昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

昭和のマロの考察(4)言葉(コミュニケーション)4

2010-07-25 06:04:23 | 昭和のマロの考察
 韓国人の呉善花さんの指摘はさらに鋭く、日本語の異質性を通じて我々日本人の特質を抉り出す。

 表面的にはきわめて欧米人と韓国人は互いの理解がしやすいのである。まず、第一に、欧米人も韓国人も言いたいことをはっきりと言う。
 これで、ともかくも、相手が何を考えているかを知ることができ、一応のコミュニケーションが成立する。
 ところが日本人はそうはいかない。
 たとえば自宅に訪ねてきた日本人に「コーヒーにしますか? それともお茶にしますか?」と聞くと、「どちらでもいいです」という人が多い。
 これがわからない。何か食事をとろうと、「何がいいですか?」と聞くと、「何でもいいです」と言う。しかたがないので「お寿司にしますか? 丼ものにしますか?」と聞くと、またまた「どちらでもけっこうです」となる。
 これであっけにとられる外国人が多いのだ。・・・

 
 どうやら彼女は日本人のコミュニケーションの優柔不断な態度にイライラしているようだ。そしてさらに日本語の異質性を指摘する。

 ととえば、「どろぼうに入られた」という遣い方。

 そもそも韓国語には受身の発想がないから、このへんが日本語の勉強ではとくに難しい。韓国では「どろぼうが私の家に入った」と、どろぼうが主語になる。・・・  
 ~に言われた、~に逃げられた、などの<~された>という発想すら理解するのが難しいのだから、~に取り残された、~に買わされた、などの<~させられた>という使役の受身になると、もはや、なんのことやらさっぱりわからなくなる。
 しかも、これがわからなくては日本語がほとんどわからないと同じことになるから、これらの用法を理解することが、日本語を理解する上でポイントとなる。
 私もはじめのうちは、なぜわざわざ受身にしなくてはならないのか、どんな必要があるのかと考えて壁にぶつかっていた。そしてあるとき、受身形にすれば常に主語が<私>になるということの意味に気がついた。
 
「私はどろぼうに入られた」
 ・・・主語を書き加えてみることで、私はようやく、「どろぼうが悪い」ということよりも「責任が自分にあること」を問題にしようとする発想がそこに潜んでいることを知ったのである。 


 韓国では先ず<どろぼう>の責任を問うている。
 単に言語表現の形式の違いだけではなく、人々の無意識を形成する発想の違いであることに彼女は気づいたのだ。
 次回も彼女の<なるほど!と思う>興味深い指摘を見てみたい。

 ─続く─