12月14日 赤穂義士の吉良邸討ち入りの日。
言わずと知れたと知れた、忠臣蔵で名高い大石内蔵助・浅野家臣ご一党の仇討ちの日です。(元禄15年[1703年]12月14日は太陰暦ですから現在の1月30日。)
歌舞伎や映画や本などで日本人なら誰でもお馴染みの超有名な実話ですね。
その後の日本人の精神構造に多大な影響を与えた江戸時代最大級の事件。
討ち入りを果たした後、全員が切腹して亡骸は主君・浅野内匠頭の墓のある泉岳寺へ葬られて忠臣蔵のお話も大概はここで終わります。
その後の逸話の一つで、討ち入りに参加した浅野藩士の家来(中間)で元助という小者がおりました。
その下僕・元助が義士切腹後、健気にも赤穂四十七士の供養の為、山深い山中に赤穂義士石像碑を刻んで建てたのです。
早速、元助建立の赤穂義士の石像群を訪ねることに致しました。
場所は群馬県安中市の榛名山中腹。
長野新幹線の安中榛名駅から車で8分ほどの杉林の中です。
カーナビ頼りに車を走らせますが、住所不定で田舎の山中のこと結構道に迷いました。
ナントか「赤穂四十七義士石像」の木製標識に到着。 傍らに10台程の無人駐車場あり。
真新しい木の標識から杉林の小径を辿ります。(軽いピクニック気分。)
5~6分も歩くと大きな崖下に石像がチラホラ・・・。
これが元助の建てた石像群・・・と思いましたが、別の僧侶が造った石仏達でした。
その石仏群の横には大きな洞窟があり、ここで居住しながら僧が修行していたそうです。
その場所から更に3分ほど進むと、突然眼前が明るく開け断崖絶壁の真下に出ました。
榛名山の一つの岩峰・岩戸山の絶壁下の窪地に寄り添うように赤穂義士四十七士石像達が佇んでいました。
浅野内匠頭夫妻もまじえて四十九の石像が左右に長く一列になっている光景は壮観です。(盗難防止用のネットが少し興醒め。)
現代でも難儀な場所なのに、江戸時代にこの様な山腹の崖下の場所に・・・。
この遺跡は安中市が大切に管理しているのです。
義士石像の中央にはお地蔵様が安置され、49名を見守り加護しているようでした。
一つ一つの石像には赤穂義士の名前が付いているのですが、石像の風化で判明出来ません。
小高い場所から見た石像達は絶壁に押しつぶされそうな感じさえ受けます。
49体すべてを造るなんて、建立者の元助はきっと真面目で律儀な性格の人だったのでしょうね・・・。
元助はこの近くの下秋間(安中市)の農家の生まれ、幼い頃母を失い14歳で家出し伊勢参りに出かけましたが、お金に窮して乞食になる寸前に、縁あって赤穂義士の一人・片岡源五右衛門に助けられて江戸屋敷の住込み中間(ちゅうげん)になりました。
赤穂城明け渡しの後も浪人となった片岡に仕えますが、討ち入りの同行は許されずに四十七義士切腹の後、仏門に帰依して故郷に帰り名を音外坊と改めます。
近くの久保観音堂に二十数年間こもりながら、各地で托鉢・布施集めして石像建立の資金を集めました。
秋間の石工に彫らせた石像を一体づつ岩戸山岩壁まで担ぎ上げ全ての石像が完成するまで20数年の歳月を要したとの事。
元助(音外坊)は榛名山中腹の岩戸山岩壁に浅野内匠頭夫妻をはじめ赤穂義士石像49体を安置し義士の壮挙をたたえ丁重に祀った後、秋間の地を去ったと云われます。
その後、元助は諸国を行脚巡歴したのち向西坊と改名し、終の棲家を千葉の外房州和田浦(南房総市和田町)に定めます。
和田浦山中の黒滝瀑布の近くに岩窟(向西坊入定窟)を穿ち石蓋で閉じ入定して義士の冥福と火災封じを祈りつつ断食・絶食に入り53才の生涯を閉じました。(1732年・享保17年9月30日没。即身仏となる。)
向西坊は入定の時、「予は念ずれば火難・諸難を防ぐ。」と言い残したと言われ、外房州では“火伏せの仏様”として今でも厚い信仰と崇拝を集めています。
この元助建立石像群は忘れ去られて荒廃していましたが、明治期になって地元有力者の戸塚信太郎・盛太郎親子の尽力で発掘・保存されました。
現在は戸塚親子の志を受け継いだ「秋間史蹟保存会」(戸塚時太郎会長)によって修復・保存が行われています。
数々ある赤穂義士番外編の一つでした。 忠僕・元助のご冥福を・・・合掌。
(画像は2007年春吉日撮影。)
2007 12 14(金)記。 前橋市 時々 最高気温11℃。