人力車が走っている。
首里城公園前を起点とし玉陵~安国寺~中山門~観音堂~赤丸宗通り~いろは坂~一中健児之塔~石畳道~大赤木~瑞泉酒造。そして、首里城公園前に戻る。これは、1時間30分コース。他に30分コース、1時間コースとあって、利用者の都合に合わせている。
※首里城公園=首里城は、14世紀ごろ察度王によって築城されたといわれる王城。戦火で焼失したが、平成元年<1984>正殿復元に着手。平成4年にほぼ完了。公園として公開。世界遺産郡のひとつ。
※玉陵<たまうどぅん>=琉球国王第二尚氏王統の墓陵。1501年創建とされる。国王・王妃・世子・世子及びその直系の霊を祀る。
※安国寺=臨済宗の寺。山号太平山。はじめ観音菩薩像、のちに不動明王像も奉安。尚泰久王時代=1450~1456に創建。
※中山門<ちゅうざんもん>=首里城への第一の関門。別名下ぬ綾門<しむぬ あやじょう>。これに対して守禮門<しゅれいもん>を「上ぬ鳥居・上ぬ綾門」とも言う。
ここで一度下車。琉球染物の工房を見学。
※観音堂=臨済宗慈眼院の通称。1618年創建。中国や大和への船旅の安全祈願をした。
※赤丸宗通り=味噌・醤油醸造会社通り。創業者・具志堅宗精<ぐしけんそうせい>の名乗〔宗〕をとって赤丸宗<そう>とした。昭和25年<1950>11月創業。戦後の混乱期から日本復帰<1972>前までは、島内シェア50%を占めた。行政区名より、この通り名の方が親しまれている。
※いろは坂=首里城から寒川町に下る坂。寒川いろは坂・首里いろは坂とも言う。
※一中健児之塔=日米戦争終結間際、鉄血勤皇隊・少年特別志願兵として日本軍部と行動をし、そして散った旧沖縄県立第一中学校<現・首里高校>の教職員及び生徒の慰霊塔。
※石畳道=首里城から南の真玉橋に至る総延長10キロの官道だったが、沖縄戦で大半が破壊された。現存するのは、金城町に残る238メートルの区間。ここでは、人力車を降りて散策。
※大赤木<うふ あかぎ>。内金城御獄<うちかなぐすく うたき>の境内に神木として立つクワ科の樹木。ウスク・アコウギとも言う。樹齢200年。
※瑞泉酒造=琉球王朝時代。酒造りを公認された首里三箇<すい さんか。3箇所の集落の意>。すなわち赤田町、鳥堀町、そしていまひとつ崎山町で創業。「瑞泉」の名は、湧水を前にした首里城瑞泉門にちなむ。
写真:飛龍HPから転載
現在、人力車を引いているのは島袋誠38歳。師範免許を有する空手4段。腕相撲を特技とする猛者である。
「いまどき、人力車俥夫かい」
私の心ない問いかけに島袋誠は、にこやかに答えた。
「ほんとに“いまどき”でしょうね。けれども首里、那覇に生まれ育ったボクにとってそこは“確かなるふるさと”なんですよ。首里城界隈を歩くには距離があり、さりとて自動車では表の風景しか見えない。そこで、昔ながらの人力車で悠々散策をしてもらおうとこの仕事を始めました。妻やふたりの娘には、ちょっと迷惑を掛けていますが妻の“あなたはロマンチストだから”のひと言が後押しになっています」
大見謝哲20歳。上り下りが少ないコースで、島袋誠のよい相棒になっていい汗をかいている。もちろん、彼ら風の語り口で案内してくれる。
人力車が沖縄に導入されたのは、明治19年<1886>末。当時の県令<知事>大迫貞清<1825~1896・鹿児島県出身>専用の一台のみであった。ちなみに大迫貞清は、廃藩置県後の第5代目・沖縄県県令。
明治も20年代に入ると民間の足としても人力車は急速に普及し始めた。那覇はまだ〔区制〕を施いていた時代で、その那覇区内車賃は端から端まで乗っても5厘を超えない。しかし、那覇区から首里区の県立第一中学校辺りまでとなると4銭と高く、おエライ方のみが利用した。こうして、人力車が走るようになると、それに便乗した商売も出てくる。
首里への登り口「坂下」は、地名通り急勾配の長い坂道。その「坂下」に、いつの間にか人力車の〔後押し〕を生業とする男たちが登場。首里城への第1の関門・中山門までの後押し料を5厘取っていたそうな。
年月とともに人力車の両者多くなり、初お目見えして2年後の5月には、台数も303台を数えるにいたった。その急増に対応して「人力車営業取締規定」が制定さる。おそらく、客の奪い合い等々のトラブルが頻発したのだろう。
「那覇の崇元寺前は、客待ちの人力車がズラリ並んでいたし、那覇港にいたっては、桟橋入口に100台は駐車していた」
これは、戦前をよく知る那覇の古老の述懐。
東京で人力車を考案して官許を得たのは和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3人。西洋馬車にヒントを得たという。明治2年<1869>のこと。
私の人力車乗車経験は最近で家族旅をした安芸の宮島、大分県日田市、東京・浅草での3度ばかりだが、首里城下を走るそれにも近々、乗ることにしている。ひとり乗るか、ふたり乗りにするか、ともかくゆったりと〔琉球の風〕を感じ取りたい。
首里城公園前を起点とし玉陵~安国寺~中山門~観音堂~赤丸宗通り~いろは坂~一中健児之塔~石畳道~大赤木~瑞泉酒造。そして、首里城公園前に戻る。これは、1時間30分コース。他に30分コース、1時間コースとあって、利用者の都合に合わせている。
※首里城公園=首里城は、14世紀ごろ察度王によって築城されたといわれる王城。戦火で焼失したが、平成元年<1984>正殿復元に着手。平成4年にほぼ完了。公園として公開。世界遺産郡のひとつ。
※玉陵<たまうどぅん>=琉球国王第二尚氏王統の墓陵。1501年創建とされる。国王・王妃・世子・世子及びその直系の霊を祀る。
※安国寺=臨済宗の寺。山号太平山。はじめ観音菩薩像、のちに不動明王像も奉安。尚泰久王時代=1450~1456に創建。
※中山門<ちゅうざんもん>=首里城への第一の関門。別名下ぬ綾門<しむぬ あやじょう>。これに対して守禮門<しゅれいもん>を「上ぬ鳥居・上ぬ綾門」とも言う。
ここで一度下車。琉球染物の工房を見学。
※観音堂=臨済宗慈眼院の通称。1618年創建。中国や大和への船旅の安全祈願をした。
※赤丸宗通り=味噌・醤油醸造会社通り。創業者・具志堅宗精<ぐしけんそうせい>の名乗〔宗〕をとって赤丸宗<そう>とした。昭和25年<1950>11月創業。戦後の混乱期から日本復帰<1972>前までは、島内シェア50%を占めた。行政区名より、この通り名の方が親しまれている。
※いろは坂=首里城から寒川町に下る坂。寒川いろは坂・首里いろは坂とも言う。
※一中健児之塔=日米戦争終結間際、鉄血勤皇隊・少年特別志願兵として日本軍部と行動をし、そして散った旧沖縄県立第一中学校<現・首里高校>の教職員及び生徒の慰霊塔。
※石畳道=首里城から南の真玉橋に至る総延長10キロの官道だったが、沖縄戦で大半が破壊された。現存するのは、金城町に残る238メートルの区間。ここでは、人力車を降りて散策。
※大赤木<うふ あかぎ>。内金城御獄<うちかなぐすく うたき>の境内に神木として立つクワ科の樹木。ウスク・アコウギとも言う。樹齢200年。
※瑞泉酒造=琉球王朝時代。酒造りを公認された首里三箇<すい さんか。3箇所の集落の意>。すなわち赤田町、鳥堀町、そしていまひとつ崎山町で創業。「瑞泉」の名は、湧水を前にした首里城瑞泉門にちなむ。
写真:飛龍HPから転載
現在、人力車を引いているのは島袋誠38歳。師範免許を有する空手4段。腕相撲を特技とする猛者である。
「いまどき、人力車俥夫かい」
私の心ない問いかけに島袋誠は、にこやかに答えた。
「ほんとに“いまどき”でしょうね。けれども首里、那覇に生まれ育ったボクにとってそこは“確かなるふるさと”なんですよ。首里城界隈を歩くには距離があり、さりとて自動車では表の風景しか見えない。そこで、昔ながらの人力車で悠々散策をしてもらおうとこの仕事を始めました。妻やふたりの娘には、ちょっと迷惑を掛けていますが妻の“あなたはロマンチストだから”のひと言が後押しになっています」
大見謝哲20歳。上り下りが少ないコースで、島袋誠のよい相棒になっていい汗をかいている。もちろん、彼ら風の語り口で案内してくれる。
人力車が沖縄に導入されたのは、明治19年<1886>末。当時の県令<知事>大迫貞清<1825~1896・鹿児島県出身>専用の一台のみであった。ちなみに大迫貞清は、廃藩置県後の第5代目・沖縄県県令。
明治も20年代に入ると民間の足としても人力車は急速に普及し始めた。那覇はまだ〔区制〕を施いていた時代で、その那覇区内車賃は端から端まで乗っても5厘を超えない。しかし、那覇区から首里区の県立第一中学校辺りまでとなると4銭と高く、おエライ方のみが利用した。こうして、人力車が走るようになると、それに便乗した商売も出てくる。
首里への登り口「坂下」は、地名通り急勾配の長い坂道。その「坂下」に、いつの間にか人力車の〔後押し〕を生業とする男たちが登場。首里城への第1の関門・中山門までの後押し料を5厘取っていたそうな。
年月とともに人力車の両者多くなり、初お目見えして2年後の5月には、台数も303台を数えるにいたった。その急増に対応して「人力車営業取締規定」が制定さる。おそらく、客の奪い合い等々のトラブルが頻発したのだろう。
「那覇の崇元寺前は、客待ちの人力車がズラリ並んでいたし、那覇港にいたっては、桟橋入口に100台は駐車していた」
これは、戦前をよく知る那覇の古老の述懐。
東京で人力車を考案して官許を得たのは和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の3人。西洋馬車にヒントを得たという。明治2年<1869>のこと。
私の人力車乗車経験は最近で家族旅をした安芸の宮島、大分県日田市、東京・浅草での3度ばかりだが、首里城下を走るそれにも近々、乗ることにしている。ひとり乗るか、ふたり乗りにするか、ともかくゆったりと〔琉球の風〕を感じ取りたい。