旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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お盆の節入り・七夕

2009-08-20 00:20:00 | ノンジャンル
 暦をめくってみると、平成21年8月26日の日付の下に「旧七夕」とある。
 およそ日本古来の年中行事は、陰暦でなされてきたが、明治政府は国際社会にでるための改善事項のひとつとして、陰暦を廃し、世界共通の陽暦・西洋暦を採用して今日に至っている。そのことはそれでよい。しかし、東洋の農業・漁業は、遠くエジプトを起源とする西暦月日巡りでは処しがたい歳月差が出てくる。季節風、雨期、潮の干満などなど。東洋の中の日本列島は、すべてを西洋並でも具合はよくない。古来の年中下行事も西洋暦で行なうわけにはいかない面が出てくる。
 沖縄の場合、代表的な正月、ハーリー〈海神祭〉、綱引き、エイサーなどは、いまでも陰暦に合わせてなされてるのが主流。もっとも、県庁所在地那覇では、かつて陰暦5月4日に漕いでいたハーリーは陽歴5月5日の連休に、陰暦6月か8月に引いていた大綱引きは10月10日の連休に実施している。これは、観光立県を標榜する県や主催者側が県外からの観光客誘致を視野に入れてのこと。地方では、慣例にしたがって陰暦の定まった日になされている。実施日が特定された伝統行事も、いまの生活パターンに合わせていくということか。念仏踊り・エイサーにいたっては、お盆の先祖供養とは無縁になり、県内外のイベントで年中演じられるようになった。
 とは言っても、エイサーはお盆の祭祀芸能。陰暦の当日は、先祖神の慰霊・供養と豊作の感謝及び翌年のそれを祈願することを失念せず今日、伝統にのっとって厳かに華やかになされていることにも関心を寄せなければなるまい。

   
      写真:ハーリー行事

 七夕はどうか。
 中国伝来の星物語行事は、いまや陽暦化。沖縄では保育園や小学校でなされるだけで、一般家庭では、そうそう行われない。それも、沖縄の七夕はお盆の[節入り]を告げる日と位置付けされているからだ。つまり、この日から陰暦7月15日までを「盆の日々」としているのだ。したがって、七夕の日に笹飾りや短冊書きはめったにしない。墓参が重要な行事。一家の幾人かが墓前に供える花と線香、草刈り用具を携帯して墓参して、周辺を掃き清める。その後の祝詞はこうだ。
 「陰暦7月13日には一家、一族相揃い馳走を作り、先祖神皆々さまのお下をお待ちしております。どうぞ、我ら子孫の接待を快くお受け下さいますように」
 簡単に言えば、先祖神にお盆の招待を掛けるのが沖縄流の七夕行事。この接待のことを「御取持ち=うとぅいむち」と言うが「御取持ちされて下さい」とする謙虚な心映えがいいではないか。
 また「七夕、日なし」と言い、洗骨や墓の移転、水神や守護されたムラガー〈集落の共同井戸〉や屋敷内の井戸の底さらいなど、ふだんは[やってはならない]とされることを実施するに、むしろ[よい日]とされている。したがって仏壇、仏具を清めたり、新装する家庭も少なくない。琉球由来記には、琉球国王尚真が1492年に着工、3年後に竣工した第2尚氏王統の菩提樹・円覚寺を後年、国王が参拝した後、御共衆に素麺をふるまったという記述がある。

 【蛇足】王家とは縁もゆかりもまったくないわが家だが、慣例として七夕の墓掃除の後は、決まって[冷や素麺]を食する。この日の前後は「七夕太陽=たなばた てぃーだ」と称し、ことのほか暑さが厳しく食欲が落ちる。でも冷や素麺ならば涼とともに喉を通ってくれる。たったそれだけの理由。
 本土の七夕祭も起源は農事に関わる儀式。神仏に五穀豊穣の感謝と祈願する行事と、ものの本で読んだ。それが中国の天の川伝説と結びつき[星祭り]が表立っている。
 長野県松本地方には「七夕人形」を作り、軒先に吊るし飾る風習が継承されている。30センチか40センチか。とにかく大小の竹棒などを十字に固定し、顔をきれ板に描いた頭部を付け、着物を着せる。それも数体。それぞれに魂があり、現世と来世を結ぶ役割を果たしているそうな。穏やかで崇高な風習のように思える。子どもたちが主役であることは言うまでもない。

 沖縄に笹飾りや短冊書きがまったくなかったわけではない。琉球国が日本国に組み入れられた明治12年以降、日本教育の中に星祭りは登場した。
 昭和20年、終戦の年に小学校1年生を始めた私なそも、3年生か4年生のころ、
symbol7ささの葉さらさら 軒ばにゆれる お星さまきらきら 金銀砂子 symbol7五色の短ざく わたしがかいた お星さまきらきら 空からみてる[たなばたさま]の唱歌を教わって歌い、ヤンバル竹〈琉球竹〉を笹代わりに飾り付けをした。おそらく戦争で荒んだ少年少女の心のケアの意図があったのではなかろうか。ちなみに「たなばたさま」の歌は昭和16年3月、文部省発行の「うたのほん・下」に掲載された。作詞権藤はなよ。補作詞林柳波。作曲下総皖一。



 単に短冊書きのためのみではなかったろうが、週に一度は[お習字の時間]があった。毛筆や墨、硯はなんとかあったが、習字用の和紙がない。いや、あろうはずがない。紙は米軍払い下げのそれも、タイプを打った使用済みの裏面を使用していた。しかし、ウーマク〈悪童〉を身上としていた私は、その紙で飛行機を作って飛ばし、先生のお叱りを受けてしぶしぶ筆を取ってはみても、そのたっぷりとつけた墨は机上の紙ではなく、隣席の女の子の顔に走らせるのが常だった。
 その祟りに違いないが、私の直筆は誰も読めない。見事すぎるミミズ走り。学問の神様は確かに存在する。


    写真:原稿直筆