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竹取翁と万葉集のお勉強

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山上憶良を鑑賞する  松浦県の佐用姫の歌

2010年09月18日 | 万葉集 雑記
松浦県の佐用姫の歌

 非常に不思議な歌です。漢文の序の内容からすると、和歌三首は山上憶良の心の鬱積を吐露する比喩歌になるのですが、では、一体、山上憶良はどんな心の鬱積を大伴旅人に対して吐露したのでしょうか。一部の解説に、この漢文の序と和歌三首は、大伴旅人達が松浦への風流の旅行に同行出来ない理由と詫びと説明するものがありますが、その場合は「欲寫五蔵之欝結」のような激しい表現は相応しくありません。やはり、大伴旅人が理解できる山上憶良の心の鬱積を、和歌三首で吐露していると解釈する必要があります。
 逆に、江戸・明治の人々は、なぜ、この歌に大伴旅人達が松浦への風流の旅行に同行出来ない、その「理由と詫び」を感じたのでしょうか。職業的に漢文を公用語とするような江戸・明治の文学者が漢文の序の内容を理解できなかったはずはないのですが、そこが疑問です。それとも、松浦への風流の旅行に同行出来なかったことが、彼らにとって山上憶良の「欲寫五蔵之欝結」なのでしょうか。所謂、「白髪三千丈」の世界と感じたのでしょうか、ただ、それはそれで漢文全体が理解出来ていないことになります。
 江戸・明治期の国文の泰斗が万葉集に載る漢文を読んだ(読めた)か、どうかとの万葉集全体で共通する、結論の見えたそんな瑣末な議論は置いて、そうした時、ではなぜ、山上憶良は心の鬱積を吐露する比喩に、新羅懲罰に大伴狭手彦が赴いたと云う松浦県の佐用姫の伝説や朝鮮出兵の神功皇后である帯日売神の命の鮎釣り伝説と、突然に共に「大和氏族が朝鮮を懲罰する」と云う朝鮮出兵の伝説を取り上げたのでしょうか。参考に、万葉集の掲載の順序からの時間的な流れからすると、松浦県の佐用姫の伝説は集歌868の歌が最初です。大伴旅人が佐用姫と大伴狭手彦の関係を詠うのは、この後と推定されます。つまり、大伴旅人が詠う松浦の佐用姫の歌に引きずられて、山上憶良が佐用姫の歌三首を題材にしたのではありません。
 想像できるのは、大伴旅人が法に従って朝鮮(又は、朝鮮の人々)に対し懲罰の行動を起こさないことに対して、山上憶良が心の鬱積を吐露しているのではないかと云う推測です。集歌870の歌は、「貴方が、行動を起こそうと思うと、それは容易いことだ」との比喩でしょうか。
 なお、歴史ではこの歌が詠われた直後に、殺した側に賛同して名付けられた「長屋王の変」と称されるクーデタの余波の残る奈良の京の藤原房前と連携がなり、大伴旅人は当時では人臣最高の位である従二位の大納言として奈良の京に戻ります。さて、山上憶良の「欲寫五蔵之欝結」とは、何であったのでしょうか。万葉集巻五の歌々は、非常に難解です。

憶良、誠惶頓首、謹啓
標訓 憶良、誠惶(せいこう)頓首(とんしゅ)、謹(つつし)みて啓(もう)す

憶良聞、 憶良聞かく
方岳諸侯、 方岳(ほうがく)の諸侯と
都督刺使、 都督(ととく)刺使(しし)とは
並依典法、 並に典法に依りて
巡行部下、 部下を巡行して
察其風俗。 其の風俗を察(み)る
意内多端、 意(い)は内に多端に
口外難出。 口(げん)は外に出し難し
謹以三首之鄙謌、 謹みて三首の鄙(いや)しき謌を以ちて
欲寫五蔵之欝結。 五蔵の欝結(うつけつ)を寫(ひら)かむと欲(よく)す
其謌曰、 其の謌に曰はく

私訳 憶良が承知していることには「中国の諸国の諸侯や都督刺使は、共に典法の定めに従って部下をその支配地に巡行させて、その世情を視察させる」と。私が思うことは胸中に多くありますが、それを口から発して言葉として表すことは難しいことです。そこで、謹んで三首の賤しき歌をもって、心に思うその鬱積を表に出そうと希望します。その歌に云うには、

集歌868 麻都良我多 佐欲比賣能故何 比列布利斯 夜麻能名乃美夜 伎々都々遠良武
訓読 松浦(まつら)県(がた)佐用姫(さよひめ)の故か領巾(ひれ)振りし山の名のみや聞きつつ居(を)らむ
私訳 松浦県の佐用姫の伝説でしょうか領巾を振ったと云う山の名前だけを聞いて過ごしています。

集歌869 多良志比賣 可尾能美許等能 奈都良須等 美多々志世利斯 伊志遠多礼美吉 (一云 阿由都流等)
訓読 帶日売(たらしひめ)神の命(みこと)の魚(な)釣(つ)らすと御(み)立(た)たしせりし石(いし)を誰れ見き (一云(あるひはいは)く、 鮎釣ると)
私訳 帯日売神の命が魚をお釣りになると、お出ましになられたゆかりの石を誰が見るのでしょうか。(一は云はく、鮎を釣ると)

集歌870 毛々可斯母 由加奴麻都良遅 家布由伎弖 阿須波吉奈武遠 奈尓可佐夜礼留
訓読 百日(ももか)しも行かぬ松浦(まつら)道(ぢ)今日(けふ)行きて明日(あす)は来(こ)なむを何か障(さや)れる
私訳 百日もの長い日々をかけて行かない松浦への道。今日行って明日は帰って来ることのできるのに、何が支障になるでしょうか。
左注 天平二年七月十一日 筑前國司山上憶良謹上
注訓 天平二年七月十一日に、 筑前國司の山上憶良の謹(つつし)みて上(たてまつ)る


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