ステージおきたま

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入りはよくてもねぇ!二兎社『書く女』

2016-02-10 09:10:30 | 劇評

 ホールは満席!そりゃそうだろう、黒木華が出て平岳大に朝倉あき、だもの。それにキャパも500と小さいしね。聞きはしなかったけど、満員札止めお断りもあったんじゃないかな。だろうと思って4ヶ月も前のチケット発売の2日目にはわざわざ買いに行ったものな。それくらい期待していた舞台、昨年の『鴎外の怪談』に引き続き永井愛さんの芝居が見られる。

 えっ?これが装置?!実にシンプルな抽象舞台。中央に1間弱の高さの踊り場があって、そこから上手前に向かってなだらかな階段。中間点には間口3間弱奥行き2間ほどのスペース。彩色は一色、うっすらと斑模様のグレー。階段を挟む上下にはバトンから床まで届く縦柵。奥は横縞模様がこれも上まで。永井さんの舞台、そんなに見たわけじゃないが、どれもリアルにしっかり作り込んでた気がする。場面の転換は、何種類かの襖を建てて表現する。正直、これ、僕らが作ってるのと同じじゃない?襖を動かして場面設定って、同じようなこと、やったことあるし。うーん、同じようなアイディアで、嬉しいような、残念なような、でも、プロなら、装置や仕掛けや演出だって、唸らせるようなものにして欲しかったなぁ。ピアニストが常時、舞台に出ていて、その都度演奏してるてのは羨ましいけど、これもこまつ座じゃいつもの技。

 さて、芝居の方は途中15分の休憩を挟んでの2幕構成。前半は、樋口一葉の小説家志願の頃の苦闘とその師にして憧れの人?半井桃水との女と男の駆け引き。どうもすっきりしないなぁ。もやもやが晴れない。笑いありの軽快なタッチで進めたいのか、貧窮の中一途に物書きを目指す一葉をひたむきさに描きたいのか、はっきりしない。明らかに笑いが取れる場面やせりふでもことごとく、すべって、というかかすって通過。そこは台詞の間が違うでしょ、とか、その動きするならもっと大袈裟にやらなくちゃとか、差し出がましく心の中でつっこみながらだらだらと時間が過ぎた。前半の最後になって、荒物屋を始めた一葉がコミカルに動き、ラストは客席に向かって、気合いを入れて「行くぜ!」の一言。そう、そんな調子で前半を引っ張ってくれれば良かったんだよ。

 で、後半はこのコミカルムードが乗ってきて、一葉に心を寄せる二人の文学青年、金の工面に明け暮れる母親と妹、文学上の競争相手と生真面目な友人支援者など入り乱れてテンポ良く、快適なペースで進む。さすが永井さんだ!さすが二兎社だ!やっぱりプロだ!と感心しつつ楽しめた。

 いよいよ佳境、物語の中心はとごに転がって行くのか?伝記ものだから、作者が勝手に作り上げて行くわけにはいかない。文学者の半生記となれば、当然、作品をどう読むかに入り込まないわけにはいかない。文学青年たちや中堅作家?との議論、ライバルとのやりとり、そして、最後はもっとも手強い批評家との丁々発止!一気に盛り上がって、終幕へ、と言いたいところだが、残念、飽きた!はっきり言って、もういいよそんなこと、どうやって幕下ろすのよ、って密かに秒読みしてしまった。

 同じく明治の文豪を描いた『鴎外の階段』とは大違い。あちらは、最後に大きな山場があり、そこが観客をぐぐっと惹きつけ魅了した。何故か?それは『鴎外の階段』の方は、大逆事件という時代を急転換させる大きな出来事が中心にあったからだ。時代を強圧的な方向へ引きづり下ろす大事件を前にして、文学者たちはどう応じるのか、一人一人が自分の文学を迫られた。永井荷風は筆を折り、敢えて色街に身を沈めた。事件に影響を与えられる立場にいた大物森鴎外は、苦渋の決断をした。その鴎外を、知ること、見続けることの大切さで救い出したのが、この作品だった。

 さすがに今は、大逆事件ほどの切迫した状況にはないが、そんな辛く苦しい決断を強いられる季節がひたひたと歩み寄ってはいる。そんな嫌な気配を感じつつ、鴎外たち明治の文学者たちの苦悩に立ち会うことができた、その重さが圧倒的な感動となって舞台を覆ったのだ。だから、『書く女』より余程難解で専門的なやり取りが続いても、最後の最後は舞台に引きづり込まれた。終演後の観客の熱狂も大きなものだった。永井さんの本もたくさん売れた。

 『書く女』に関してはどうか?貧困の中でも書くことに命を削った一葉、書くことは生きることだ、捨てても捨てても捨てられぬ厭う恋を書いた、華族令嬢から遊女まで時代の女たちを見つめた、熱涙の陰に冷笑が宿っている、とかいろんな言葉が飛び交っても、あっ、なるほどね、一葉の文学ってそう読めるのね、の域を脱しないのだ。要するに、評論なんだ。一葉の苦闘が、今の時代に突き刺さってこない、少なくとも僕には縁遠い。半井の作品や若き文学者の興奮に朝鮮を支配下に組み込んでいく時代の流れへの抵抗を語らせてみても、それは、この劇の本流とは関係ないものだ。永井さんの言わざるを得ない気持ちはよおっーくわかるのだが。

 そして、最後はタレント主義の芝居作り、客を呼べたのは成功だったかもしれないが、黒木華の一葉はいただけなかったなぁ。もう少し達者な人かと思っていたのでがっかり。貧困と向き合いながら、無理解な母親の罵りを背に受けつつ、女が小説を書くことに対する社会の蔑みを一身に浴びつつ、それでも書く、ひたすら書く、というひたむきさが伝わってこなかった。コミカルな演技もやりすぎたり、足りなかったと、安定せず、歳月とともに変わっていく一葉を演じきれなかった。死と隣り合わせで、斎藤緑雨とやり合うシーンなど、皮肉屋という設定が先走ってか、シニカルな揚屋の若女将みたいな感じだった。

 有名人は使わない『鴎外の階段』は、観客わずか200だった。それに懲りたのかもしれない。でもなぁ、こまつ座の『頭痛肩こり樋口一葉』の時の小泉今日子だって、客は呼べたけど、舞台の方は脇を固めた手練の役者たちに支えられていた。テレビや映画で見知った顔使って客を呼ぶ、いつまでもこんなことやってると、地方の演劇は、文化はますます衰退していくことだろうな。いや、それは日本人の文化的底の浅さってことでもあるなぁ。

 満席の観客、終演後、永井さんの本、売れてなかった。

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