人は時として、ある日予感したことを現実のものとして目にすると、その善悪を判断することなく、これを自らの運命としてやすやすと受け入れ、邪悪な神の投げ放った網の中へ躊躇なく入っていくものだ。
奥さんは、当然の成り行きのようにボクを従えて歩き出した。
綱島街道へ出ると、中華店の前にタクシーが駐車していた。
奥さんはつかつかと近寄ると、ドア窓を叩いた。
「は?」
運転手は窓を開け顔を出した。
口には楊枝がくわえられている。
「ねっ、浅草まで行ってくれへん?」
運転手はあわててドアを開け、車を降りて怪訝な顔をして奥さんを見つめた。
いつの間にか楊枝は口から外されていた。
ボクと同様、関西弁にも違和感を持ったようだが、なんといってもめったにない遠距離客だ。
しかもこの辺では見かけないお金持ち風のお客だ。
「浅草まで?」
運転手は姿勢を直立不動に立て直して尋ねた。
「そうよ。浅草のおおとり神社まで乗っけてってくれない?」
今度は、奥さんは東京弁を使った。
運転手ばかりではない、ボクも思わず目を見開いた。
・・・ここから浅草まで何キロあるんだ?・・・
「わたし、何回も電車を乗り継いで行くなんてイヤなの・・・」
ボクの懸念を読み取ったかのように奥さんはボクの顔を見ながら言った。
奥さんは考えていたのだ。
・・・ここから元住吉駅まで歩く?和服姿で。そこから電車で行くとなると、渋谷駅で人混みにもまれて、特にあそこの乗り換えがイヤなのね。
地下鉄に乗り換えるのに階段を上がるなんてバカみたい。
二人で行くんだからタクシーで直行した方がいいにきまっているじゃない・・・。
奥さんはうやうやしく後部ドアを開けた運転手に導かれてさっさとタクシーに乗り込んだ。
引きこまれるようにあわててボクも乗り込んだら、不思議な香りが鼻についた。
・・・シャネルファイブというやつか・・・
マリリンモンローで有名な香水だがボクの知っている香水はこれだけだ。
離れて座ったつもりだが、いつの間にか奥さんはボクとの距離を縮めてくる。
女の肌のぬくもりが直接伝わって来て、ボクの心臓をわしづかみにし、ドキドキと動かした。
ボクは生まれて初めて<女>を意識した。
─続く─
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