昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

言葉(29)子どもと大人

2016-04-21 05:22:21 | 言葉
 原野さんというボクより一回り上の大先輩がいた。
 学生の頃は俳優に誘われたほどのいい男で、ジジイになってもセクシーで魅力的な先輩だった。 
 80歳近かったと思うが、彼は神奈川県のゴルフ場でゴルフをやり、その後、自分で車を運転して三鷹まで来て麻雀をやり、夜遅く鎌倉の自宅へ帰っていったほどの密度の高い生活をしていた。
 その彼から「これ面白いぞ。読め!」と渡されたのがリリー・フランキーの「東京タワー」だった。
 そのリリーが書いている。
 
 リリーの顔って、脱力して見える。
 まさに悟りを開いた顔だね。

 子どもの一日、一年は濃密だ。点と点の隙間には、さらに無数の点がぎっちりと詰まり、密度の高い、正常な時間が正しい速さで進んでいる。それは、子どもは順応性が高く、後悔を知らない生活を送っているからである。過ぎたるは残酷なまでに切り捨て、日々訪れる輝きや変化に、節操がないほど勇気をもって進み、変わっていく。「何となく」時が過ぎることは彼らにはない。 

 
 大人の一日、一年は淡白である。単線の線路のように前後しながら、突き出されるように流されて進む。前進なのか、後退なのかも不明なまま。スローモーションを早送りするような時間が、ダリの描く時計のように動く。
 順応性は低く、振り返りながら、過去を捨てきれず、輝きを見出す瞳は曇り、変化は好まず、立ち止まり、変わり映えがしない。
 ただ「なんとなく」時が過ぎてゆく。
 自分の人生の予想できる、未来と過去の分量。
 未来の方が自分の人生にとって重たい人種と、もはや過ぎ去ったことの方が重たい人種と。
 その二種類の人種がたとえ、同じ環境で、同じ想いを抱えていても、そこには明らかに違う時間が流れ、違う考えが生まれる。


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