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竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 九六 伊勢神宮の歌を鑑賞する

2014年12月20日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 九六 伊勢神宮の歌を鑑賞する

 今回は『万葉集』から伊勢神宮に関係する歌を拾い出し鑑賞してみたいと思います。本来は伊勢内宮や外宮の式年遷宮が行われた平成廿五年に取り上げた方がタイムリーだったのですが、少し、間の抜けたものとなりました。そこは御勘弁を下さい。

 最初に、『万葉集』の歌が詠われ、原初万葉集が編纂された時代、現在の伊勢神宮内宮は正式な名称である皇大神宮(または神宮)と称され、祭神として天武天皇を御祀りしますし、伊勢神宮外宮は豊受大神宮が正式な名称であり祭神として草壁皇子命を御祀りします。さらに伊勢神宮内宮の外宮(そとみや)別宮である月讀神社はその祭神として高市皇子命を御祀ります。その後、聖武天皇・光明皇后の時代の仏教への改宗(神宮寺や本地垂迹)騒動や桓武天皇の時代の祭神変遷を経て、現在の皇祖神としての天照大神、豊受大神や月讀神を前面に押し出した姿になっています。これは延喜式に載る祈年祭の祝詞などを丁寧に原文から鑑賞しますと伺うことが出来るものです。要請に合わせたような現代語訳文では見えない世界ですので、一度、そのような資料を原文から鑑賞されることをお勧めします。
 さて、紹介しましたように歴史では伊勢神宮は聖武天皇・光明皇后の時代に、一度、伊勢神宮宮域内に建立された仏教寺院(皇大神宮には金剛証寺、豊受大神宮には世義寺)を中心に国家安康の祭事を行い、その後、光明皇太后の死去を機にそれらの神宮寺を僧侶やそれに同調した神官たちと共に移設・移転や免職させ、純粋なる神道に復帰します。さらに桓武天皇の時代、朝廷は京都の平野神社に対しその祭神を皇大御神とし、また、御社としたことに合わせるように伊勢国の皇大神宮、豊受大神宮、月讀神社の祭神は桓武・嵯峨天皇の『日本紀』から『日本書紀』への改訂の時期に皇祖神を前面に押し出すようになりました。このような時代と歴史の流れがあるために天武天皇・草壁皇子・高市皇子の時代、聖武天皇・光明皇后の時代、桓武天皇の時代以降では、伊勢神宮でおいて祀る祭神がそれぞれに違います。このように伊勢神宮は飛鳥浄御原宮時代以降、今日まで国家の中心で在り続けた天皇家の神社であるが故に国家中枢の権力者の変動で翻弄されて来ました。

 以上、万葉歌の鑑賞に先立ち、弊ブログで理解する万葉の時代を紹介しました。この紹介しました歴史観に従って、以下に歌を鑑賞します。

 さて、『万葉集』に、皇大神宮に天武天皇が御祀られていることを窺わせる歌がありますので、それを紹介します。紹介する集歌162の歌は巻二挽歌の部立に分類されるもので、『万葉集』の解説では亡くなられた夫である天武天皇を偲んで持統天皇による御製歌となっています。従いまして、故人を偲ぶ長歌ですから、歌の一句「奥津藻毛(おくつも)」には「おくつき(奥都城)」の意味合いも含ませていると考えられます。その「奥都城」と云う言葉は古語では墓所を意味します。つまり、伊勢国は天武天皇の墓所と云う意味合いがあります。
 歴史では、大陸の葬送儀礼で定める三年の喪と同じ期間の天武天皇への喪が明けた、その年に皇大神宮の最初の式年遷宮(=新しい神宮の建立)が行われたとされています。およそ、このような史実から弊ブログでは持統四年(690)の最初に行われたこの内宮式年遷宮を神道での社殿の建立が行われた年と考えます。ちょうど、この故事を祀る社殿建立の姿は大陸での王朝創始者に対する祖廟建立の風習に似合うものとなります。その背景があるためか、伊勢神宮の祭祀儀礼の中に道教の影響が見え隠れすると言います。

天皇崩之後八年九月九日、奉為御齊會之夜夢裏習賜御謌一首
古謌集中出
標訓 天皇の崩(かむあが)りましし後(朱鳥)八年の九月九日、奉為(おほんため)の御齊會(ごさいゑ)の夜に夢のうちに習(なら)ひ賜へる御謌(おほみうた)一首
追訓 古謌の集(しふ)の中(うち)に出(い)づ
集歌162 明日香能 清御原乃宮尓 天下 所知食之 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 何方尓 所念食可 神風乃 伊勢能國者 奥津藻毛 靡足波尓 塩氣能味 香乎礼流國尓 味凝 文尓乏寸 高照 日之皇子

訓読 明日香の 浄御原(きよみはら)の宮に 天つ下 知らしめしし やすみしし わご大王(おほきみ) 高照らす 日し御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡ける波に 潮(しお)気(け)のみ 香(かほ)れる国に 御(み)籠(こも)りし あやにともしき 高照らす 日し皇子

私訳 明日香の浄御原の宮で天下を御統治された、天下をあまねく統治なされる私の大王の天の神の世界まで照らしあげる日の皇子は、どのようにお思いになられたのか、神の風が吹く伊勢の国の沖から藻を靡き寄せる波の潮気だけが香る清い国に御籠りになられて、私は無性に心細い。天の神の世界まで照らす日の御子よ。

 次に、『万葉集』巻十三に載る歌を紹介しますが、この巻十三は不思議な巻です。この巻は長歌の為に編まれた巻の様相を呈していますが、それだけではありません。巻中に重要な社会的行事を詠った歌々が載せられていますが、多くのそのような長歌に標題や左注が付けられていないために、歌が詠われた背景が不明なのです。そのために、鑑賞する歌が重要行事の歌であったとしても、その行事がなかなか特定できないために、ある種、歌の鑑賞が棚晒しにされています。
 その例として次に紹介する集歌3234の長歌もそうです。歌は伊勢の皇大神宮への御幸を詠っていますが、どなたの天皇(太上天皇)が御幸されたのか、いつ、それがなされたのかは判りません。それに『万葉集』の中で伊勢の皇大神宮を直接に詠う歌は、この歌だけではないでしょうか。なお、集歌3234の歌は捧呈歌と云う雰囲気よりも、臣下が代参で伊勢皇大神宮を参拝した時に臣下を代表して歌を詠ったようなものと考えます。従いまして、新嘗祭の大祭で詠われた可能性もあります。

集歌3234 八隅知之 和期大皇 高照 日之皇子之 聞食 御食都國 神風之 伊勢乃國者 國見者之毛 山見者 高貴之 河見者 左夜氣久清之 水門成 海毛廣之 見渡 嶋名高之 己許乎志毛 間細美香母 挂巻毛 文尓恐 山邊乃 五十師乃原尓 内日刺 大宮都可倍 朝日奈須 目細毛 暮日奈須 浦細毛 春山之 四名比盛而 秋山之 色名付思吉 百礒城之 大宮人者 天地 与日月共 万代尓母我

訓読 やすみしし 吾(わ)ご大皇(すめらぎ) 高照らす 日し皇子し 聞(きこ)し食(め)す 御饌(みけ)つ国 神風し 伊勢の国は 国し見はしも 山見れば 高く貴(とふと)し 川見れば さやけく清し 水門(みなと)なす 海も広(ゆた)けし 見渡しし 島し名高し ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやに畏(かしこ)き 山し辺の 五十師(いつし)の原に うちひさす 大宮仕(つか)へ 朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山し しなひ栄えに 秋山し 色なつかしき 百礒城(ももしき)し 大宮人は 天つ地し 日月とともに 万代(よろづよ)にもが

私訳 国土を余すことなく統治為される我々の天皇がその御威光で天上までをも照らす、その日の皇子が御統治なされる、天皇へ御饌を献上する国で、神の風が吹く伊勢の国は、国を眺めると、山を見ると高く貴くあり、川を見るとさやらかで清らかで、船が泊まる湊となる海は広く、見渡す先の島もその名前が有名であり、このことを真に称賛されるのか。また、その名前を口にするのも非常に恐れ多い、山の辺の五十師の原にある宮、その太陽が射し照らす宮で朝廷(みかど)に仕え、朝日の時には真に称賛され、夕日の時には優れて美しく、春山のように若き乙女のごとく生命に溢れて素晴らしく、秋山は色美しく想いに深ける、そのような心を惹かれる沢山の岩を積み上げたような立派な大宮で天皇に仕える人たちは(天皇が統治する)天上の世界や地上の世界、太陽や月とともに永遠であるべきものです。

反歌
集歌3235 山邊乃 五十師乃御井者 自然 成錦乎 張流山可母
訓読 山辺(やまのへ)の五十師(いつし)の御井(みゐ)はおのづから成れる錦を張れる山かも
私訳 山辺の五十師にある御井は、自ら織りあげた錦を広げたような山に向い合うでしょう。
右二首
注訓 右は、二首

 反歌に「自然 成錦乎 張流山可母」とありますから、さぞや美しい黄葉の情景であったと思われます。つまり、歌が詠われた季節は伊勢神宮が黄葉に染まる時期であろうと想像されます。
 ここで、その歌が詠われた時代の推定で、現在の伊勢神宮近辺での紅葉シーズンを確認しますと、観光ガイドなどでは新暦十一月後半から十二月初旬と案内をします。例え現代の温暖化の傾向を踏まえましても、気象や気温の状況は万葉時代と現代とで比べましても通年での平均気温等の状況ほぼ等しいとする研究もあります。従いまして、平安時代とは違い、万葉時代は現代の季節感覚で歌を鑑賞出来ることが保証されます。
 一方、歴史を確認しますと、万葉時代において天皇(又は大王)による伊勢神宮の御幸が確認出来るのは持統六年五月の持統天皇の伊勢国への御幸だけです。他には大宝二年十月十日(702年11月8日)から十一月廿四日(12月21日)の持統太上天皇の三河国巡幸での帰途における伊勢国から伊賀国への通過が確認できます。なお、養老元年十一月十七日(717年12月28日)の元正天皇の美濃国への御幸では往路・復路ともに近江国を使ったとされており、天平十二年の聖武天皇の藤原広嗣の乱での東国御幸と呼ばれる伊勢、美濃、近江国への放浪では、伊勢国壱志郡に置いた河口頓宮から奉幣使を伊勢皇大神宮に派遣をしていますが、天皇自身は伊勢神宮には御幸をしていないと推定されています。その代理となる奉幣使少納言従五位下大井王の派遣は『続日本紀』には十一月三日(740年11月30日)とあります。
 ここで聖武天皇の東国御幸と称される放浪時代に創られた歌を見てみますと次のようなものがあります。

<伊勢国河口行宮での家持の歌一首>
集歌1029 河口之 野邊尓廬而 夜乃歴者 妹之手本師 所念鴨
訓読 河口(かはくち)し野辺(のへ)に廬(いほ)りに夜の経(ふ)れば妹し手本(たもと)し念(おも)ほゆるかも
私訳 河口の野辺に仮の宿りをして、夜が更けていくと奈良の京に残した愛しい貴女の手枕をしきりに思い出します。

<伊勢国狭残行宮での家持の歌二首>
標訓 狭殘(さざ)の行宮(かりみや)の大宮(おほみや)にして大伴宿祢家持の作れる謌二首
集歌1032 天皇之 行幸之随 吾妹子之 手枕不巻 月曽歴去家留
訓読 天皇(すめろぎ)し行幸(みゆき)しまにま吾妹子(わぎもこ)し手枕(たまくら)纏(ま)かず月ぞ経にける
私訳 天皇の行幸に従って、私の愛しい恋人の手枕を抱かないままに月が経ってしまった。

集歌1033 御食國 志麻乃海部有之 真熊野之 小船尓乗而 奥部榜所見
訓読 御食国(みけつくに)志摩の海部(あま)ならし真(ま)熊野(くまの)し小船(をふね)に乗りに沖辺(おきへ)榜(こ)ぐ見ゆ
私訳 天皇の食卓を支える国である志摩の漁師なのだろうか。立派な熊野造りの小船に乗って沖合いを船を操って行くのが見える。

<美濃国多藝行宮での家持の歌一首>
大伴宿祢家持作謌一首
標訓 大伴宿祢家持の作れる謌一首
集歌1035 田跡河之 瀧乎清美香 従古 宮仕兼 多藝乃野之上尓
訓読 田跡川(たとかは)し瀧(たぎ)を清(きよ)みか古(いにしへ)ゆ宮(みや)仕(つか)へけむ多芸(たぎ)の野し上(へ)に
私訳 田跡川の激流が清らかだからか、古くから行宮を立ててきたのだろう、この多芸野の地に。

 集歌1032や集歌1033の歌の標題に出て来る狭残行宮は朝明行宮(三重県四日市市松原)の別称とする案もありますが、集歌1033の歌の内容から推定して志摩国佐佐夫江宮(ささふえのみや;現在の三重県多気郡明和町大淀)ではないかとの説もあります。ただし、「志摩国佐佐夫江宮」説に対しては、集歌1033の歌は船体に特徴ある熊野の船を見つけただけであるから、この歌だけで地名を限定出来ないとする反論もあります。その反論では『万葉集』に載る順序と『続日本紀』に載る御行の行程とを比較・参照しなければいけないとします。ちなみに『続日本紀』に載る御行の行程は次のようになっており、聖武天皇が伊勢神宮方面を訪れた記録はありません。なお、記録では赤坂頓宮から朝明郡家への移動の間に六日ほどの空白の期間があり、また『続日本紀』に載る記事に日付の乱れがありますので現在に伝わる『続日本紀』での記録に無い行動があった可能性は否定出来ません。

<続日本紀に載る行程と宿泊地>
平城京→大和国山辺郡竹谿村堀越頓宮→伊賀国名張郡家→伊勢国壱志郡河口頓宮→伊勢国壱志郡家→伊勢国鈴鹿郡赤坂頓宮→伊勢国朝明郡家→伊勢国桑名郡石占頓宮→美濃国当伎郡家→美濃国不破郡不破頓宮→美濃国坂田郡横川頓宮→近江国坂田郡犬上頓宮→近江国蒲生郡家→近江国野洲頓宮→近江国志賀郡禾津頓宮→山背国相楽郡玉井頓宮→恭仁宮

 一方、「志摩国佐佐夫江宮」説を唱える場合は、当時、伊勢神宮の斎宮寮は神宮外宮の北方にあたる多気郡にあり、大伴家持は、当時、そこに住まわれている伊勢斎王井上内親王の許を聖武天皇の命令で訪れたのではないかと推定します。ある種の別行動説となります。
 ここで可能性ですが、十一月三日に少納言従五位下大井王が伊勢神宮を聖武天皇の名代として参拝をした折、大伴家持が臣下を代表する形で集歌3234の長歌を詠った可能性はあるかもしれません。その時、集歌1032と集歌1033の歌二首は伊勢神宮参拝の時に詠った私的な歌となるでしょうか。歌二首の内容からしますと公的な捧呈歌にはならないと考えます。

 さても『万葉集』と伊勢神宮との関係は不思議です。確かに『万葉集』に伊勢の国を詠う歌はありますが、伊勢神宮を詠う歌は紹介した長歌二首だけです。何か他の歌が万葉集中にありそうですが、ありません。
 大和の古風では特別に神聖な場所では歌舞音曲は禁止が伝統であり、その中でも皇大神宮(俗称、伊勢神宮内宮)は近代まで厳格に歌舞音曲の禁止が守られて来たとします。そうした場合、忌諱の関係から伊勢神宮を詠う歌は創られなかったのかもしれません。それが背景なのか、集歌162の長歌は天武天皇を示唆するだけですし、集歌3234の長歌は天皇の統治とそれを補佐する臣下群を詠うとも取れます。婉曲に神宮を詠うと云う姿でしょうか。
 場合により、国見儀礼での国誉めや地祇誉めなどは地上を統治する天皇の承認の下、行われる行為としますと、その天皇の皇祖を祀る伊勢皇大神宮はそのような行為を超越した存在であると国家神道として定義付けられていたのかもしれません。建前として大嘗祭を執り竟えた天皇は現御神でありますから、皇祖とは一身同心となります。この理論では臣下が伊勢皇大神宮を誉めることは天皇を誉めることと同等になりますから、それは「下か上への行為」となり、そのような行為は出来なくなります。ちょうど和歌で詠う「桂文 忌之伎鴨(かけまくも ゆゆしきかも)」であり、「决巻毛 綾尓恐 言巻毛 湯々敷有跡(かけまくも あやにかしこしいはまくも ゆゆしくあらむと)」の世界です。天皇の命令がなければ詠うことも出来ないと云う世界です。

 色々と空想に遊びましたが、伊勢神宮を詠う歌は日本人では忌諱すべきことなのかもしれません。

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