昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

昭和のマロの考察(3)言葉(コミュニケーション)3

2010-07-24 05:15:43 | 昭和のマロの考察
 我々日本人の普通の言葉遣いも、外人から見ると理解に苦しむものが多いようだ。
 言語学者の金田一春彦さんが例を挙げている。

 アメリカ人に日本語を教えている時にこんな質問が出た。
 昨日、本屋へ行って「漱石の<坊ちゃん>はありますか?」と聞いたら「ございませんでした」と言われた。
 <坊ちゃん>がないのは現在の話です。それなら「ございません」というのが正しいので「ございませんでした」は間違いではないかと言うのである。
 理屈で言えばたしかにそうだ。
 しかし、もし本屋が「ございません」と言ったら、言われたお客はあまりいい感じをもたないだろう。「ございませんでした」と言う方がいい感じをもつ。何故だろう。
 ここに大切な問題がある。本屋さんはこういう気持ちなのだ。
「私のことろでは当然<坊ちゃん>を用意しておくべきでありました。しかし、不注意で用意してございませんでした、申し訳ありません」と言って自分の不注意を詫びている。その気持ちがこの「でした」に現れており、それをお客は汲み取るのである。

 日本人は短く言おうとする一方、自分を責めて謝ろうとする。それは常に相手を慮る日本人の優しさの現われではないかと思う。

 お手伝いさんが台所でコップをすべり落として、コップが割れてしまったとする。
 日本人はこのような時「私はコップを割りました」と言う。聞けばアメリカ人やヨーロッパ人は「コップが割れたよ」と言うそうだ。
 もし「私がコップを割った」と言うならばそれは、コップを壁に叩きつけたか、トンカチか何かで叩いたような場合だそうだ。
「私がコップを割りました」というような言い方をするのは、日本人にはごく普通の言い方ではあるが、欧米人には思いもよらない言葉遣いかもしれない。
 
 これは日本人の責任感を感じさせる。自分が不注意だったからコップが割れたので、割れた原因は自分にある。そういう意味では自分が壁に叩きつけたりしたのと同じである。そう思って「私が割りました」と言うのだ。
 この簡潔な言い方の中に日本人の素晴らしい道義感が感じられるではないか。 


 これをさらに裏付けるケースは次回に。

 ─続く─