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昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

金沢便り(23)雪の兼六園と加賀鳶

2011-01-15 05:07:42 | 金沢便り
 このところ、東京は好天続きで乾燥肌の心配のあるぼくの部屋には、クマのプーさんや、三鷹高校が全国大会で活躍したときの、そして石川遼くんの、濡らしたタオルがぶら下がっている。
「金沢から東京へ移転して一番良かったことは、冬でも布団が干せること」
 雪除けや屋根の雪降ろしで雪に悩まされた母がよく言っていた。
 ぼくにとっては、手作りの竹スキーで坂を滑ったことや、雪降ろしで馬の背のようになった商店街の雪道を歩いたり、雪は懐かしい想い出である。

 そんな金沢の山ちゃんから<金沢フォト便り>が届いた。
 
 <兼六園 雪景色>

 
 雪が降った!雪が積もった!私たち雪吊りがあるから大丈夫なの 
 私 寒いから 炬燵にするは
 
 僕 外套着てるから 平気なんだよ 
 やっぱり お天道さん ありがたいことです
 ことじ灯篭 木の枝の雪融けです


 <加賀鳶>
三代将軍の頃から 江戸の町に消火隊が組織された
 加賀藩は大名屋敷の消火隊として<加賀鳶>と呼ばれた
 明治時代になって 江戸で磨かれた勇壮果敢な精神と梯子登りに見る妙技と伝統を金沢へ引き継いだ
 金澤城に菱櫓・五十間長屋・続櫓が復元されてから 従来の犀川河畔から金澤城内で行われるようになった 梯子登りの演技は27種類、中でも梯子の上で宙吊りの<鶯の谷渡り>の妙技に観光客・市民は拍手喝采


 
 金澤城菱櫓と纏
 
 出初式 梯子登り エイヤの掛け声
 
 鶯の谷渡りの妙技
 
 出初式 放水 勇壮な纏 

金沢便り(22)<心の道>散策

2010-12-31 06:41:38 | 金沢便り
 今年の最後は金沢の山ちゃんのフォト便りで締めましょう。

 以下の作品はいずれもNHKのビデオ便りで放映されました。

 ─ <心の道>散策・・・

 江戸藩政時代初期に金澤城の西の寺町台地と東の卯辰山山麓に寺院を集めて町割りを行ったとされている。
 卯辰山山麓には五十余の寺院が点在し、寺院から寺院を巡る道筋を<心の道>と称している。

 
 <ウオーキングで静明寺へ>

 静明寺は文豪徳田秋声家の菩提寺にもなっており、小説にも登場しています。  
   <徳田秋声碑>

 墓地には古くからのものが多いのですが、現代のユニークな墓石もあって、散策する人も足を止めている。
 <ユニークな墓石>

 (寺歴によると歴史は古く)静明寺は山号を守長山と称し、法華宗陣門派に属する古刹である。貞亨二年の由来書によれば、「越中高岡本陽寺は加賀藩主前田利長の息女お満の菩提所なるにより、慶長十七年住僧日術は特に利長に請いて金沢の八坂松山寺と鶴林寺の間に寺地を拝領して本寺を建立したるもので・・・」云々とある。
 後年、その布施に一握りの砂を得て川原を埋め立て、享保六年に本寺を再建したものである。以って日修上人を中興の開山とする。


  <静明寺の森> 浅野川左岸 天神橋上流

 ─ 善福寺 ─

江戸時代の城下町金沢はお城の西側に際川、東側に浅野川が流れ、天然の要塞となって、さらに際川の外側の寺町台地と浅野川の外側の卯辰山・東山に寺院群を配し、防衛配慮した。
 加賀藩は、有力寺院を宗派地域別に<触頭>という役職に任命し寺院僧侶の取り締まりに当たらせた。当寺は専光寺(本町)・瑞泉寺(白菊町)と並び金沢三ヶ寺と称された由来がある。

 
  <善福寺 土蔵造り本堂>

  <本堂の中>

現存の土蔵造り御堂としては全国最大級規模。火災により現建物は寛政五年(1793)再建 開創 文安二年(1445年)開基 蓮康僧都

 
  <キリシタン灯篭>

関が原の戦いに敗れた宇喜多秀家の妻豪姫が実家前田家に帰って生まれたふり姫が善福寺住職に配嫁されたかかわりからか、庭に一基ある棹の下部に浮き彫りされた像がキリストだという。真相は不明である。

  

金沢便り(21)金澤城石垣

2010-12-28 04:57:27 | 金沢便り
 昨日エッセイで<強い、考える子ども>を育てたいと言った。
 このことに関連して、アメリカ人であるロバート・キヨサキ氏が興味深いことを言っている。
 私が幼かった頃、父は私たち子どもによく、昔、日本人が信じていたという<三つの力>の話をしてくれた。それは<刀と玉と鏡の力>だ。

 詳しいことは次回からにゆずるが、日本の古くからの言い伝えによれば、鏡は己を知ることの力を象徴していて、三つのうちで最も大きな力を持っているというのだ。

 久しぶりで金沢の山ちゃんから<金沢フォト便り>が届いたので紹介する。
 この作品はNHK金沢で放映されたそうだ。

 ─ 金澤城石垣と戸室石 ─

 金澤城石垣は文禄年間頃(1592~1596年)前田利家入城の頃から本格的に普請された。
 
 <金澤城・橋爪門>

 その後現代に至る間には幾多の天災・火災に遭い、その都度古いものを遺しながら新工法を取り入れ修復されたので<石垣の博物館>といわれている。

 
 <戸室石・原石置き場>

 石垣の石は金沢近郊の戸室山(40~60万年前噴火・爆発・溶岩流出)で採掘された戸室石が多く使われ、石曳きの道があったことから<石引町>の地名も残っている。
 
 <赤青戸室石>

 輝石角閃石安山岩に分類される戸室石は写真のように青・赤と室が水に濡れると色変化し、細工しやすいことから美術品や城門の目立つ所に利用されている。
 
 <河北門>

 河北門は金澤城で最大規模のものであったのを平成22年復元したものですが、ここでも最近採掘した戸室石が使われている。


金沢便り(20)武士の家計簿

2010-12-13 06:15:07 | 金沢便り
 <金沢便り>と言っても、いつものように金沢の山ちゃんから送られてきたものではない。
 金沢を舞台にした映画<武士の家計簿>が上映中という新聞記事を見て、こちらから懐かしんで見に出かけた。
 中学の同窓生から毎月送られてくる地方月刊雑誌<アクタス>に、金沢でロケ中と載っていたので記憶にとどめておいたのだ。
 (その経緯は<金沢便り>15に書いている)

 朝、武家屋敷の門前、主人公直之(堺雅人)は、父親信之(中村雅俊)とともに、母親お常(松坂慶子)と嫁お駒(仲間由紀恵)からお弁当を手渡され登城するシーン。
 ああ、懐かしい長土塀の武家屋敷だ。

 ぼくが、中学生まで過ごした家のすぐ近くだ。静かな佇まいでどんな人が住んでいるのだろうと覗いてみたりしたことを思い出す。

 城内の大きな部屋で多数の武士たちが机の前に正座して、帳簿を見ながらそろばんを繰っている。

 直之はそのうちの一人で、父親に幼い時からそろばんを仕込まれ、猪山家代々の御算用者として加賀藩の財政処理に携わっている。
 彼は<そろばん侍>と言われたほどのずぬけた数学感覚を持ち、御蔵米の勘定役として任命されたとき、飢餓で苦しむ農民たちが受けた<お救い米>の量と、出荷した量との数字が合わないことを見抜き独自で調査、城の役人たちの不正事実を知る。

 米の横流し、経理の不正を知った直之は上司から疎まれ、能登への左遷を言い渡される。
 しかし、不正に気づいた農民たちの「ひもじいよ!米よこせ!」という騒動が発端となり、悪事は露見、信之は一転して殿から異例の昇進を言い渡される。

 ところが身分が高くなるにつれて出費が増える。そんな折、4歳の嫡男を内外にお披露目する<着袴の祝い>を前に、直之は家計が窮地に追い込まれていることを知る。すでに父信之が江戸詰めでかさねたぼう大な借金があったのだ。

「そろばんしか生きる術なく、不器用で出世も期待できない・・・それでもいいか」と問いかけ、「生きる術の中に私も加えてください」
 と嫁になってくれたお駒とともに知恵をしぼり、祝膳に欠かせない鯛の代わりに<絵鯛>を使う。
  

 恥さらしだと責める父母の前で、直之は<家計見直し計画>を宣言。
 世間の目を気にする父、愛用品を手放したくない母を「お家を潰すほうが恥じである」と説得、



家財道具一式の処分を決定、質素倹約し膨大な借金の返済に充てる。

 塗りの弁当箱は竹皮に、安く買い求めた1尾の鱈は、鱈汁、白子の酢醤油、昆布じめにと幾種ものおかずに。
 そんな猪山家の奮闘振りを見ていると、何かわが身につまされる思いがした。
 多分ぼくは、借金先送りの、のんきなとうさん信之役かなと・・・。

 直之役の堺雅人さんはインタビューに答えている。

 先の見えない時代に、侍として、家族の長として自らができることを考え、行動に責任を持つ姿はかっこいい。・・・
 金沢は、謙虚さと華やかさがバランスよく同居している街だと思う。
 その雰囲気が猪山家の面々の生き様からもにじみ出ている。
 今回の映画は、金沢を舞台としたからこそ、味わい深く仕上がったと感じている。



金沢便り(19)元祖園遊会

2010-08-08 09:58:30 | 金沢便り
 金沢の山ちゃんから<辻家庭園を舞台に元祖園遊会>というフォト便りをいただきました。
 この作品はNHK金沢で放映されたそうです。

 金澤の地形は河岸段丘から成り立っている。高台の寺町台地に崖地を利用した家屋と庭園があり、富士山の溶岩を運び入れたという庭石や瀧があって、金澤市の文化財に指定されています。
 加賀藩の元老横山家が明治後期から大正時代にかけて造築した別荘でした。
 
 由緒ある建物の座敷と庭を舞台に<民謡の夕べ>が行われ、出演者も観客もその情緒豊かさに酔いしれ、元祖園遊会の気分に浸っておりました。
 
  加賀サイサイ踊り
  越中おわら節
  崖地の瀧
  辻家庭園からの展望

 (金澤市寺町台地・法島街 辻家庭園にて)


 ぼくは高校まで金沢に住んでいたが、<辻家庭園>なるものをまったく知らなかった。
 今回、<辻家庭園>のHPに訪問してみた。

        

 加賀藩の家老として権勢を誇った横山家一門は、明治の廃藩置県を期に新規事業に活路を求め、鉱山事業で大成功を収めた。
 その全盛期(明治30年代後半)金沢城下指折りの景勝地としてて知られた寺町台地を買い上げ、造成したのがこの庭園で、当時は数万坪の規模だったそうだ。
 富士山の溶岩などをふんだんに使った大規模な土木工事を基礎に、巧みな自然描写で演出された回遊式庭園で、市内では他に類をみない近代の日本庭園としてたいへん貴重な名勝とされている。
 群青色の土壁など独特の意匠の住宅主屋と表門及び壁は大正中期の和風建築の特徴を色濃く残しており、登録有形文化財に指定されている。




金沢便り(18)金沢の風景

2010-05-20 05:37:08 | 金沢便り
 ・・・金沢の山ちゃんから、卯辰山から見晴らす金沢の風景が送られてきた。金沢もおふくろが存命のころだから、10年ほど行っとらん。ましてや卯辰山なんて子どものころ以来やから60年以上前のことだ。なつかしい。・・・

 

 お城から見ると<向山(むかいやま)>という<卯辰山>。江戸時代はお城が覗かれると、町民は入山禁止だった。
 この山のいくつかの展望台から<白山><立山>を望むことができるが、動物園があったこの見晴台からは金沢の地形がよく分かる。

 手前の<卯辰山>から<浅野川>を挟んで緑の帯が<小立野台地>そして<犀川>は見えないが奥の緑地が<寺町台地>その奥には<野田山>が見える典型的な<河岸段丘>の形成である。

 昔だったら覗いてはならない<金澤城・五十軒長屋>も樹木の間から見ることができる。
 見晴台右手の方は日本海だが、ここからは見えない。蓮如上人ほか幾多の銅像も建立されている。

 ・・・<日本海>に面する<金沢港>の写真も送られてきた・・・
 ここには親戚があって、戦時中ぼくひとり預けられた頃を思い出す。・・・

 

<北前船(きたまえぶね)>は江戸時代から明治時代にかけて、西廻(にしまわり)航路に就航した<廻船(かいせん>のこと。
 ここ当地・金沢にも<銭屋五兵衛>など船主・豪商の栄華を極めた歴史的建造物や遺品が残っている。
 今では大型産業機械や石油備蓄基地として市民の台所を潤している。
 
 歴史小径の散策や家族連れで釣りを楽しむ口径が微笑ましく、見る人も安らぎを覚える。
 

「この季節、大物が釣れないかなあ~」・・・女の人がひとり釣りしている・・・
 


 聞いてみると<稚鮎>釣りでした。・・・あ、<海月>だ・・・

金沢便り(17)浅野川の鯉流し

2010-05-06 04:49:24 | 金沢便り
 昨日は五月晴れの<こどもの日>でした。
 こどもの成長を願って全国各地で<鯉のぼり>が五月の空に颯爽と泳ぐ様が伝えられました。
 金沢の山ちゃんから、空ではなく、<川で泳ぐ鯉>(普通じゃん?)のフォトが送られてきました。

 <金沢・浅野川の鯉流し>
 

 子どもたちの<鯉は水に泳ぐもの>という発想から地元少年連盟の主催で行われて10年目になる。
 毎年5月3日には地元の子どもたちと世話役により、寄付で集まった300匹の鯉のぼりが水に泳ぐ。
 川に泳ぐ鯉のぼりは全国的にも珍しく地元民や観光客が大勢観に来る。
 地元中学校のブラスバンド演奏や児童・父兄の簡易食堂も出店して大いに賑わう。
 

 ・・・橋げたの吹流しも上から盛り上げる・・・
 

  一昨年の水害で今年は川底の浚渫も行われた。
 開始当初は生活ゴミが鯉の口の周りにいっぱいだったが、<川をきれいに>のPR効果も行き届いて、最近では鯉もきれいな水を吸い込んでいる。
 
   ─金沢・浅野川・梅の橋にて─

 ・・・<おまけ1・金沢の浅野川といえば加賀友禅流しを思い起こす・・・
 

 ・・・<おまけ2・京都だったかな?> 新婚さんの庭にバケツとかやかんとか、生活用品を近所の人が持ち寄ってポールに括りつけ、新婚生活を祝って立てる<幟立て>なんていうのもある・・・
 

金沢便り(16)金沢の水と七尾悠久のロマン

2010-05-02 07:17:37 | 金沢便り
 金沢の山ちゃんからフォト便りが届きました。

 (1)金沢には山があり、川に雪解け水が流れ海に出る。川の上流には国指定の浄水場園地がある。地元の人は長年飲み慣れているが、新しく住む人や旅行者からは<金沢の水は美味しい!」と言う。
 ・・・そこでボトル詰めの<金沢の水>が登場。鳩も寄って来るほどの美味しさ?・・・
 

 ・・・金沢と言えば<金城霊澤>ですよね。湧き水であり、芋掘り藤五郎の砂金伝説があります。これが<金沢>の始まりとも言われています。兼六園に隣接する金沢神社のとなりにある。屋根で覆われていて、<金城霊澤>と書かれた額、天井には龍が描かれている。
 水面は鏡のようで湧き出しているようには見えないが、いつ見ても澄んでいる。・・・
 

 天井画の龍が守ってくれているというが金網が張ってある。何故だろうか?
 見守りを怠って、水を飲みにこないようにって本当だろうか?
 

 (2)能登半島の東側、富山湾沿いの<百海(どうみ)海岸>
 ここには山崩れなどにより流れ出、波に現れた珪化木の化石の小石がよく見られる。
  珪化木は、現地性の化石(本来の生育地でそのまま化石化したもの)であり、役2000万年まえの中新世の頃、日本海側における大規模な火山活動に伴う火山灰の降下・堆積によって枯死し、凝灰岩層中で長年月の間に徐々に珪化木になった。

 穿孔虫が巣にした柔らかい小石を拾って触ると悠久の地球の歴史のロマンが感じられる。
 

 ・・・その珪化木も含まれる石垣を持つ七尾城跡を見る・・・

 169年に亘り能登地方の守護職・能登畠山氏は海上交易をめぐり、越後上杉謙信と争そって敗れた。
 上杉謙信書状、<歴代古案>第一による<七尾城本丸初登城の感想>
「聞きしに及びより、(加)賀・越(中)・能(登)の金目(かなめ)の地形と言い、要害山海相応し、海頬嶋々の躰までも、絵像に写し難き景勝までに候」
 


 後に藩祖前田利家が織田信長の命により入城。
 山城としては全国有数の規模を誇り、<日本の城百選>に石川県では金沢城と共に選定されている。

 城山の本丸から麓まで幾重もの石垣が地元産の自然石で<野面積み>に重ねられている。
 なかには稀に珪化木や海から運んだと思われる石などもあって、石の種類や年代を見定める楽しみもある。
 


金沢便り(15)月刊誌アクタス

2010-04-23 06:17:28 | 金沢便り
「松任のKさんからお電話よ?」「松任の?」「松任って、あの<あんころ>で有名な松任?そんな所にお知り合いがいるの?」不信顔で妻が受話器を渡してくれた。
 

 東京在住の中学同窓生の集まりに遠路はるばる参加してくれるあのKくんか?
 彼は金沢でなくてその近郊の松任に住んでいるんだ・・・。

「いやあ、お久しぶりです。実はあんたの記事がアクタスに載っとったもんやから・・・」
 
 目じりの下がった好々爺のKくんの顔が浮んだ。
 記事?そうか月刊誌<アクタス>の読者欄に投稿したのが載ったんだ。
 実はこのところ毎月アクタスが送り主不記載で送りつけられてくるのでちょっと不気味だった。出版元の金沢の北国新聞に電話してみたが、宣伝で送ってくれたわけではないようだ。送り主は分からないと言う。
 たまたま<読者からのメッセージ>欄用の葉書が添付されていたので投稿した。

 ・・・どなたかが送ってくれた<アクタス>。めくると「金沢は美しい」のキャッチフレーズ。懐かしいですね。金大付属高校を卒業して以来ですから金沢を離れて50年以上になります。<武士の家計簿>のロケが行われたという長町武家屋敷のすぐ近く、長町小学校に隣接した塩川町に住んでいました。
 
 中学校は高岡町中学校。
 地図で見ると50年の歳月は塩川町も長町小学校も高岡町中学校も消し去ってしまいました。しかし、<アクタス>のページをめくる毎に懐かしい想い出は生き生きと蘇ってくる。
 送ってくださった方、ありがとう。・・・

 カラフルな金沢の魅力が満載の新春号だった。
 巻頭に、ズームアップ<県都の真ん中に新名所、しいのき迎賓館、河北門、宮守掘、まだ見たことのない新名所が続々と建設中である。
 続いて映画<武士の家計簿>金沢城でクランクインのタイトルが踊っている。
 堺雅人、仲間由紀恵主演の期待の映画のロケ風景。
 

 給食に丸ごと、ベニズワイガニなんんていうのも載っている。

「実はぼくが<アクタス>を送っていたんですよ。あんたの記事を見て電話しました」とKくん。
「えっ?ほんとう? いやあ、ありがとう」
「またゴルフなどでお会いしましょう・・・」

 なんとも満ち足りたひと時でした。

金沢便り(22)蘭のひな祭り

2010-03-01 06:21:30 | 金沢便り
 三月、春です。
 能登半島・七尾<のと蘭の国>から春の便りが届きました。

 蘭の花たちも雛祭りに誘われて盛装しました。
 
 
 雛壇。

 
 内裏雛。

 
 クマさんも。

 
 紫の花。

 
 シャリーベビー

 
 チョコレートの香りがするんですって。

 以上、<金沢の山ちゃん>からのフォト便り。