昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

昭和のマロの考察(6)言葉(コミュニケーション)6

2010-07-27 05:51:35 | 昭和のマロの考察
 呉善花さんは日本に来て、物質的にも、感覚的にも、できるだけ日本式の生活を取り入れるようにして、ほとんどのものに抵抗感がなくなったが、しかし、<いけばな>だけはどうしても理解できなかったと言う。

 韓国の<いけばな>は、強く派手な色の花を使い、花の存在をはっきりさせるようにして、いけるというよりは器に盛るのである。・・・日本のいけばなの美は、私にとっては理解を絶するものだった。現代花はそれほどではないものの、伝統いけばなについては、まず、はっきりとした色の花を使った作品がほとんど見られない。多くがあいまいな中間色の花が用いられ、韓国的なセンスから言えば、いかに目立たないかに工夫を凝らしたとも言いたくなるような、地味な作品ばかりなのである。

 
 そんな彼女にも5年ほど経って変化が生じた。

 あるとき、いけばなの美はその奥行きにあると感じ、そこから私の前に突然美があふれ出してきたのである。清楚なる存在へのいとおしさ、静と動とのバランスがかすかに崩れた構成の美、生の花の由来を忘れさせてくれるもうひとつの自然世界、たおやか・しなやか・すずし・侘びし・つつまし、など、やまと言葉でなくては形容不可能な古趣の味。
 
 そして手前勝手な言い方になるが、伝統いけばなの美が日本を理解する最後の難関として私に残ったのは、その美が日本人の意識の相当に深いところで感じられているからであるような気がする。と結んでいる。

 韓国の伝統文化を翻って見るに、最も欠けているのが無形文化ではないかと彼女は指摘している。

 李氏朝鮮以来、文化を担うものは、存在感のはっきりした、目に見える物質・肉体・権力──それ以外にはなかった。物質としての形の美あってこその文化であり、精神性はあくまでもそれに付随する二次的なものでしかなかった。
 日本では、物質や肉体はあくまで精神を宿らせる、仮の存在とみなされているようだ。 たとえば、あの弱々しい天皇がなぜ日本の象徴なのだろうかと、韓国にいる間はずっと疑問に思っていた。
 

 それが、目に見える存在としての天皇ではなく、日本人の精神文化に深く根ざしたところに由来をもつ、ある精神性の象徴としての天皇だということを知ったのは驚きだった。 韓国の大統領は精神的な象徴ではまったくなく、はっきりと権力の象徴である。韓国の大統領はみな軍人出身、陸軍士官学校出身である。
 古代以来綿々と天皇位が継承されてきたことも驚異的なことだが、さらに恐ろしいのは日本語である。


 ─続く─