2011 09 25(日)
前回までの義人“茂左衛門”と非道な藩主・真田伊賀守信利の時代に年貢取立て使われた悪名高き“水牢”を訪ねて群馬県吾妻郡へ・・・。
日本のヘソを自認する渋川市から県道35号線(通称・日陰の道)を北西へ約15km、日本名水百選の一つ“箱島湧水”を少し奥に進んだ吾妻郡東吾妻町奥田の山中に建つ薬師堂が水牢のある目的地。
お堂の名称は「池廼薬師堂」(廼=の)、水牢は「池廼薬師堂水牢」と云います。
眼病に効くと言う薬師堂の右脇に農民を苦しめた“水牢”がありました。
水牢のあるこの場所は榛名山の北斜面に位置し、一年中陽は射さない陰気な雰囲気の古池。
年貢取立てでこの水牢(水深60cm)に農家の妻子を4~5人づつ縄で縛って入れたそうです。
因みに水温を計ったら15℃、3分ほど手を入れていると痺れてしまいました。(気温24℃)
投獄される時期は冬の12月ですから薄氷の張る極冷えの水温になり、とても耐えられるものではありません。
寒さに泣き叫ぶ妻子の姿を見て、祖先代々の田畑を売って米や金子(きんす)などを工面したと言い伝えられています。
真田伊賀守信利の苛酷な刑罰によって水牢で低体温症になり命を奪われた人々の怨嗟の声が聞こえて来るようです。
水牢で殺された農民の無念を弔うのか、池のほとりに石仏が・・・。
高台から俯瞰した池廼薬師堂と水牢。水牢に流れ落ちる清水で眼を洗うと眼病が治るとか・・・。
注ぎ込む清水は飲むことができます。 箱島湧水の近くですから大変美味しい湧き水です。
薬師堂の正面奥には石地蔵様が鎮座。苛酷な水牢刑で命を落とした領民の菩提を弔っているのでしょう。
池廼薬師堂の水牢を見学した後、県道35号線から吾妻川を渡って国道353号線(吾妻街道 通称・日向の道)に出て中之条町へ向かいます。
稲穂が揺れる初秋の吾妻街道の前方には岩櫃山(いわびつやま 標高802m)の岩峰が・・・あの山上には中世の名城・岩櫃城が築かれていました。
中之条町で国道353号を右折し、国道145号線(日本ロマンチック街道)を3分ほど車を走らせた左側、中之条町横尾1639に次に目指した水牢があります。(145号道路に小さな看板、近くに吾妻神社あり)
それは豊作の稲田を過ぎ、小川を渡った林間地にありました。
悪名高き真田伊賀守信利が民百姓に重税を課し、納められない者を見せしめとして入れた“桃瀬の水牢”。
中之条カルタで、む 「昔の悲話を伝える桃瀬の水牢」と詠われています。
「桃瀬の水牢」の石碑が無ければ見過ごしてしまいそうな小さな池。
池は背後の小丘からの湧き水を湛えていました。
水温を計ると19℃。半袖で充分な温暖な秋日和の陽溜まりの水牢でしたから、「池廼薬師堂の水牢」より4℃ほで高い水温です。
水牢を使ったのは冬の雪降る12月でしたから、この水温よりずっと低くとても耐えられない冷たさだった事でしょう。
桃瀬の水牢の脇に立てられていた説明板を記します。
「水牢は人を水の中に入れる水責めの一種で、おもに年貢の取立てに使われたといわれる。
水牢跡は近世の沼田藩の中で吾妻東部にだけ残されている遺跡であり、八ヶ所ある中でこの跡がもっともよく原型を残している。
記録には12m四方に粗朶(そだ)をゆい、木戸を設け、周囲は石垣で、女は水を70cm位にし、子どもある者は背負わせ、単衣(ひとえ)にさせ五人ぐらいを袖に縄を通してつなぎ入れたといわれる。
男は首がつかるまで入れたといい、体温低下で死んだ者もいたといわれる。この悲惨な姿を見て、人々にすがり年貢を納めたのだといわれる。
吾妻東部にしか見られないものなので、中世における岩櫃城主斉藤越前守(岩櫃衆)が使ったものと推定され、それを近世になり真田伊賀守も使っただろうと考えられている数少ない遺跡で貴重なものである。」
戦国の智将・真田家の末裔は暴君だったのですね。
次回は、名水百選の一つ「箱島湧水」。
2011 10 14(金)記。 前橋市のち 最高気温23.3℃
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