昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

昭和のマロの考察(5)言葉(コミュニケーション)5

2010-07-26 05:11:19 | 昭和のマロの考察
 韓国人の呉善花は、日本語は、短い言葉のなかでたくさんの内容が語られ、しかも話す相手によって、話される場によって意味が違ってくるので、まともに渡り合おうとすると疲れる言語だと言う。

 日本語の使役の用法でさらに重要なものが、「~させて下さい」「~させていただきます」という言葉遣いだ。こうした表現も韓国語にはない。この言葉遣いからは、「自分の行動は相手にお願いして行うべきものだ」という、無意識の発想を受け取ることができる。
 たとえば「失礼させて下さい」と言って上着を脱げば、「上着を脱ぐことは礼を失したことではあるが、どうか認めてほしい」と、相手にお願いをして許しを乞う言葉である。
 また、あるとき、行きつけの美容院へ行くと、「今日は休ませていただきます」と張り紙があった。

 私は日本語の意味を反芻しながら、自分勝手に休んでおきながら、なんでいまさらお客さまにお願いをするのか、どうにも解釈に苦しんだこともあった。


 また、彼女はこんなことも言っている。

 韓国では大統領が演説を終えるときに「これで終わります」と言うのだが、テレビを見ていて、日本の首相が「これで終わらせていただきます」と言ったのにはびっくりした。いやしくも一国の首相の言葉である。なぜ国民に演説を終えることをお願いするのか、もっと威厳をもってしかるべきではないか、なんと弱々しいのだろう思ったものである。 

 そして、こうした言葉遣いをしている限り、日本人から謙遜の意識も姿勢も消えることがなく、したがって、トゲのない柔らかな感覚をもって人に接することができるのでは、と言っている。
 しかし、日本人と結婚した韓国の女は、「国際結婚は3年間はうまくいくが、3年過ぎえもうまくいく人は少ない」とよく言う。日本語を覚えていくにしたがって、あたかも自分が罪人でもあるように、常に「~させて欲しい」とへりくだって、自分に対してだけでなく、あちこちにお願いばかりしている夫を見るにつけ、しだいに魅力をうすれさせていくことが多い。相手にお願いを立てて頭をぺこぺこさせている様子は韓国人にとっては無能力そのものに映ってしまうのだそうだ。

 次回は、彼女が韓国と日本の文化の違いに触れながら<日本語は人格を変える>恐ろしい言語だと述べているのをお伝えしたい。

 ─続く─