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万葉雑記 色眼鏡 その十七 続日本紀と日食観測

2013年02月09日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 その十七 続日本紀と日食観測
続日本紀の記述に信頼性があるのか

 最初にお詫びをいたします。今回は万葉集の歌には直接には関係いたしませんので、そこをご了承ください。

 近年、日本の歴史を記した国書、日本書紀などに載る記事に対する再検討が盛んに行われるようになって来ているようです。特にコンピューターの性能向上などにより、暦日と干支との関係や天体観測記事とその現実性との対比など、色々なアプローチで歴史書の検証が行われて来ているようです。そして、その研究の成果では日本書紀巻三十、持統天皇紀は、まず、疑わしい歴史書であることが示されています。
 最初に、西暦六九七年五月から九月までの和暦と中国大陸での暦に示す月初め一日、朔日の干支を紹介します。ここに、大月は三十日、小月は廿九日を意味します。

持統十一年 五月丙申朔 大月 萬歳通天二年(丁酉) 五月丙申朔 小月
持統十一年 六月丙寅朔 小月 萬歳通天二年(丁酉) 六月乙丑朔 大月
持統十一年 七月乙未朔 小月 萬歳通天二年(丁酉) 七月乙未朔 小月
文武元年 八月甲子朔 大月 萬歳通天二年(丁酉) 八月甲子朔 大月
文武元年 九月甲午朔 大月 萬歳通天二年(丁酉) 九月甲午朔 大月
文武元年 十月甲子朔 神功元年 (丁酉) 十月甲子朔

 日本の暦の干支と中国大陸での暦の干支は七月から十月では一致します。六月の「丙寅朔」と「乙丑朔」との一日違いは太陰太陽暦の基本である月の見え方で大月と小月の交換があったためと思われ、これも、暦法では一致します。そのため、一見、なにも問題がないと思われるでしょう。ところが、この一致することに問題があるのです。実は、古くから日本書紀の近代に相当する部分、天武天皇紀や持統天皇紀などの部分と続日本紀の文武天皇紀とは違う暦法を使っていて、暦日を表す干支に相違があることになっています。
 次に日本書紀と続日本紀とが接続する部分、八月一日の記事を紹介します。

日本書紀 八月乙丑朔、天皇定策禁中、禅天皇位於皇太子
続日本紀 元年八月甲子朔、受禅即位

 この記事において日本書紀では西暦六九七年、持統天皇十一年の八月一日の干支は「乙丑朔」から乙丑です。一方、続日本紀では同じ日に相当する文武天皇元年八月一日の干支は甲子です。暦日の干支は甲子→乙丑→丙寅→丁卯→戊辰→・・、の順に六十日を一サイクルとして連続的に循環する決まりになっていますから、持統天皇十一年八月一日の干支である乙丑と文武天皇元年八月一日の干支である甲子とには一日の違いがあります。
 普段の我々ではこの一日の違いなど、先の六月の例のように大小月交換と同じであろうとして重大で深刻な問題とは認識しません。しかし、ここでの日付は続日本紀が始まる日であり文武天皇の即位の日ですし、一方、日本書紀では書紀が終わる最後の記事であり持統天皇の譲位の日であります。そのため、歴史を編纂する者やその国書を受領する立場の者からすれば、その日付は国家最高の歴史書の編纂において絶対に間違えてはいけないものなのです。そのため、古く、この問題は日本書紀には元嘉暦が使われ、一方、続日本紀には儀鳳暦が使われて暦が算定されていると説明されてきました。そのため、違う暦法に基づくためにそれぞれの暦日の干支にズレは生じたと説明されています。つまり、旧来の解説では日本書紀も続日本紀も共に間違いはなく、違いは使った暦の基本となる暦法が違うことに帰結します。ただ、これでは同一王朝で暦日に断裂があることの政治的、社会的な説明には全くなりません。本質的に暦日の断裂問題は外国では王朝の正統性まで発展する問題です。
 ここで、先の表に見たように日本の和暦と中国大陸の暦において暦日に相違がないとなると、従来の説明に疑問が湧きます。そこで、日本書紀の記事を調べますと、次のような記事があります。

持統十一年六月丁卯(二日) 六月丙寅朔丁卯。赦罪人。
持統十一年六月癸卯(是月なし) 癸卯。遣大夫・謁者、詣諸社請雨。
持統十一年七月辛丑(七日) 秋七月乙未朔辛丑。夜半赦常嬰盗賊一百九人。
持統十一年八月乙丑朔(一日) 八月乙丑朔。天皇定策禁中禅天皇位於皇太子。

 先に説明しましたが、暦日の干支は六十日を一サイクルとして循環しますから、持統十一年六月丙寅朔を基準に検討してみましょう。この丙寅は干支表では三番目にあり、癸卯は四十番目にあります。つまり、丙寅を一日として日数を数えますと癸卯は三十八日目に当たり、この日は月日の規定から外れる日になります。次に、乙未は干支表では三十二番目にあり丙寅からは三十日目になります。六月は小の月ですので月末は二十九日ですから、丙寅から三十日目の乙未は七月一日になります。つまり、秋七月乙未朔と表記されます。同じように七月乙未朔から三十日目が甲子で、三十一日目が乙丑になります。七月が三十日まである大の月ですと八月乙丑朔となり、二十九日までの小の月ですと八月甲子朔となります。日本書紀では七月は大の月ですから八月乙丑朔が正しいことになります。一方、中国大陸の暦では萬歳通天二年(丁酉)八月甲子朔と表記しますし、続日本紀では文武元年八月甲子朔と表記しますから、これは使う暦法が違うからと説明する訳です。
 ところが、持統天皇紀での閏月の記録を調べてみますと、次のようなことになっています。この当時に使われた暦法は中国大陸では対象となる期間から則天武后から中宗の時代ですので麟徳暦です。これは和暦では文武天皇以降の儀鳳暦に相当するものです。

692年 持統六年潤五月乙未朔 如意元年閏五月乙未朔
695年 持統九年潤二月己卯朔 證聖元年閏二月己卯朔

 さて、この対比に見られるように中国大陸の麟徳暦で作られた暦と日本では元嘉暦が使用されていたとする暦とが一致します。
 実は持統四年十一月に「甲申、奉勅始行元嘉暦与儀鳳暦」と云う記事があり、一部での学説として従来から和暦の暦法として元嘉暦が使われており、この十一月十一日から新来の儀鳳暦の併用、又は、儀鳳暦の試験運用が始まったとします。このため、「八月乙丑朔」がなにかの間違いとすれば、歴史的なつじつまは合って来るのです。事実、この記事以前、元嘉暦が使われていた天武天皇時代は和暦と中国大陸の暦とで閏月の設定や朔日の干支は異なっていました。

667年 天智六年潤十一月丁亥朔 乾封二年閏十二月丙辰朔
673年 天武二年閏六月乙酉朔 咸亨四年閏五月乙卯朔
681年 天武十年閏七月戊戌朔 永隆二年閏七月丁酉朔
684年 天武十三年閏四月壬午朔 文明元年閏五月壬子朔
686年 朱鳥元年潤十二月丁酉朔 垂拱三年閏正月丙寅朔
689年 称制三年潤八月辛亥朔 永昌元年閏九月庚辰朔

 次に、天体観測の予測計算から日本書紀の記事の信頼性に関係する論文があります。それが2002年に国立天文台報第五巻に載せられた「日本書紀天文記録の信頼性」(河鰭公昭、谷川清隆、相馬充)です。この論文では森博達氏の「日本書紀の謎を解く」(中公文庫)を参考に、日本書紀全廿巻をα、β、γ群に区分し、日本書紀に載る天文記事とその現実性について検証を行っています。
 この論文の帰結に注意深いものがありますので、それを紹介します。
“γ群と分類した巻30持統紀の日食記録は全て観測事実ではなく、当時の暦法による予測によるものである。日本で観測できた筈の日食が一例も記録されていないこと、「旧唐書」、「新唐書」に記載されている日食の過半数が記録されていないなど記録する日食の選択が不可解である。”
 また、日食の予測計算に使った暦法については、論文で河鰭公昭氏は次のような推定をされています。
“この結果は「日本書紀」で採用されている食予報が基本的には月の運行から予報する景初暦の食予報の系統を継いでいることを示している。”
 この論文の参考として、日本書紀、持統天皇紀に載る日食記録を紹介します。重要なことは、これらの日食のリストは日本書紀には登場しますが、日本では絶対に見ることの出来ない日食です。これらの日食の出現場所がアメリカ大陸やヨーロッパ、時に南半球でのものなのです。そのため、論文では「日食記録は全て観測事実ではなく」と、表現せざるを得ないのです。

日本書紀に載る日食記録
西暦 和暦 和暦干支表示
691年10月27日 持統5年10月1日 持統五年十月戊戌朔
693年4月11日 持統7年3月1日 持統七年三月庚寅朔
693年10月05日 持統7年9月1日 持統七年九月丁亥朔
694年03月31日 持統8年3月1日 持統八年三月甲申朔
694年09月25日 持統8年9月1日 持統八年九月壬午朔
696年08月04日 持統10年7月1日 持統十年七月辛丑朔

一方、持統天皇紀の期間で観測されるべき日食は、次のものです。
西暦 和暦
691年05月04日 持統5年4月2日 食分47%
695年02月19日 持統9年2月1日 食分37%

 この「日本書紀天文記録の信頼性」の論文はネット検索から容易に閲覧が可能ですので多くを引用することなく論文の帰結を急ぎますが、朝廷による組織だった天体観測の態勢作りが進んだと云う天武天皇の時代を記述する日本書紀巻廿九に載る日食の記述は信頼性があるが、次の時代の持統天皇紀を記述する巻三十の日食の記述はまったく信頼性がなく、それはなんらかの意図による日食記事の記載と思われます。
 ここで、推古天皇の時代から元正天皇の時代までの日食で、日本と中国大陸とで同時観測された日食観測の記事を紹介します。なお、推古と舒明のところの(2)の意味は、日食の観測日が朔日ではなく二日であったと云う意味です。

新暦 書紀・続紀より 中国、新唐書より
628年4月10日 推古天皇三六年三月戊申(2) 貞觀二年三月戊申朔
637年4月1日 舒明天皇九年三月丙戌(2) 貞觀十一年三月丙戌朔
680年11月27日 天武天皇九年十一月壬申朔 永隆元年十一月壬申朔
681年11月16日 天武天皇十年十月丙寅朔 永隆二年冬十月丙寅朔
702年9月26日 大宝二年九月乙丑朔 長安二年九月乙丑朔
707年7月4日 慶雲四年六月丁卯朔 神龍三年六月丁卯朔
707年12月29日 慶雲四年十二月乙丑朔 景龍元年十二月乙丑朔
715年8月4日 霊亀元年七月庚辰朔 開元三年七月庚辰朔
729年10月27日 天平元年十月戊午朔 開元十七年十月戊午朔

 先ほどの持統十一年八月の「八月乙丑朔」問題に戻りますが、推古天皇三六年から天平元年まで、およそ百年の間、九回の日食が同時観測され、その暦日は和暦と中国大陸の暦とで同じです。中国大陸は唐の時代ですのでこの期間を通じて麟徳暦が暦法として使用され、日本では暦の研究成果から儀鳳暦、元嘉暦、儀鳳暦が順に暦法として使用されたとされています。しかしながら、推古天皇の時代から聖武天皇時代まで「持統十一年八月乙丑朔」のような暦法からの暦日の断裂を生じさせることなく、日食の同時観測における暦日は同じなのです。暦法が変わっても、日付を干支で表す時、六十日サイクルでの暦日不断の原則が貫かれているのです。ここからも、「持統十一年八月乙丑朔」とは、なんらかの間違いであったと推察されます。そして、特に注目されるのは天武天皇の時代、日本で観測可能な日食はわずかに三回で、その内、二回は観測され日本書紀に記載されています。そのため、逆に特異的として持統天皇の時代の作為的な観測記録の記載が目立つのです。
 少し、帰結を先取りしますが、続日本紀においても同様な日食記録の問題があり、従来、専門家の間では持統天皇紀から聖武天皇紀までの作為的な日食記録の記載は日本の歴史書の特徴と考え、正確な自然現象の記録を載せる天武天皇紀の方が特異的なものであると考えます。当然、専門家がするその発想と帰結には疑問が残りますが。

 この点につきまして、新鋭の研究者である小島荘一氏が発表した興味深い論文があります。それが“「日本書紀」の編纂における暦日の設定 ―暦法に適合しない事例を中心として― ”です。この論文での帰結として、日本書紀の“ある部分”については、次のような過程で歴史書としての記事が作成されたのではないかと推定されています。

 最初に歴史記事が予定され、その記事に対して歴史の流れの中での配置順序を決め、その配置順序に相応しい年月日が設定された。これは数字での年月日と思われる。
 設定された年月日に対して、暦法計算の知識を有する専門的な人々が特定の年の暦日計算を行って、長暦を作成した。
 作成された長暦に従い、予定された歴史記事に付けられた各年月日が干支に変換され、相応しい歴史記事となった。

 小島荘一氏は、暦日計算は非常に煩雑であり、複雑なため、閏月の位置計算に簡略化を行ったために結果的にいくつかの閏月の位置がずれてしまうという現象が発生した可能性を指摘されています。同じように河鰭公昭氏は、持統紀に載る日食計算には景初暦の食予報の系統が使用されていると指摘しています。この景初暦による日食計算は儀鳳暦に比べれば、ある種の簡便計算法となりますので、小島荘一氏と河鰭公昭氏との指摘のベクトルは一致します。結果、この現れが観測不能な日食記録であり、「持統十一年六月癸卯(是月なし)」の記事と考えます。

 この日本書紀巻三十、持統天皇紀に対する歴史の創作疑惑の視線を持って、続日本紀へと広げてみたいと思います。
 さて、日食の記事の検討について、朝廷として観測・記録体制が整って来たと云う日本書紀の天武天皇紀から続日本紀全期へと広げてみますと、日食の記事を八十ヵ所ほど見つけることが出来ます。ところが、ここでも持統紀の日食記事と同じように、日本では絶対に観測できない日食や天体望遠鏡のない時代では観測が非常に困難なものの観測記録が含まれています。

 書紀・続紀に記事がある日食 80回
 書紀・続紀に記事があるが日本では観測不可能な日食 56回
 書紀・続紀に記事があり、実際に観測されたと思われる日食 21回
 書紀・続紀に記事があるが、実際の観測が疑わしい日食 3回

 ここで、上記の期間に対するコンピューターを使った近畿地方での日食出現予想の計算結果を北海道大学のHPから紹介します。

 理論上、地球上のどこかで観測可能な日食 265回
 理論上、近畿地方で観測可能な日食 42回
 理論上、近畿地方で観測可能で、記録された日食 15回
 理論上、近畿地方では観測困難であり、その記事が無い日食 3回

 この対象とする書紀・続紀の期間では近畿地方での皆既日食の出現はありません。最大の食分が文武天皇四年五月一日の86%で、最小のものは宝亀七年四月一日の2%です。不思議ですが、文武天皇四年の86%も欠ける日食の記事は続紀には有りませんが、宝亀七年の食分2%の日食の記事はあります。ただ、この宝亀七年の日食は日の出直後に出現し、なおかつ2%だけの食分の日食のため、本当に観測が出来たのかどうかは疑問に思っています。さらに、不思議ですが、天平十八年五月の食分68%の日食、天平勝宝六年六月の食分77%の日食、延暦四年三月の食分62%の日食の記事を続紀の中に見つけることは出来ません。
 一方、惑星観察の記事が養老六年頃から見られるようになり、神亀二年十月己卯の金星と木星との接近記事「太白与歳星芒角相合」や天平七年八月乙酉の金星と水星との接近記事「太白与辰星相犯」は史実と思われます。ここに日食観測記事は予測記事で、それより観測困難で注目度の低い惑星観測記事の方が史実と云う不思議があります。つまり、日食観測記事からすると、それが長暦の目安としたかのような歴史記事の作文疑惑が生じて来るのです。
 その作文疑惑と云う感覚から候補とした年代は次の期間です。ほぼ、全般に渡って疑惑の期間が散らばっています。

持統5年4月2日(691/05/04) ― 大宝1年4月1日(701/05/13)
大宝3年3月1日(703/03/22) ― 慶雲3年12月1日(707/01/09)
和銅1年11月1日(708/12/17) ―  和銅6年2月1日(713/03/01)
霊亀1年12月1日(715/12/31) ― 神亀5年4月1日(728/05/14)
天平7年閏11月1日(735/12/19) ― 天平12年3月1日(740/04/01)
天平15年7月1日(743/07/26) ― 天平宝字4年7月1日(760/08/15)

 疑惑の視線で続日本紀を見てみますと、養老・神亀年間に多くの記事の掲載順番の乱れや有り得ない暦日が見つかります。同じようなことが考古学の現場でも起きています。有名な古事記の編纂者である太朝臣安萬侶の墓誌問題です。発掘された太朝臣安萬侶の墓誌には「養老七年十二月十五日乙巳」の記述がありますが、十二月の朔は壬辰ですので乙巳は十四日に中り、墓誌と暦日干支において一日のズレが生じています。遺跡調査の成果からすると、当時、その年の暦を記した具注暦木簡が公布されていたと思われますので、太朝臣安萬侶の親族や墓誌製作者が独自の暦を使っていたとは考えにくいことです。

<続日本紀における記事順番の乱れ;一例>
霊亀元年五月乙巳(廿五日) 従六位下画師忍勝姓の条
養老元年四月丙戌(十七日) 祈雨于畿内の条
養老元年十一月丁巳(廿一日) 車駕幸和泉離宮の条
養老四年八月壬辰(十二日) 勅の条
養老五年四月乙酉(九日) 征夷将軍正四位上多治比真人県守の条
養老六年正月庚申(十八日) 西方雷の条
神亀元年三月庚申(一日) 定諸流配遠近之程の条
神亀元年十一月庚申(四日) 召諸司長官并秀才及勤公人等の条
神亀二年閏正月戊子(三日) 夜月犯填星の条
神亀三年十一月己亥(廿六日) 改備前国藤原郡名の条
神亀五年八月壬申(九日) 改定諸国史生・博士・医師員并考選叙限の条
神亀五年八月丁卯(四日) 太白経天の条

<続日本紀における暦日異常の例;一例>
神亀五年八月甲午(是月甲午なし) 詔曰朕有所思の条

 従来、歴史や国文を研究される方は、持統天皇紀以降の天体観測の実態と合わない日食記録を、日食予報がなんらかの手違いでそのまま記載されたとします。また、その根拠として持統天皇の時代までには大陸での最新の暦である儀鳳暦が輸入され、日食の予報技術が向上したことやその観測体制として朝廷内に中務省陰陽寮が整備されて来たことを上げています。実際、律令体制として、この陰陽寮には暦管理のための技術者である“方技”を擁していました。そして、この方技は律令体制当初の陰陽寮成立段階では純粋に占筮、地相、天体観測、占星、暦と具注暦の作成、吉日凶日の判断、漏刻の管理などを職掌としていたため、主務は天文観測と暦時の管理や自然現象の吉凶を暦法や陰陽五行に基づいて理論的な分析を行い、太政官に報告し記録するだけだったと推定されています。陰陽寮の名称から想像される平安時代の陰陽師とは似ても似つかぬ技術的な職務だったようです。およそ、陰陽寮の方技とは当時最先端の科学者であり技術者でした。
 確かに日食予測自体は古代においても暦法から行うことが可能です。藤原京や第一次平城京の時代、儀鳳暦は最先端の日食を計算し予測する暦法でしたし、それを当時の陰陽寮の方技である科学者たちは行っていました。ただし、当時の暦法による日食予報の最大の欠点は、日食の出現を計算し予測することは可能でしたが、その計算において地球上の緯度・経度の情報までを提出することは出来ませんでした。つまり、古代の暦法で予測する日食は、全地球上のどこかで発生することを予測するものであって、特定の地点、例えば近畿地方での日食の出現を予告することは出来ませんでした。しかしながら、古くからの日食観測記録の蓄積で月の天空上を移動する軌道の位置から日食の北半球での出現か、南半球での出現かを判断することは可能だったようです。従いまして、この判断からある一定以上の確率は確保したと考えられますが、一方、日食予測とはその程度のものであったため、史書には実際の記録を載せる必要がありました。日本でもそれを反映して天武天皇の時代や桓武天皇の時代は、ほぼ、観測された記録を載せています。
 先に紹介しましたが、古代史を自然現象の記録から研究される方々には、ここで紹介したことは既知のことです。そこで、日食記録は天子の責務であるという古代の風習を踏まえ、持統天皇紀から聖武天皇時代に特に観測不可能な日食の記事が目立つのは、当時、史実記録の保管が正しく行われておらず、一部に日食予報の資料が紛れ込んだためと推測します。つまり、続日本紀の原資料の質が悪かったために、本来、載せられるべき日食の観測記録が失せ、換わりに予測記事が選択的に載せられたと考えているようです。
 さて、朝廷内の中務省内記での原資料の管理が悪かったのか、意図的に悪くしたのか、どちらでしょうか? これは歴史での永遠の謎でしょうか? ただ、知っていて頂きたいのは、この原資料が疑わしい続日本紀以外、当時の歴史を知る第一級の資料はありません。つまり、疑わしいが、それに従って、歴史を語らねばならないのです。

 最後に興味深いことに、日本書紀には次のような記事があり、「元年春正月丙寅朔」の記事からは、本来、持統天皇即位前紀朱鳥元年と持統元年とは違う年でなければなりません。

持統天皇即位前紀朱鳥元年(686)九月九日の条
朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛真人天皇崩。皇后臨朝称制。
訓読 朱鳥元年九月戊戌朔丙午に、天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)崩(ほうず)る。皇后、称制して朝を臨(のぞ)む。

持統元年(687)正月一日の条
元年春正月丙寅朔、皇太子率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉。
訓読 (持統)元年春正月丙寅朔に、皇太子は公卿百寮人等を率ひて、適(まさ)に殯宮に慟哭(どうこく)をなす。

 一方、万葉集では「朱鳥」の年号は朱鳥十年秋七月の太政大臣高市皇子の死亡まで連続となっているため日本書紀と万葉集とでは朱鳥元年に一年のズレが生じます。また、同じように有名な話ですが天智天皇摂政の時代、百済の役での白村江の戦いは日本書紀、天智天皇紀では摂政二年八月二十八日の出来事で西暦六六三年となりますが、旧唐書、百済伝では唐の高宗の時代、龍朔二年の出来事とされ、これは西暦六六二年に相当します。ここにも一年のズレがあります。

万葉集における日本紀と日本書紀との元号対比表
事件/記事 万葉集/日本紀 年 日本書紀対比 年 掲載歌番号
大津皇子被死 朱鳥元年(丁亥) 687 持統称制前紀冬十月 686 集歌416
天皇幸紀伊國 朱鳥四年庚寅 690 持統四年秋九月 690 集歌34
川嶋皇子薨 朱鳥五年辛卯 691 持統五年秋九月 691 集歌195
天皇幸伊勢 朱鳥六年春三月 692 持統六年春三月 692 集歌44
幸藤原宮 朱鳥七年癸巳 693 持統七年秋八月 693 集歌50
幸藤原宮 朱鳥八年春正月 694 持統八年春正月 694 集歌50
遷居藤原宮 朱鳥八年冬十二月 694 持統八年冬十二月 694 集歌50
高市皇子尊薨 朱鳥十年丙申 696 持統十年秋七月 696 集歌202

 ここでのブログは、日本書紀や続日本紀と万葉集で齟齬がある場合、万葉集を優先して解釈を行っています。そのため、専門家の行う万葉集の解釈での国書を優先して解釈する立場とは逆になっています。そこをご了承、下さい。

本稿の資料参考先:
日食予測:日食・月食・星食情報データベース
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10553/index.html
暦日:時間規範検索
http://authority.ddbc.edu.tw/time/
惑星の位置:お星様とコンピューター、月・太陽・惑星の位置
http://star.gs/

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