2010 10 10(日・体育の日)
“松代城築城450年 真田十万石祭り”を楽しんだ後、松代市に在る真田家由来の旧跡など簡単に見学。
先ずは、人々の出入りの多い“松代藩文武学校”。
江戸時代の形式になる文武学校正門を眺めてから玄関へ・・・。
正玄関の前では昔の衣装で餅つきが行われて楽しそうな光景でした。
時間的に忙しいので文武学校はそこそこに、次なる古跡の“樋口家住宅”へ・・・。
樋口家は目付役などを勤めた230石取りの上級真田藩士の邸宅。
茅葺き寄棟造りの素朴ながらどっしりとした構えの母屋は江戸時代の1800年頃に建てられたと推定されます。
延べ床面積は40.6坪の平屋建て、南側には池を中心とした瀟洒な庭園がありました。
白壁が続く松代の街並みに秋桜(コスモス)の花が彩りを添えていました。
更に、見学したのは、真田家の新御殿と呼ばれた“真田邸”。(入館料200円)
左右に長屋が付いた重厚な冠木門(かぶきもん)が印象的です。
冠木門脇の木戸から入館し、入母屋屋根に式台付きの正玄関から新御殿に上がります。
9代藩主・真田幸教が義母・貞松院のため、元治元年(1864年)に建て、新御殿と命名しました。
その後、幸教の隠居所として使われ明治維新後は真田家別邸となったそうです。
木造一部2階建て510坪の建屋内は沢山の部屋に別れ、順路板が無ければ迷うほどでした。
広々とした江戸末期の庭園が残る御殿建築は全国的にも珍しいとか・・・。
真田邸(新御殿)の後、近くにある“池田満寿夫美術館”へ・・・。
入館料は700円と少し高め、館内は撮影禁止でした。
直ぐ傍の“真田宝物館”脇の銅像などご覧下さい。
武士姿の立像は江戸時代の経世家として有名な“恩田木工民親”(おんだもくたみちか)。
享保2年(1717年)松代に生まれ、30歳で家老職に抜擢され、41歳のとき6代藩主・真田幸弘に藩政の建て直しを命じられます。
恩田民親は正義を政治の基本とし、倹約を徹底させ、納税法の改正、荒地の開墾、養蚕などで殖産興業を図り藩政の改革を成功させました。
また、庶民の楽しみとして詩歌・音曲など芸能も奨励し民生の安定にも尽力し、その業績は「日暮硯」(ひぐらしすずり)の書により全国的に有名となります。
松代町の名所旧跡を簡単に見物し、5km程の場所に聳える霊峰“皆神山”へ・・・。
稲刈りの終わった田畑の正面が皆神山、右の尖った山はノロシ山。
近年、皆神山は世界最古にして最大のピラミッドとして巷に喧伝されている標高659mの独峰。
近年では1965~71年にかけて頻発した松代群発地震の震源地として、当時は有名になりました。
30~35万年前に粘性の高い安山岩の噴出で盛り上った溶岩ドームの里山。
第二次大戦末期に本土決戦のために皆神山と隣接する象山や舞鶴山には皇室や政府・大本営が移転避難する地下施設として、総延長約10kmものトンネルが掘られ、幾多の朝鮮人たちが過酷な掘削作業のために殺された霊山でもあります。
その昔、皆神山は群神山とか水上山とか呼ばれていましたが、江戸時代の慶長年間から今の皆神山に名が統一されたそうです。
皆神山中腹の道路脇にある天照大神を祭る“岩戸神社石室”に立ち寄りました。
円墳形式の石室で「岩戸神社 皆神山ピラミッドの入口」などと書かれた古びた看板が立てられていました。
皆神山ピラミッドの玄関口、薄暗く神秘的な内部に潜入します。
内部は大きな積み石に囲まれた石室(玄室)。一番奥には天照大神を祭った簡素な祭壇が置かれていますが、古代この地方を支配した権力者の古墳かと思われます。
皆神山ピラミッドへの扉はいくら探せど見つかりませんでした・・・残念。
岩戸神社石室から更に上ると「皆神山」と山号が書かれた扁額が掲げられた立派な木造の山門に到着、その右横に無料P場あり。
山門の右前にはとって付けた様な「皆神神社」と刻まれた石標柱。
山門には仁王様ならぬ随身像が有りましたから神社の楼門(随身門)なのでしょうか?
山門(楼門)をくぐると参道の正面に仏教寺院の本堂が見えてきます。
でも、内部には「侍従大神」と額が掲げられ神社の拝殿様式です。
建物は全てお寺形式、内部は神社形式、何でもありの神仏習合の見本を垣間見るようです。
歴史を辿ると奈良時代の養老2年(718年)に出速雄神社を勧進し、後に仏教が広まると皆神山大日寺と仏教寺院となり、明治時代に神仏分離令で再び神社になった目まぐるしい社寺なのです。
この本堂形式の建物は昔は侍従坊と呼ばれた寺院で侍従大神と神社名に改称したのです。
侍従大神は「安産・子育て・長寿・火防の神様」として尊崇されています。
皆神神社の絵馬は定番の学業の神様・菅原道真公。
御璽札や御朱印など霊力ありそうな紙札も販売中。
侍従大神を祭る拝殿から杉林の奥に進むと小じんまりとした御社が・・・。
この御社は熊野出速雄神社(くまのいづはやおじんじゃ)の本殿と云い、最初に勧進した出速雄命を祭る社(やしろ)です。
境内の至る所に摂社・末社が祭られ全てに手を合わせる時間がありません。
更に登ると、何故か出口王仁三郎の筆になる「地質学上 世界の中心山脈の十字形せる 珍の神山 聖地に些しも違はざる 尊き神山 皆神の山」と彫られた石碑が置かれていました。
出口王仁三郎は確か京都・綾部市に本部を置く大本教の二代目教祖で戦前には大本教を日本有数の教団に育て上げますが、関東大震災や大東亜戦争の敗戦など予言し、不敬罪や治安維持法などで軍部と警察により大弾圧され壊滅寸前の憂き目に会った大本教の傑物教祖でしたが、この皆神山に登り神の啓示を授かったのでしょうか・・・。
なを、戦後有名になった新興宗教の多くは大本教から分派したのです。
皆神山山頂付近にも小さな祠(ほこら)が鎮座しています。
近づいて見ると覆屋で囲まれた小さな石造りの社(やしろ)でした。
この御社には名前などの額はありません。地図上では浅間神社と記されていましたが、熊野出速雄神社の奥社かも・・・。
その奥社裏を覗くとそこにはゴルフコースが・・・。
神社裏の山頂一帯は芝生が敷き詰められた皆神山ゴルフコースだったのです。
皆神神社楼門横にひっそりと佇む池は天然記念物“クロサンショウウオ”の産卵地とか、数少ない希少生物は大切に・・・。
山頂近くに水の湧き出る池があるとは摩訶不思議?
皆神神社とはこの山に八百万の神々が集う聖地として名付けられたそうです。
暮れなずむ松代町を眼下にして皆神山を下り、高速道で前橋市への帰路を急ぎました。
2010 11 26(金)記。 前橋市 最高気温18.0℃
おまけコーナー。
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