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竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
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万葉集「紫」を鑑賞する

2010年12月18日 | 万葉集 雑記
万葉集「紫」を鑑賞する

 万葉集の短歌の中から「紫」に関係する歌を、次のように集めてみました。
 ここで面倒な話ですが、この「紫」に関係する歌を鑑賞する時に、歌での言葉の「紫」を色彩と捉えたとすると、その色が持つ意味に対する約束を確認する必要があります。このように勿体ぶりますと多くの人が気付かれますように、近世以前の社会では「紫」の色彩は高貴なものを象徴する色でありますし、律令でその使用が制限された色でもあります。つまり、律令で使用が制限された色であることから、古代・中世では歌に歌われた「紫」の色彩の使用状況を調べることで、それに関係する人々の身分や立場が推定できることになります。
 日本の正史から見ますと、推古天皇十六年八月の隋からの使者裴世清を出迎える皇族・王族が紫服を着たのが最初で、律令体系では大化三年の七色一十三階の制度で冠と官服の規定が最初に位置します。この大化三年の七色一十三階から持統四年の授冠位・朝服の規定までは、おおむね紫服は皇族・王族が着用する色です。その後、大宝元年の皇族・王族十八階及び諸臣三十階の制度の制定になって初めて、諸臣三位以上の者が赤紫の官服の着用をすることが許されています。
 この官服の規定から、万葉集の歌を楽しむときには、額田王や人麻呂の時代では紫の衣服を着用するのは皇族・王族に限られ、大王(天皇)直系が深紫、王族が浅紫を使用します。その後、万葉集では大伴旅人や坂上郎女の時代まで下って来てやっと、官位三位以上の大官が赤紫の官服の着用を許されるのです。このような歴史背景があるために紫色は高貴な人を暗示しますから、赤紫の官服を着用する人の位が高いことを意味する「名の位置が高い=名高」のような言葉が生まれています。そこから「紫の名高い」と枕詞が生まれたとされています。
 さて、このような紫の言葉の約束事から、次の万葉集の歌を鑑賞して見ました。

集歌21 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
訓読 紫草(むらさき)の色付(にほへ)る妹を憎くあらば人嬬(ひとつま)故に吾(あ)が恋ひめやも
私訳 紫の衣を美しく着る高貴な貴女を帝と同じように慕わない人はいません。貴女は帝の皇后ですから私を始め皆がその慕う気持ちを表さないのです。

 この歌は普段の解説では有名な蒲生野での額田王と大海人皇子(後の天武天皇)との相聞歌となっていますが、実際は歌の分類は雑歌ですから蒲生野での宴の歌と解釈するのが相当ですし、その宴では天皇、倭皇后等の多くの人々が参加しています。もしここで大化三年の七色一十三階が正しい正史としますと、その宴で深紫の官服を着るのは天智天皇と倭皇后となるでしょう。そうしますと、その歌の世界は変わってきます。

 ここからは万葉集に載る順とはまったく関係のない、自由な妄想での歌々の鑑賞です。

紫と橘
 次の歌々は、ある特定の男女の関係を詠ったものとして鑑賞しています。酔論ですが、秘めた恋として諸兄と坂上郎女との関係を眺めています。

集歌395 詫馬野尓 生流紫 衣染 未服而 色尓出来
訓読 詫馬野(つくまの)に生(お)ふる紫草(むらさき)衣(きぬ)に染(そ)めいまだ着ずして色に出でにけり
私訳 詫馬野に生えると云う紫草で衣を目も鮮やかに染め上げ、それを未だに着てもいないのに、色鮮やかな衣を着たように、はっきりと人の目についてしまったようです。

集歌569 辛人之 衣染云 紫之 情尓染而 所念鴨
訓読 唐人(からひと)の衣(ころも)染(そ)むといふ紫(むらさき)の情(こころ)に染(そ)みて念(おも)ほゆるかも
私訳 唐の人が衣を染めたと云う紫色の、その紫色のように気高い貴方の思いに心を染(し)みて恋い慕います。

集歌1340 紫 絲乎曽吾搓 足檜之 山橘乎 将貫跡念而
訓読 紫(むらさき)の糸をぞ吾が搓(よ)るあしひきの山(やま)橘(たちばな)を貫(ぬ)かむと念(おも)ひて
私訳 この紫色の糸を私が紐に撚る。葦や桧の生える山の芳しい山橘の実をりっぱな紫色の紐に刺し貫こうと願って。

集歌1392 紫之 名高浦之 愛子地 袖耳觸而 不寐香将成
訓読 紫(むらさき)の名高(なたか)の浦の真砂子(まなこ)土(つち)袖のみ触れて寝(ね)ずかなりなむ
私訳 高貴な色として名高い紫の、その名高の入り江の真砂子の土、その愛しい貴女の袖だけを触れ合わすだけで共寝をしないで終わるのだろうか。

集歌1396 紫之 名高浦乃 名告藻之 於礒将靡 時待吾乎
訓読 紫(むらさき)の名高(なたか)の浦の名告藻(なのりそ)の礒に靡かむ時待つ吾を
私訳 高貴な色として名高い紫の、その名高の入り江の名告藻が磯で打ち靡く、その「名を名乗らないで」と云う貴女が気持ちを私へと打ち靡く時を待つ私です。

身分違いの恋
 ここから以下に紹介する歌は、巻十に載る歌であることから人麻呂時代のものではないでしょうか。その前提で、人麻呂時代の皇太子に準じる人とある女性との歌の交換のような世界を想像して歌を鑑賞しています。妄想で、舎人親王と舎人娘女との関係は、一つのテーマでしょうか。

集歌1825 紫之 根延横野之 春野庭 君乎懸管 鴬名雲
訓読 紫(むらさき)の根延(は)ふ横野(よこの)の春野(はるの)には君を懸(か)けつつ鴬鳴くも
私訳 紫草の根を延ばす横野にある春の野には、紫の高貴なあの人(鳴鶯=ていおう)を心に思い浮かべながら、鶯が鳴くよ。

集歌2780 紫之 名高乃浦之 靡藻之 情者妹尓 因西鬼乎
訓読 紫(むらさき)の名高(なだか)の浦の靡き藻の心は妹に寄りにしものを
私訳 高貴な色として名高い紫の、その名高の入り江で波に靡く藻のように、私の寄せる心は愛しい貴女に靡き寄ってしまいました。

集歌2974 紫 帶之結毛 解毛不見 本名也妹尓 戀度南
訓読 紫の帯の結びも解きもみずもとなや妹に恋ひわたりなむ
私訳 紫に染めた私の帯の結びも解くことも、その機会がない。このまま成就の確証もなく愛しい貴女に恋し続けるのでしょう。

集歌2976 紫 我下紐乃 色尓不出 戀可毛将痩 因乎無見
訓読 紫の我が下紐(したひも)の色に出でず恋ひかも痩(や)せむ縁(えにし)を見なむ
私訳 紫に染めた私の下紐の色のように、はっきりと態度には顕わさず。恋なのでしょうか。私は物思いに痩せるでしょう。貴女との縁を見出せなくて。

集歌2993 紫 綵色之蘰 花八香尓 今日見人尓 後将戀鴨
訓読 紫のまだらの蘰(かづら)花(はな)はなやかに今日見し人に後(のち)恋ひむかも
私訳 紫色にまだらに染めたような藤蘰。その藤の花がはなやかであるように、艶やかな今日出会ったあの人に、この後、恋い焦がれるでしょう。

集歌3099 紫草乎 草跡別々 伏鹿之 野者殊異為而 心者同
訓読 紫草(むらさき)を草と別(わ)く別く伏す鹿の野は異(こと)にして心は同じ
私訳 紫草のその紫を高貴として野の草と区別して伏す鹿のように、住む野(身分)は違うけれど、思いは同じです。

普段の人々の謌
 以下の歌は、紫の言葉や紫草の使い方に由来する歌として鑑賞しています。歴史や高貴な意味合いは歌には込められていないと思っています。

集歌3101 紫者 灰指物曽 海石榴市之 八十衢尓 相兒哉誰
訓読 紫は灰(はい)さすものぞ海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に逢へる子や誰れ
私訳 紫に染めるときに染め液に椿の灰を入れるものです。その海石榴市の、多くの道が集まる辻で出会ったあの子は、誰でしょうか。

集歌3500 牟良佐伎波 根乎可母乎布流 比等乃兒能 宇良我奈之家乎 祢乎遠敝奈久尓
訓読 紫草(むらさき)は根をかも竟(を)ふる人の子の心(うら)愛(かな)しけを寝(ね)を竟(を)へなくに
私訳 紫草は根までも使い終える。その言葉のように「寝までも終える」人の子が心から愛しいのに、その子と共寝を遂げられない。
注意 この歌は、未通女が腰巻祝いを行い成人の女性になったときの歌と解釈しています。そこで、歌の「人の子」は人妻を意味しません。

集歌3870 紫乃 粉滷乃海尓 潜鳥 珠潜出者 吾玉尓将為
訓読 紫(むらさき)の粉滷(こうりょ)の海に潜(かづ)く鳥玉(たま)潜(かづ)き出ば吾が玉にせむ
私訳 筑紫の鴻臚の海で潜る鳥よ、珠を海に潜り探し出てきたら私の珠にしましょう。

妄想その一
 次の集歌410と集歌411との歌が天平五年から七年頃に詠われたとしますと、従三位葛城王(橘諸兄)と大伴坂上郎女とはひそやかな恋愛関係があったのではないかと推定されます。橘と紫で暗示される人物を想像して、もう一度、先に紹介した歌を鑑賞していただくと、普段に鑑賞する訓読み万葉集の世界とは違う世界が楽しめるのではないでしょうか。

大伴坂上郎女橘謌一首
標訓 大伴坂上郎女の橘の歌一首
集歌410 橘乎 屋前尓殖生 立而居而 後雖悔 驗将有八方
訓読 橘を屋前(やど)に植ゑ生(お)ほし立ちて居(ゐ)て後(のち)に悔(く)ゆとも験(しるし)あらめやも
私訳 橘を家に植えて、それを育て上げた後にそれを悔いても形として表に現れることはありません。
呆訳 橘の公の私への愛を受け止めて、その愛情を私の心の中で育てた後になにがあっても、私の心に悔いがあったとしても貴方を責めたり表立って騒ぎ立てることはありません。

和謌一首
標読 和(こた)へたる歌一首
集歌411 吾妹兒之 屋前之橘 甚近 殖而師故二 不成者不止
訓読 吾妹子の屋前(やど)の橘いと近く植ゑてし故(ゆへ)に成らずは止まじ
私訳 私の愛しい貴女の家に橘をとてもすぐそばに植えたのですから、実を成らさせずにはおきません。
呆訳 私の愛しい貴女が、私の貴女を愛する思いを深く受け止めてくれたのですから、その愛の実を成らせずにはおきません。

妄想その二
 万葉集には後の知太政大臣となり政府首班に位置した舎人親王と舎人娘子との恋愛を扱った歌々が載せられています。
 この舎人娘子の恋の歌が万葉集には、あちらこちらに埋め込まれていますから、時代として、二人の仲は有名だったようですし、舎人娘子は才能豊かな女性であったと歌の世界から推察されます。

舎人皇子御謌一首
標訓 舎人皇子の御歌一首
集歌117 大夫哉 片戀将為跡 嘆友 鬼乃益卜雄 尚戀二家里
訓読 大夫(ますらを)や片恋せむと嘆けども鬼(しこ)の大夫(ますらを)なほ恋ひにけり
私訳 人の上に立つ立派な男が心を半ば奪われる恋をするとはと嘆いていると、その人の振る舞いを嘆いたこの頑強で立派な男である私が貴女に恋をしてしまった。

舎人娘子奉和謌一首
標訓 舎人娘子の和(こた)へ奉(たてまつ)れる歌一首
集歌118 嘆管 大夫之 戀礼許曽 吾髪結乃 漬而奴礼計礼
訓読 嘆きつつ大夫(ますらを)の恋ふれこそ吾が髪結(かみゆひ)の漬(ひ)ぢてぬれけれ
私訳 恋を煩う人を何たる軟弱と嘆く一方、立派な男子である貴方が私を恋して下さるので、私の髪を束ねた結い紐も濡れて解けたのです。

妄想その二の関連歌
舎人娘子雪謌一首
標訓 舎人(とねりの)娘子(おとめ)の雪の謌一首
集歌1636 大口能 真神之原尓 零雪者 甚莫零 家母不有國
訓読 大口(おほくち)の真神(まかみ)の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに
私訳 大口の真神の野原に降る雪は、そんなにひどく降らないで。貴方が途中で宿るような家がないので。

関連歌その二
集歌3268 三諸之 神奈備山従 登能陰 雨者落来奴 雨霧相 風左倍吹奴 大口乃 真神之原従 思管 還尓之人 家尓到伎也
訓読 三諸の 神奈備山ゆ との曇り 雨は降り来ぬ 雨霧(あまき)らひ 風さへ吹きぬ 大口(おほくち)の 真神(まかみ)の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家(いへ)に至りきや
私訳 三諸の神が宿る神奈備の山から次第に曇って来て、雨は降って来た。霧雨に風も吹きつのってきた。大口の真神の原を通って昨夜の私とのことを思い浮かべながら帰って行った貴方は、濡れずに家に辿り着いたでしょうか。

反歌
集歌3269 還尓之 人乎念等 野干玉之 彼夜者吾毛 宿毛寐金手寸
訓読 帰りにの人を思ふとぬばたまのその夜は吾れも眠(ゐ)も寝(ね)かねてき
私訳 貴女と共寝した帰りに貴女のことを想うと、ぬばたまの実のような漆黒の夜に野を通って帰って行った、その日の夜は私も貴女とのことを想うと寝ることが出来ないでしょう。
右二首

参考資料
 漢語の「高名」の用語で、身分が貴いの意味合いで使われた例を万葉集の集歌1009の歌の左注に見つけています。素人ながら漢語の「高名」と和語の「名高い」は、同じ意味使いと考えています。つまり、万葉集での「名高い」なる言葉の本義は「身分が貴い」の意味合いとしています。「名前が有名である」とは解釈していません。

冬十一月、左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製謌一首
標訓 (天平八年)冬十一月、左大辨葛城王等に姓(かばね)橘氏(たちばなのうぢ)を賜ひし時の御製謌(おほみうた)一首
集歌1009 橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹
訓読 橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の樹
私訳 橘の木は実までも、花までも、その葉までも、枝に霜が降りることがあっても、決して色変わることがない常に緑の葉を保つ樹です。
左注 右、冬十一月九日、従三位葛城王従四位上佐為王等、辞皇族之高名賜外家之橘姓已訖。於時太上天皇、々后、共在于皇后宮、以為肆宴、而即御製賀橘之歌、并賜御酒宿祢等也。或云、此謌一首太上天皇御謌。但天皇々后御謌各有一首者。其謌遺落未得採求焉。
今檢案内、八年十一月九日葛城王等、願橘宿祢之姓上表。以十七日、依表乞、賜橘宿祢。
注訓 右は、冬十一月九日に、従三位葛城王と従四位上佐為王等と、皇族の高名を辞して外家の橘姓を賜はること已(すで)に訖(をは)りぬ。時に太上天皇、皇后、共に皇后宮に在りて、肆宴(とよのあかり)を為し、即り橘を賀(は)く歌を御(おん)製(つく)りたまひ、、并(あわ)せて御酒を宿祢等に賜はりぬ。或は云はく「此の謌一首は太上天皇の御謌なり。但し、天皇と皇后の御謌は各一首あり」といへり。その謌、遺落(いらく)して未だ採り求むるを得ず。
今、案内を檢(かむがふ)るに、八年十一月九日に葛城王等、橘宿祢の姓(かばね)を願ひて表(へう)を上(たてまつ)る。
十七日を以ちて、表の乞(ねがひ)に依りて、橘宿祢を賜へり。

 このように「紫」の言葉に注目しますと、万葉集の歌々を普段に見る訓読み万葉集の世界とは違った世界を、妄想することが出来ると思います。
以上は、素人の酔論です。
 ですが、どなたか教育を受けた奇特なお方によって、この酔論を点検して頂ければ幸いです。詠み人知れずとされる歌々も、場合により、人物を特定する糸口になるのではないでしょうか。教育を受けていない作業員の論を立てられない無能さの悲しさを、お察しください。

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