ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

クレイジー?マジ?

2012-11-29 20:47:39 | 劇評
 テレビの劇場中継を見て劇評書くなんて、食べ残しのオカズ肴に酒飲む以上に味気ない話しだけど、かなりショック受けてしまって、なんでもいいから書かないことにゃ次に進めないって感じ。劇評なんてもんじゃないな。圧倒され鼻先無理やり捻じ曲げられたってことを書こうってことだ。

 本谷有希子「クレイジーハニー」をWOWOWで見た。落ち目の携帯作家がわずかに残ったコアな読者を巻き込んで読者参加の新作を書こうという設定。人気作家と読者とのなれ合いに傷つき作風を一変してきた作家の心は幾重にも屈曲している。激しい読者への不信、編集者への蔑み、他者を拒絶しつつも読者なしには成り立たない作家という仕事。強引に巻き込んだファンを挑発すればするほど、無邪気な人たちの何気ない言葉の端々に鋭く尖って行く病んだ心。そう、本谷お馴染みの異質な精神世界だ。

 そんな人間いるか?異常だろ!って見える彼女の描く登場人物。以前からそんな不思議な女たちに惹かれてきた。ここみたいな田舎では絶対受けない世界なのに、強引に「遭難。」を菜の花座で上演したくらいに入れ込んでいる。(ちなみに、小説の最新作?「嵐のピクニック」もとっても良かった。)この舞台の主人公もまさにクレージー。人の言葉をねじ曲げ、揚げ足を取り、突っかかり攻撃し挙げ句は自分を自分で追い込んでいく。そんな過剰な自意識の暴発が切り裂いて見せるのは、愛とかやさしさとか勇気とか生きる力とか、聞き慣れた言葉の欺瞞性だ。そして、群れることへの拒絶、一人立つことの悲しい美しさ。

 今、世の中は「いたわり」や「思いやり」の大安売りだ。絆って叫んだら、もうひれ伏すしかない。思いやりの欠如がいじめを引き起こす、なんてことを次期首相と目される人物が党の公約、教育改革として連呼したりしている。

 でも、本当にそうか?今も昔も人間なんてもんはそんなにきれいでも美しくも潔くなかったんじゃないか。そこそこ薄汚く、そこそこさわやか、そんなんじゃないのか。僕の人間認識はそういうものだ。いや、それはおまえがそんな惨めな嫌らしい人間だからだろうって言われれば、そうだとしか言いようがない。そんなくだらない品性を抱えつつ、なんとかそんなどろどろの中からきらりと輝くものを見つけたいって思って過ごしている。本谷は、そんな人間の真実を過激で過剰な舞台で突きつけてくる。だから、見る僕は言葉を失う。息を飲み、ひたすら凝視する。まっ、こんなことは本谷を語る新しい言葉なんかではない。ただ、言わないことには、本読むにしろ、もの書くにしろ始められない、だから、書いた。

 この舞台、他にもたくさんの驚きがあった。長澤まさみの凄まじい演技、リリーフランキーの不思議なおかま、それと脇役のソンハ。引きずり回してくれて、マジ、ありがとう。

コメント
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