2010 04 09(金)
諏訪大社下社の御柱祭見物も一応全て終わり、今回は下社春宮の境内を散策します。
前回掲載した下馬橋から北へ100mほどで春宮の大鳥居が見られます。
この鳥居は御影石製で、江戸時代初期の万治3年頃(1660年)に建立されたそうです。
鳥居を入ると奉・献の狛犬(こまいぬ)が参道の左右に控え・・・その後ろには諏訪地方の銘酒が行儀良く並べられていました。
きっと酒好きの狛犬なのでしょうね?
参道を進むと正面に大きな注連縄(しめなわ)を架けた舞殿(神楽殿)、拝殿や本殿は見えません。
右隅に立っている柱は6年前に建てられた春宮一之御柱。
春宮境内には御柱木落としの祭り関係者が打合せを兼ねて参拝中です。
境内右手の春宮木落し坂の下に巨大な杉が・・・上部が二本に分かれ根元では一本になった杉の木で「結びの杉」と呼ばれ、縁結びに効くと親しまれています。
舞殿の真後ろに三楼建ての立派な社殿が建っていました。
この建物が御幣を奉ずる幣殿と参拝時に昇殿する拝殿を併せ持った形式の幣拝殿(へいはいでん)です。
幣拝殿前で御柱祭の氏子衆が木落としの無事終了を報告に参拝中。(画像は魚眼風。)
2010年の干支は寅、今年は御柱祭が挙行される寅年ですから諏訪大社の絵馬も御柱絵馬でした。(御柱祭は寅と申の干支年に行われる式年祭。)
春宮幣拝の殿軒下の至る所に素晴らしい彫刻が施されています。
匠の手になる技法で彫られた精緻な彫刻芸術にはただ驚くばかりです。
社殿中央に幣拝殿、廊殿を両翼に広げた形の左右の片拝殿は共に国の重要文化財に指定されています。
この美しく伸びやかな社殿は安永9年(1780年)地元の名工・柴宮長左衛門により建立されました。
春宮幣拝殿前の左右に一之御柱と二之御柱(子供の後ろ)が建っています。
春宮の境内に建つ摂社・末社など名所を見物した後、もう一つの名所を訪ねて境内左横を流れる砥川の中洲に向かいました。
砥川沿いの細道に大きな石碑が・・「万治の石仏」と味わいある書体は芸術家・岡本太郎氏の揮毫によるものです。
清流の砥川を見ていると川岸で不審な動き、学生がまさに砥川に身を躍(おど)らせて・・・!!、
早速、その投身自殺の一瞬をカメラでGET!!
その後、学生の生命は・・・・・? 軽く水路を飛越え無事に着地、学生の遊びに付合った私がバカでした!
もう少し先に歩を進めると目的の名所「万治の石仏」があります。
砥川の中央にある中州は浮島と呼ばれ、春宮の末社の浮島社が奥に祭られています。
土の温もりが感じられる小道を辿ると直に石仏に到着。
石仏のユニークなお姿にちょっとビックリ!
こんな格好の石仏は見た事がありません・・・岡本太郎画伯が絶賛したのもうなずけます。
ちょこっとアンバランスな頭部いただく万治の石仏の周囲を沢山の人達がくるくると廻っていました。
この「万治の石仏」を三回廻ると素晴らしい御利益が得られるのだそうです。
「よろず、おさまりますように~」「よろず病が治りますように~」「よろず良縁に恵まれますように~」とか「よろず」を枕言葉に唱えながら、皆さんわりと真剣に石仏を廻っていました。
近所の方にお聞きしたら「よろず~、なんて以前は言わなかった。」そうで、町おこしの為に下諏訪商工会議所が作り出したヤラセ言葉との話でした。
でも、この枕詞が長期に唱えられると、「昔からの言い伝えによると、よろずは・・・」なんて伝説話になるかもね。
万治の石仏伝説では「春宮の石鳥居を作る時、この石を使おうと石工が鑿(ニミ)を入れたところ、そこから血が流れ出たので石工達は作業を中止しました。
その夜、石工の夢枕に近くの上原山に良い石材があると御告げあり、そちらの石で春宮の石鳥居を建立し、石工たちはこの石に阿弥陀如来を刻み万治3年(1660年)に石仏として完成させたのです」。
以来、この石仏は地名から地元の人に「「浮島の阿弥陀さま」と崇拝されようになりましたが、いつの頃からか刻まれた年号の「万治の石仏」と呼ばれて親しまれています。、
近年、TVの「みのもんたの 朝ズバ!」などマスコミにも取り上げられ、お参りする善男善女が引きも切りません。
確かに、御利益を求めて御参りする人が次々に来て石仏をくるくると廻る様子も面白いものでした。
砥川沿いの畑の中に穏やかでマンガチックなお姿で佇む「万治の石仏」を見ていると何故か心癒される感じがしてきますから・・・不思議です。
諏訪地へお出かけの際は、霊験新たかな「万治の石仏」と諏訪大社を訪ねられては如何でしょうか・・・。
2010 06 04(金)記。 前橋市 最高気温28.8℃
おまけコーナー。
時空 [じくう: JIKUU]