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竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 六三 伊藤博氏『萬葉集釋注』と柿本人麻呂の生涯

2014年02月15日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 六三 伊藤博氏『萬葉集釋注』と柿本人麻呂の生涯

 万葉集の入門本として有名な解説書に伊藤博氏の『萬葉集釋注』(集英社)と云うものがあります。この釋注本は上製本版と文庫版とがあります。飾るには上製本版全十一巻が善いと思いますが、手軽な入門書とするのであれば伊藤博氏とその御子息伊藤益氏の「多くの読者に萬葉集を物語のように読んでもらい、日本古典のすばらしさをあらためて認識して欲しい」と云う悲願の下に企画された文庫版『萬葉集釋注』がより相応しいのではないでしょうか。ただ、他人に対して見栄えはしません。
 その伊藤博氏の願いである「萬葉集を物語のように読んでもらいたい」と云う趣旨に沿って『萬葉集釋注』に彷徨いますと、伊藤博氏は柿本人麻呂の生涯を、ほぼ、手中に収めておられたのではないかと想像されます。当然、それに気付くには『萬葉集釋注』を丹念に、そして、注意深く、彷徨ことが必要です。権威や地位の象徴のように各種の上製本版の万葉集釈注本や註釈本を、硝子扉を持つ書棚に飾っていただけでは『万葉集』が語りかける明白な事実にも気付かないと思案します。また、語釈を中心に一首ごとに注解を加えることを以って研究としていたのでは、『万葉集』が明確に示す柿本人麻呂の生涯に気付くことはないと、過去の人麻呂研究史が例示するように、断定します。

 大上段にダンビラを振り挙げました。反省する次第です。

 さて、柿本人麻呂の生年は『萬葉集』(日本古典文学大系、岩波書店)を始めとして、多くの註釈書や研究書では柿本人麻呂の生年を大化元年(六四五)前後ではないかと想定します。多数決ではありませんが、これを出発点とします。一方、伝承や推定で人麻呂は和銅三年(七一〇)平城京遷都以前に死んだと考えられています。およそ、これらの推定からしますと人麻呂は六五歳を超えないことになります。ここで、同時代人の参考情報として、柿本朝臣一族の中で正史の載る記録として柿本朝臣佐留が和銅元年(七〇八)年に従四位下の冠位で死亡しています。
 これが前提条件です。
 『萬葉集釋注』を彷徨いますと、巻二に載る人麻呂が詠う集歌二一七の吉備津采女の歌について、北山茂夫氏は近江大津朝時代の作品と推定します。伊藤博氏は近江朝志賀津采女の事件を、なぜ、人麻呂が詠ったのかを吟味すると、一概に虚構説からの近江朝に起きた事件を持統朝になって近江朝の事件当時を今と見なして詠んだ歌とするのは、問題のあるところで、なおいろいろの意見が生じる余地があるとされています。つまり、伊藤博氏は近江大津朝時代の作品説も捨てがたいと考えられていたと思われます。すると、天智八年(六六九)前後の事件としますと、この時、人麻呂は二四歳前後となり、大舎人のような身分で朝廷に仕えていたと推定することが可能となります。
 なお、挽歌と云うジャンルの作品を、どのように評価するかは、その歌を鑑賞する人物の品位に関係することです。人の死に際してその死を悼み、追悼の目的で奉げられるべきものを、酒席の座興の虚構作品と見るか、敬謙に死んだ人を悼む作品と見るかには、人品に大差があります。北山茂夫氏は集歌二一七の吉備津采女の歌は死者を悼む作品と見、一方、虚構説や持統朝頃の作品と見る人は他人の死であれば酒席の座興として弄んで良いとの態度があります。個人的感想で、そのような人の死を弄ぶ態度には賛同は出来ません。それは大人の人間として恥ずべき態度であり、発想です。同様に人麻呂が詠う亡妻悲傷歌を、その整った姿から虚構説を取り、聴衆から求められ作られたものと説くものがあるようですが、その説を解く本人がどれほど賤しいことを述べているか考える必要があります。現代に置き換えれば、自分の妻が死に、その追悼の辞が立派なものであって欲しいと願い、それを整える行為は、それは虚構であり、酒席の座興であると声高に説くのと同じです。人麻呂は持統朝以降の人であると云う主張のために、人間を捨てるのは、さて、どうしたものでしょうか。
 次に『萬葉集釋注』から人麻呂歌集の歌の解説を拾いますと、天武九年(六八〇)に巻十に載る集歌二〇三三の七夕の歌が詠われています。この時、推定で人麻呂は三五歳となります。伊藤博氏は「人麻呂歌集」七夕歌について、「第一~第四群の編纂はおよそ人麻呂自身によるものに相違ないこと、のみならず、その歌詠には人麻呂自身が中心的存在としてかかわっており、その中には人麻呂一人で織り成した歌群もあるかもしれない」と注目されています。つまり、伊藤博氏は集歌二〇三三の七夕の歌は人麻呂の作品と考えられています。
 そうしたとき、歌の題材となった牽牛・織姫の七夕伝説は大陸からもたらされた中国神話が下になっていますし、大陸を模倣した新たな宮中行事での一貫としてこれらの歌が詠われたのですと、人麻呂はそのような最先端の文化に接する立場にあったと云うことになります。その宮中で開かれた七夕を祝う宴会で座敷に座る人間か、庭に座る人間かと問うとき、漢詩作詠の世界からすると可能性としては座敷に座る人間であったとするのが素直ではないでしょうか。
 次に持統称制三年(六八九)に人麻呂は草壁皇子の挽歌を詠っています。この時、およそ、四四歳前後となります。天皇即位直前の皇太子の死亡に際しての朝廷を代表しての挽歌の奏上ですから、それ相当の地位にあったのではないでしょうか。この歌は有名ですから、紹介することなく、先へ進みます。
 人麻呂は持統五年(六九一)の泊瀬部皇女に献じる挽歌、また、持統六年には伊勢御幸に際した歌を残しています。歌を献じる相手や重要な朝廷の行事に際して詠う歌が残ることからして、この時も、人麻呂は朝廷のある程度の地位にあったと考えられます。これらの歌は『万葉集』のままですから、一般の者であっても非常に判り易い歌です。特段の注意は必要ありませんし、先行する註釈書はふんだんにありますから、それら色々なものを紹介するだけでも論の形は整えられます。
 さらに『萬葉集釋注』を彷徨いますと、ハッとする解説に出会います。それが巻三に載る集歌四一七から集歌四一九の三首に対するものです。標題では手持女王の作品となっていますが、伊藤博氏は歌群の構成力、題材を古事記神話に取る姿、また、歌の内容と作歌者とされる手持女王の名との平仄が合う姿などから、背後に人麻呂の姿を想像されています。この三首は大宰師として大宰府に赴任していた河内王が任地で亡くなったときのもので持統八年(六九四)のものとなります。人麻呂歌集にはこの手持女王の作品三首と同じ時期、同じ場所で詠われたのではないかと思われる作品があります。それが、集歌三一二九と集歌三一三〇の歌です。もし、河内王の葬送の儀式に朝廷の使者として人麻呂が遺贈位と賻物を携えて藤原宮から大宰府へ赴いたのですと、大伴旅人の妻 大伴郎女が大宰府で死亡した折りには正五位下相当の式部大輔石上朝臣堅魚が朝廷の使者として葬儀参列に赴いていますので、人麻呂もまたそれ相当の地位にあったと推測されます。正五位下相当ですと、人麻呂時代では直広参の冠位を持つ勅使と云うことになります。持統八年は人麻呂の年齢ではおよそ五十歳前後のことです。
 持統十年(六九六)に人麻呂は高市皇子の挽歌を奏上しています。この作品は『万葉集』最大の長歌ですので、改めて紹介する必要はないと考えます。この時、人麻呂は五二歳前後です。
 時代を降りますと、人麻呂は文武四年(七〇〇)に明日香皇女の挽歌を献上しています。この作品も有名ですので、内容は端折ります。歌は、人麻呂、五五歳前後の作品です。
 その明日香皇女の挽歌を献上した翌年となる大宝元年(七〇一)、巻二に載る集歌一四六の歌を人麻呂の作品と考えますと、人麻呂は紀伊国への御幸に随伴したと思われます。標題が後年に付けられたものであるから集歌一四六の歌が人麻呂ではないと云う論議があったとしても、巻九に載る集歌一七九六から集歌一七九九までの四首の作品から、人麻呂が大宝元年の紀伊国への御幸に随伴したのは動きません。このように、まだまだ、『万葉集』の中に宮中行事に対する人麻呂の足跡を辿れます。
 さて、『萬葉集釋注』では、巻三に載る石田王への挽歌、集歌四二〇から集歌四二五までの六首に対する釋注が行われています。この集歌四二三の歌に対して、伊藤博氏は「左注によれば、一首は人麻呂の作だという。これは、人麻呂が山前王に代わって作ったことから起こったものとも、山前王の原案を人麻呂が修正したことから起こったものとも考えられる。歌柄からは後者と見るのがおだやかであろう」と述べられています。一方、この集歌四二三の歌に対して中西進氏は『万葉集全訳注原文付』の脚注で、「山前王は忍壁皇子の子で、人麿は皇子に献歌しているから、山前王の代作をしたことは十分考えられる」と述べられています。つまり、伊藤博氏と中西進氏とは代作、または原案の添削かは別として、この歌に人麻呂の関与を認めています。
 では、山前王が石田王へ挽歌を贈ったのは、いつのことかと云うと、中西進氏は『万葉集全訳注原文付』の「万葉集事典」では石田王の死亡時期を和銅四年(七一一)頃と見立てています。一方、伊藤博氏は持統晩年(六九七)頃と見立てていますので、およそ、十五年前後の開きがあります。他方、山前王と石田王とが親しい関係で似たような年齢であったのではないかとしますと、山前王は慶雲二年(七〇五)に無位から従四位下に叙位されていることから天武十三年(六八四)の生まれと想定されます。石田王へ挽歌には男女の恋愛の様子が詠い込まれていますから、死亡した時は成人した男性であったと思われます。やはり、中西進氏が想定する和銅年間の方が相応しいと考えます。
 すると、人麻呂は石田王へ挽歌が詠われた時、生きており、さらに、和銅年間頃までは皇族と親しい関係が保たれていたと考えねばなりません。人麻呂の生涯を検討する時、紹介しました歌々での人麻呂の姿を外すことは出来ません。およそ、時代性から高貴な皇族と令外の遊行詩人が長期に渡り親しく交友を持つとは思えませんし、また、どのような処遇で遊行詩人が御幸に随伴し歌を献じたかを説明するのは困難でしょう。さらに、持統六年頃に朝廷から追放され、放浪するようになったとの説もまた、『万葉集』に載る歌からすると受け入れられるものではありません。

 駆け足で、伊藤博氏『萬葉集釋注』と柿本人麻呂の生涯の関係を紹介しました。柿本人麻呂の人生は謎だと称しますが、『万葉集』では謎ではありません。近江大津京の天智朝から平城京の元明朝まで、人麻呂は常に朝廷や皇族と共にあったことが判りますし、河内王への葬送儀礼を考慮しますと持統八年(六九四)の時点で直広参(正五位格)の冠位を持つ官人であった可能性があります。つまり、柿本朝臣人麻呂と柿本朝臣佐留とは重なって来るのです。
 『万葉集』を物語のように読むと人麻呂の生涯は、明確に『万葉集』の中に示されます。みなさん、是非、一度、伊藤博氏の『萬葉集釋注』に彷徨って下さい。きっと、新たな発見があるはずです。ただ、『万葉集』の専門家は多忙なため、『萬葉集釋注』の中身を検討することも『万葉集』の全歌を丁寧に鑑賞する暇はないのでしょう。唯一、それが可能なのは『万葉集』を趣味とする一般の社会人や学生だけです。繰り返しますが、伊藤博氏の『萬葉集釋注』と中西進氏の『万葉集全訳注原文付』とを併せ読むだけでも、人麻呂の生涯の概況は確定します。もう、柿本人麻呂は謎な人物ではありません。あとは、ミッシングリングを集中に見つけ、補うだけです。
 さあ、『万葉集』を楽しみましょう。

 お詫びとして、今回は、伊藤博氏『萬葉集釋注』と柿本人麻呂の生涯の関係を中心としたため、その関係する歌自体を紹介しませんでした。その無精さと横着さについてはご勘弁を願います。


 追記して、「職業人としての柿本人麻呂」の題名を持つブログ本に関して市販用にと全二十五冊をアマゾン様に預けましたが、いくらでも在庫があると云う表示からすると、結局、ほとんど売れませんでした。誠に恥ずかしい次第です。以前のように半年の後に、全部、自己回収して始末を付けなければいけないようです。
 また、本の内容から人麻呂との縁があると思って、その所縁がある各地の図書館に寄贈しましたが、受け取って頂いたのは二カ所だけで、後の図書館の書司様からは「ゴミ」を送るなと叱られてしまいました。穴があったら隠れたい、また、顔から火が出るような恥ずかしいことをしてしまいました。ただ、自分のものが「ゴミ」と断定されたことには、恥ずかしさとともに辛いものがあります。
 しかしながら、指弾されましたように自己の勉強不足に、ただ、ただ、反省、また、反省です。いつかは、図書館書司様に受け入れて頂けるものを成したいものです。

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