七夕伝説に登場する牽牛とは、牛を引く農夫のこと。牽牛星、彦星とも言うね。一方の織姫は、ハタ織りを仕事とする女性。七夕姫・織女<しょくじょ>とも呼ぶ。さて、そこでだ。年に1度、天の川を渡って愛の語らいをするふたりの物語は、なんともロマンチックだが、よく考えてみると、愛し合っているふたりならば、毎夜逢ってもよさそうなものだよね。それが何故に年に1度のなのか。それには深い事情がある。以前は牽牛、織女は、昼も夜も心のおもむくままに逢っていたのだが、これが神様の怒りに触れてしまったのだよ。『お前たちが愛し合うのはいっこうにかまわない。でも、牽牛は農耕に気が入らず、織女も機織りを怠って恋愛三昧に耽っている。男も女も、己が成すべき職分を失念していては天も地も成り立たない。お前たちを天の川の両岸に引き離すことにするが、毎年7月7日の一夜だけは逢うことを許す』。そう神様に限定された結果、愛し合っているにも関わらず、年に1度だけの逢瀬になったのだよ。つまり、七夕物語は、労働をそっちのけで色恋に耽ってはならないということを教訓している。
中学校2年のころだったか、受持ちの男先生がそう話していた。ボクは思った。
「この先生は、人を恋う心の大切さを持ち合わせていない。たとえ理屈はそうであっても、ちょうどいまボクは、初めて人を好きになり、夜な夜な彼女の家の辺りを胸熱くしながらさまよっているというのに・・・・。顔は合わさなくても、声が聞けなくても家の中にいる彼女の横顔や後ろ姿をひと目見れたらそれでいいというのに・・・・。そうしなければ予習も復習も、まして宿題なぞ落ち着いてはできないというのに・・・・」。
このことであった。以来、その男先生がキライになって、先生が教壇に立つ数学の時間に身が入らなくなった。いまもってボクが数字に弱いのは、このことに原因がある。
本土における七夕まつりは〔星に願いを〕だが、沖縄のそれは意を異にし、独特の祖先神祀りである。現在も、七夕はお盆の節入りと位置付けられている。この日、各家庭では墓参をして墓所を掃き浄めた後、ウチャトウ<御茶湯>や花をたむけて焼香をする。そして唱える。
「もう6日すると盆入りです。7月13日には子孫打ち揃い、ウンケー<御迎え>をいたします。どうぞ、そろりそろりとおいでになって、われわれにおもてなしをさせて下さいますように」。
また、墓参から帰宅すると仏壇仏具を拭き清めたり虫干しを成す。昔ならば、土葬をした故人の洗骨を執り行うこともした。普段、位牌や仏具一切には、やたら触れてはならないとされていても、七夕だけはそれが許される。このことを「七夕 日なし=たなばた ひなし」という。つまり、仏事を行なう場合はそれなりの「日取り」をしなければならないとされているが、七夕は特別で洗骨、墓所移転、水の神が宿る井戸の底さらい等々に最良の日としているのである。
「琉球国由来記」よると、第二尚氏初代国王尚円<しょうえん>を祀るため、1492 年、尚真王によって建てられて以来、毎年七夕には第二王統の菩提寺である〔円覚寺〕において、王家一族が祖先供養をした後、同行した側近の者たちに素麺がふるまわれたという。ちなみに〔円覚寺〕は、京都南禅寺の芥隠禅師を開山住持としている。山号は天徳山円覚寺と称し、臨済宗の沖縄における総本山である。
これらの記述等から推考するに七夕は、中国や日本の〔星まつり〕とは異なり、沖縄のそれは祖先供養の意味合いが濃厚と言えよう。
しかし、いまでは、〔星まつり〕も併せて行なわれていて、七夕の暮色が本物の闇になったころ、集落中の電気・灯りを一斉に消して、満天の星空を楽しむ地域もある。殊にその地域の子どもたちは夏休み期間中とあって、七夕の天気が(晴れでありますように)と、殊勝にも2,3日前から天に向かって手を合わせる。青年たちはまた、男女打ち揃い陰暦7月13日<御迎えの日>14日<中日>15日<御送い=ウークイ>に華やかす念仏踊りエイサーの稽古を加熱させる。今年の陰暦七夕は、陽暦8月6日だ。
平敷屋エイサー
“一年に一夜 天ぬ川渡る 星ぬ如とぅ契てぃ 語れぶさぬ”
(ひとぅとぅに いちや あまぬかわ わたる ふしぬぐとぅ ちじてぃ かたれぶさぬ)
歌意=一年に1度(鵲=かささぎ=という鳥が、牽牛と織女星を渡すため、その羽で天の川に架けると言われる“鵲の橋”)を渡って契るように、私も彼女と甘い語らいをしたい。
冒頭の男先生とは大違いの歌人がいたものだ。
沖縄方言の「天の川」は〔天河原=ティンジャーラ・ティンジャラ・ティンガーラ〕
流れ星を多く見ることができるのも七夕だ。流れ星は尾を引いて行った先で燃えつきてなくなるというのが常識だが、沖縄の流れ星は消滅なぞしない。流れ星を方言で「星ぬ家移ちー=ふしぬ やーうちー」と言うように、星はその位置から他所に〔引っ越す〕たまに流れるのであって、決して無には返らず、引越し先で再び輝くと沖縄人は考えてきている。
「かの男先生はどうしているだろう。もう、星になったのかも知れない・・・・」
さまざまなことを想起させて、星のまたたきを楽しむ陰暦7月を迎えた。
中学校2年のころだったか、受持ちの男先生がそう話していた。ボクは思った。
「この先生は、人を恋う心の大切さを持ち合わせていない。たとえ理屈はそうであっても、ちょうどいまボクは、初めて人を好きになり、夜な夜な彼女の家の辺りを胸熱くしながらさまよっているというのに・・・・。顔は合わさなくても、声が聞けなくても家の中にいる彼女の横顔や後ろ姿をひと目見れたらそれでいいというのに・・・・。そうしなければ予習も復習も、まして宿題なぞ落ち着いてはできないというのに・・・・」。
このことであった。以来、その男先生がキライになって、先生が教壇に立つ数学の時間に身が入らなくなった。いまもってボクが数字に弱いのは、このことに原因がある。
本土における七夕まつりは〔星に願いを〕だが、沖縄のそれは意を異にし、独特の祖先神祀りである。現在も、七夕はお盆の節入りと位置付けられている。この日、各家庭では墓参をして墓所を掃き浄めた後、ウチャトウ<御茶湯>や花をたむけて焼香をする。そして唱える。
「もう6日すると盆入りです。7月13日には子孫打ち揃い、ウンケー<御迎え>をいたします。どうぞ、そろりそろりとおいでになって、われわれにおもてなしをさせて下さいますように」。
また、墓参から帰宅すると仏壇仏具を拭き清めたり虫干しを成す。昔ならば、土葬をした故人の洗骨を執り行うこともした。普段、位牌や仏具一切には、やたら触れてはならないとされていても、七夕だけはそれが許される。このことを「七夕 日なし=たなばた ひなし」という。つまり、仏事を行なう場合はそれなりの「日取り」をしなければならないとされているが、七夕は特別で洗骨、墓所移転、水の神が宿る井戸の底さらい等々に最良の日としているのである。
「琉球国由来記」よると、第二尚氏初代国王尚円<しょうえん>を祀るため、1492 年、尚真王によって建てられて以来、毎年七夕には第二王統の菩提寺である〔円覚寺〕において、王家一族が祖先供養をした後、同行した側近の者たちに素麺がふるまわれたという。ちなみに〔円覚寺〕は、京都南禅寺の芥隠禅師を開山住持としている。山号は天徳山円覚寺と称し、臨済宗の沖縄における総本山である。
これらの記述等から推考するに七夕は、中国や日本の〔星まつり〕とは異なり、沖縄のそれは祖先供養の意味合いが濃厚と言えよう。
しかし、いまでは、〔星まつり〕も併せて行なわれていて、七夕の暮色が本物の闇になったころ、集落中の電気・灯りを一斉に消して、満天の星空を楽しむ地域もある。殊にその地域の子どもたちは夏休み期間中とあって、七夕の天気が(晴れでありますように)と、殊勝にも2,3日前から天に向かって手を合わせる。青年たちはまた、男女打ち揃い陰暦7月13日<御迎えの日>14日<中日>15日<御送い=ウークイ>に華やかす念仏踊りエイサーの稽古を加熱させる。今年の陰暦七夕は、陽暦8月6日だ。
平敷屋エイサー
“一年に一夜 天ぬ川渡る 星ぬ如とぅ契てぃ 語れぶさぬ”
(ひとぅとぅに いちや あまぬかわ わたる ふしぬぐとぅ ちじてぃ かたれぶさぬ)
歌意=一年に1度(鵲=かささぎ=という鳥が、牽牛と織女星を渡すため、その羽で天の川に架けると言われる“鵲の橋”)を渡って契るように、私も彼女と甘い語らいをしたい。
冒頭の男先生とは大違いの歌人がいたものだ。
沖縄方言の「天の川」は〔天河原=ティンジャーラ・ティンジャラ・ティンガーラ〕
流れ星を多く見ることができるのも七夕だ。流れ星は尾を引いて行った先で燃えつきてなくなるというのが常識だが、沖縄の流れ星は消滅なぞしない。流れ星を方言で「星ぬ家移ちー=ふしぬ やーうちー」と言うように、星はその位置から他所に〔引っ越す〕たまに流れるのであって、決して無には返らず、引越し先で再び輝くと沖縄人は考えてきている。
「かの男先生はどうしているだろう。もう、星になったのかも知れない・・・・」
さまざまなことを想起させて、星のまたたきを楽しむ陰暦7月を迎えた。