昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

昭和のマロの考察(7)言葉(コミュニケーション)7

2010-07-28 05:38:37 | 昭和のマロの考察
 <日本語は人格を変える言語だ>と呉善花さんは言う。
 

 このことに気づいている人は韓国人でも日本人でもほんとうに少ないと思う。
 人格と言うと気色ばむ人もいるかもしれないが、実際的にはその人の気分を変えるのである。そして、この気分のなかに<日本>がいっぱいつまっているのである。それを知らなかった私は、確実に<罠>にはまってしまったように思う。これは実に恐ろしいことである。
 韓国語にはそうした<危険性>はない。テクニックとして覚える韓国語で充分適用させることができるからである。しかし、日本語は、文法や言葉の意味をいくら覚えても上達することがない。ほんとうに上達しようと思えば、意味ではなく<言わんとするところ>を悟るセンスが必要となる。記号としての言葉ではなく、そのもうひとつ奥にあるとでも言うべき、ある種の沈黙に触れなくてはならないのだ。
 そのへんの日本語のあり方に気づいて突っ込んで行こうとすれば、これは日本的な非論理思考そのものをたどることになる。
 だから、どうしても理論ではなく、話す相手から伝わってくる気分の流れに乗せられて行く先に、<わかる>という体験をするしかなくなる。
 つまり自分の気分を相手の気分に変えなくては、<言わんとするところ>がわからないのである。


 そして彼女は断言する。
 この<わかる>体験がある程度習慣となったときに、人はきっと日本人になるのだ。その寸前で立ち止まることが果たしてできるものなのかどうか──これが日本語の恐ろしさである。 
 日本語はおそらく、想像もつかない歴史的な重層構造、民族的な多重構造を入り組ませて形づくられてきた言語である。直感的にそう思うにすぎないのだが、日本列島の地理的な位置と歴史的な連続性から言っても、充分そのように想像できるのではないだろうか。

 以上、呉善花<スカートの風>から。

 ─続く─