昭和のマロ

昭和に生きた世代の経験談、最近の世相への感想などを綴る。

金沢便り(16)金沢の水と七尾悠久のロマン

2010-05-02 07:17:37 | 金沢便り
 金沢の山ちゃんからフォト便りが届きました。

 (1)金沢には山があり、川に雪解け水が流れ海に出る。川の上流には国指定の浄水場園地がある。地元の人は長年飲み慣れているが、新しく住む人や旅行者からは<金沢の水は美味しい!」と言う。
 ・・・そこでボトル詰めの<金沢の水>が登場。鳩も寄って来るほどの美味しさ?・・・
 

 ・・・金沢と言えば<金城霊澤>ですよね。湧き水であり、芋掘り藤五郎の砂金伝説があります。これが<金沢>の始まりとも言われています。兼六園に隣接する金沢神社のとなりにある。屋根で覆われていて、<金城霊澤>と書かれた額、天井には龍が描かれている。
 水面は鏡のようで湧き出しているようには見えないが、いつ見ても澄んでいる。・・・
 

 天井画の龍が守ってくれているというが金網が張ってある。何故だろうか?
 見守りを怠って、水を飲みにこないようにって本当だろうか?
 

 (2)能登半島の東側、富山湾沿いの<百海(どうみ)海岸>
 ここには山崩れなどにより流れ出、波に現れた珪化木の化石の小石がよく見られる。
  珪化木は、現地性の化石(本来の生育地でそのまま化石化したもの)であり、役2000万年まえの中新世の頃、日本海側における大規模な火山活動に伴う火山灰の降下・堆積によって枯死し、凝灰岩層中で長年月の間に徐々に珪化木になった。

 穿孔虫が巣にした柔らかい小石を拾って触ると悠久の地球の歴史のロマンが感じられる。
 

 ・・・その珪化木も含まれる石垣を持つ七尾城跡を見る・・・

 169年に亘り能登地方の守護職・能登畠山氏は海上交易をめぐり、越後上杉謙信と争そって敗れた。
 上杉謙信書状、<歴代古案>第一による<七尾城本丸初登城の感想>
「聞きしに及びより、(加)賀・越(中)・能(登)の金目(かなめ)の地形と言い、要害山海相応し、海頬嶋々の躰までも、絵像に写し難き景勝までに候」
 


 後に藩祖前田利家が織田信長の命により入城。
 山城としては全国有数の規模を誇り、<日本の城百選>に石川県では金沢城と共に選定されている。

 城山の本丸から麓まで幾重もの石垣が地元産の自然石で<野面積み>に重ねられている。
 なかには稀に珪化木や海から運んだと思われる石などもあって、石の種類や年代を見定める楽しみもある。
 



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2 コメント

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畠山家 (Unknown)
2010-06-14 13:20:39
 謙信は畠山家と争ったのではなく、元城主・畠山義続・義綱親子を追放した、『能登家臣七人衆』の長龍連父子と争ったと思うのですが…。
金沢では、そんな風に伝えられているのですか?
その後すぐ、謙信が急死してしまったので、反畠山家だった長龍連氏側の都合の良い話で伝えられているのでしょうか?

過去に謙信の父・為景は、畠山義続の七尾城奪還を援護して失敗してから後、謙信は畠山義続の次男(義綱の弟)を引き取り
養子にして、上杉家の名門・上条家を継がせて上条政繁と名を成しています。
その後の七尾城奪還の時も無血開城させ、畠山義隆(畠山義続の孫かひ孫)の遺児を保護して、後に叔父(又は大叔父)の上記の上条政繁が養子にして、上杉家の元で養育しています。
後に畠山義春と姓を元に戻して畠山の名跡を守っています。
 子孫が東京の五反田に「畠山記念館」を設立して有名どころとして残っていますので、良かったら見に行ったら興味深いと思います。
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畠山家 (昭和のマロ)
2010-06-22 07:12:16
 コメントありがとうございます。
 参考にさせていただきます。
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