縄青年』を描いた身辺小説。しかし、題名と内容が沖縄人を誤解させるとして、沖縄青年同盟は激しく抗議。結果、広津和郎は報知新聞に釈明を、中央公論に沖縄青年同盟の抗議書全文と釈明文を掲載。『今後、この作品を創作集に再録しない』と、絶版声明を出して決着した。廃藩置県後、なにかと偏見、差別された沖縄人の怒りが爆発した出版物事件だった。
※【官選知事時代】
◆今宿次雄〈いまじゅく つぐお=1884~没年不詳〉。京都府生まれ。*第14代沖縄県知事。
明治42年〈1909〉東京帝国大学政治学科卒業。同年7月、文官高等試験に合格して、滋賀県属になった。以後、滋賀県警視。滋賀県、和歌山県、熊本県理事官。内務省社会局書記官、埼玉県内務部長などを歴任後、大正15年〈1926〉9月28日、沖縄県知事に任じられる。在任中の事績については多くの記録はないが、温厚な人柄ながら県議会の操縦などに、手腕を発揮したとされる。しかし昭和2年〈1927〉4月。第1次若槻礼次郎内閣が倒れ、田中義一内閣が成立した際、健康状態を理由に辞表を提出。同年5月7日に依願免職となった。
◆飯尾藤次郎〈いいお とうじろう=明治8年〈1875〉~没年不詳。愛媛県生まれ。*第15代沖縄県知事。
明治36年〈1903〉東京帝国大学仏法科卒業。岐阜県地方区裁判所検事を振り出しに大阪府警視、高知県事務官、新潟県警察部長。富山県、宮城県、熊本県の内務部長。朝鮮総督府平女北道、黄海道の各県知事を歴任。昭和2年〈1927〉5月7日、沖縄県知事に就いた。
在任中、大蔵省預金部から県救済資金400万円の低利融資の取り付け、糖業改良奨励金41万余円の獲得など、県経済の立直しに努力。また、県立第二中学校宮古分校や県立第三中学校の設立、那覇市立高等女学校を県立高等女学校に移管するなど、中等教育の振興につとめた。昭和3年〈1928〉12月26日、岩手県知事に転出。
◆昭和2年〈1927〉
□『青い目の人形』
野口雨情作詞・本居長世作曲大正10年〈1921〉発表の唱歌「青い目の人形」とは直接の関係はないが、この年アメリカの児童から“友好の証”に「青い目の人形」1万2000体が日本に贈られてきた。その内、沖縄県にも63体が配布され、各地の児童のアイドルになった。けれども、やがて日米関係がキナ臭くなるや、それは『敵国のモノ』として、軍部は排除にかかった。人形は銃剣で突かれ、軍靴に踏まれ、焼かれて大部分が廃棄された。それでも軍部の目を逃れた人形も、全国に170余体が現存しているという。沖縄に来た人形はどうか。贈り主の米軍の砲火によって、すべて消えたとされる。
◆細川長平〈ほそかわ ちょうへい=明治17年~昭和42年。1884~1967=香川県出身。*第16代沖縄県知事。
明治42年〈1909〉東京帝国大学法科卒業。文官高等試験合格後、岐阜県事務官、岐阜県理事官。徳島県警察部長、熊本県警察部長などを歴任。昭和3年〈1928〉12月26日、沖縄県知事に任命された。在任6ヵ月を過ごし、昭和4年〈1929〉7月5日、埼玉県知事に転出。
◆昭和4年〈1929〉。
□西武門節〈にしんじょう ぶし〉流行る。
那覇市久米大通りは通称久米大道〈くにんだ うふみち〉と言い、南と北に大門があった。南口をウフジョウ〈大門〉、北口をニシンジョウ〈西武門〉と称した。北口は遊郭チージ近くに位置していたため、遊女たちは馴染みの客をここで送迎。この西武門での未練の別れのさまを歌ったのが代表的俗謡「西武門節」だ。メロディーは当時、那覇港や泊港に国頭地方の生産物を搬送するのに出入りしていたヤンバルブニ〈山原船〉の船子たちが遊郭辻やワタンヂ〈渡地〉遊郭に遊んだおりによく歌った「山原節小=やんばるぶしぐぁ」文句はチージに遊ぶ那覇の粋人たちが思い思い即興で歌ったものが、時とともにまとまって、今に残る歌詞になったとされる。