竹取翁と万葉集のお勉強

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明日香新益京物語 壬申の乱 不破の関

2014年02月16日 | 実験 小説で万葉時代を説明する 
壬申の乱 不破の関

 六月二十八日、近江朝廷は大海人皇子を討伐のためにその精鋭の兵二万四千で三軍団を編成し、山科駐屯地から出撃させた。総軍司令で後軍の将軍は山部王、前軍将軍は巨勢臣比等、中軍将軍は蘇我臣果安である。出撃と同時に前軍将軍巨勢臣比等は、百済からの亡命貴族で構成する騎馬集団を偵察のため東山道を先駆けさせた。
 この時点では、倭国や河内国は平穏を保っている。近江朝廷は地場の豪族による反乱の防止と朝廷軍の軍装を整える目的で倭国の各所にある旧宮の武器を公収することを決めた。その目的で、倭に穂積臣百足、穂積臣五百枝や物部首日向たちを送った。
 二十九日、近江軍の精鋭でなる騎馬隊が不破関の北方にある玉倉部邑の強行突破を試みた。
 和珥部臣君手が指揮する美濃勢が、これを阻止する。小者を引き連れた美濃の豪族たちは巻狩りのような体制で戦闘を行う。これに対して戦闘を本業とする百済貴族たちで成る騎馬隊は、馬上から弓を射、太刀をかざして突進する。君手が率いる美濃の豪族たちは出身の里人毎に固まり、巻狩りかのようにあちこちに散開して布陣している。その間隙をたちまちに突破された。
 玉倉部邑から、およそ三里(里は律令の支那里=500m)後方の和射見の高市皇子の陣にも、この異変が聞こえた。とたん、高市皇子の将軍村国連男依は、武勇で鳴る出雲臣狛と倭の騎馬兵を急行させた。百済貴族の騎馬隊は出雲臣狛が率いる騎馬兵に行く手を押さえられ、また、君手が指揮する美濃勢が応援を得て息を吹き返し側面から弓で応戦することに辟易した。大海人皇子軍の兵の密度が急速に高まるのを見た近江の騎馬隊は、ここで威力偵察の続行を止め、元来た道へと引き上げていった。
 翌三十日、百済貴族の騎馬隊の頭は野洲で東山道を北上する前軍将軍巨勢臣比等に偵察の報告をした。
「敵の主力は、不破にいる」
「敵の軍の構成は太刀を扱える勇者一人に小者数名が従う、倭の古風だ。その小者たちは太刀を持たず、堅い棒と弓で武装している。場合によっては小石が武器である。その為、騎馬兵に添え、甲羅を着、太刀を持った兵が組となり突進すると、非常にもろい」
 巨勢臣比等は、ほぼ、予想通りの報告に満足した。ただ、東山道を北上する朝廷軍への北近江の豪族たちの参戦の動きが鈍い。これが気掛かりであった。朝廷軍の先駆けとなる前軍が淡海東岸の東山道を進軍中、中近江の羽田公矢国は一族を上げて参戦して来た。ところが、北近江の豪族どもは、未だ、参戦にやって来ない。鍛冶の里と高市皇子の室に娘を入れた坂田公の関係を思うと、北近江の豪族どもの参戦の鈍さが気掛かりであった。

 先鋒を執る巨勢臣比等は、威力偵察の報告を下に総軍司令山部王や中軍将軍蘇我臣果安と今後の戦略を談合し、そして今後の作戦を決めた。
1、 前軍将軍巨勢臣比等の兵八千は、不破関に向け進軍する
2、 中軍将軍蘇我臣果安の兵八千は、浅井で巨勢比等の支援と北近江の豪族たちの動きに備える。その後、巨勢比等の進撃に合わせ、軍を進める。
3、 総軍司令山部王の兵八千は、犬上川の西岸に陣を置き、後詰を行うと共に大津唐崎の湊からの糧食、弓矢の海上補給路を確保する。その後、巨勢比等の進撃に合わせ、軍を進める。
4、 尾張国司守小子部及び尾張国造大隅と連絡を取り、大海人皇子の背後を脅かす。

 同じ二十九日、倭で近江朝廷の百済人に反発する豪族たちが大海人皇子に味方し、兵を上げた。
倭での反乱軍の将、大伴連吹負は大伴連安麻呂、坂上直熊毛、坂上直老、秦造熊、佐味君宿那麻呂たちと飛鳥寺にある近江朝廷の兵舎を襲った。兵員はわずかに勇者が数十人、それに従う小者およそ百人、総勢二百人にも足らないゲリラ攻撃のような襲撃であった。そのゲリラ攻撃のような一撃で飛鳥にある朝廷の兵舎を制圧したことで、様子見を決め込んでいた他の豪族たちが、続々と大伴吹負の下に集まって来た。
 吹負は飛鳥占領の報告の使いを美濃野上の大海人皇子の下に送るとともに、伊賀の東道将軍紀臣阿閉麻呂との連携を図るために金綱井(桜井市金屋付近)に本陣を置いた。
 近江朝廷は翌日になって旧宮である飛鳥岡本宮などの飛鳥の地、一帯が大伴吹負たちにより占領されたことを知った。蘇我赤兄や中臣金は協議の上、大友王の承認を得て、急遽、山科と難波に残る新羅討伐軍を、倭の制圧へ向かわせることを決めた。朝廷は山科の軍団指令と補佐に犬養連五十君と廬井造鯨を、難波の軍団指令と補佐に壱伎史韓国と来目臣塩籠を指名した。

 七月二日になって、東山道軍団の再編成と簡単な訓練を終えた東山道将軍高市皇子の軍団が不破関から前進し、防御に有利な息長横河(米原市柏原梓河内)に布陣した。
 この時点で、高市皇子は近江朝廷が派遣した精鋭二万四千の兵に羽田公矢国の勇者二千を加えた軍団が東山道を北上中との情報を坂田公雷から得ていた。掻き集めて一万五千の高市皇子は、近江と美濃との国境の要所である、息長横河に陣地を構え、近江朝廷の軍団の襲来に備えた。
 また、同時に大海人皇子に味方する北近江の豪族たちの束ねである坂田公雷には横河の北方に待機し、狼煙に合わせて騎馬で近江軍の横腹を突くことを申し合わせた。坂田公雷は徒歩の弓使いや小者を高市皇子の東山道軍団に合流させ、騎馬の勇者だけで突撃隊を編成した。

 三日、近江軍が犬上川(犬上郡甲良町金屋付近)の西岸に姿を見せた。ここから先、東山道は狭隘な山道となる。総軍司令山部王は犬上川西岸に、進撃と軍需物資補給の拠点となる陣地を築いた。そこを拠点に、前軍将軍巨勢臣比等と中軍将軍蘇我臣果安は、その兵を美濃へと進める。
 巨勢比等は行軍の疲れを取るためと前線の偵察の為、兵を犬上川の陣地に留めた。その間、あの百済貴族たちの騎馬隊を威力偵察として浅井、不破方面に出した。翌日、偵察隊は無傷のままで帰ってきた。
「将軍、高市皇子の兵は息長横河に陣地を作り、潜っています。姿からして、多くは田作りの農夫で、太刀を振るうような勇者はわずか」
「陣地の前をうろついても追って来る者、無し」
「兵は少なし。一万はいないであろう」
 近江の将軍山部王、巨勢比等や蘇我果安は、この時点で東国の豪族の中で、特に強硬に新羅討伐を主張していた、その肝心の尾張国造大隅が大海人皇子に寝返ったことも、それによって、尾張国司守小子部が尾張兵二万を大海人皇子の前に投げ出したことを知らなかった。巨勢比等たちは、尾張国司守小子部は尾張で大海人皇子と戦っているか、または、にらみ合って大海人皇子の主力軍を釘付けにしていると想定している。つまり、不破には大海人皇子の主力軍はおらず、ただの陣地防衛隊と考えた。それで、その陣地防衛の部隊を若い高市皇子が率いていると想像し、大海人皇子軍の歴戦の勇者は尾張軍との戦闘で身動きが取れないのであろうと判断した。
 それも当然と云えば当然である。この時、高市皇子は十九歳。その若い高市皇子が近江朝廷の主力軍と戦う。巨勢比等や蘇我果安たちは、一撃すれば若い高市皇子が率いる田作りの農民主体の陣地防衛の兵は粉砕できると考えた。現に、数百騎で成る百済貴族たちの騎馬隊は不破関の北東部の玉倉部邑まで、楽々に進出した実績がある。二万四千の兵が梯団になって進めば、不敗と思った。

 一方、東海道の戦線では、七月四日、東道将軍紀臣阿閉麻呂は伊賀国に布陣を完了した。本陣を名張に置き、近江軍が伊勢街道を辿って伊勢への進撃に備えた。また、副将多臣品治に伊勢・伊賀・倭の騎馬兵三千を預け、遊軍機動部隊として莉萩野に駐屯させた。伊賀の国は伊勢街道の他、甲賀を通じ近江野洲に、信楽を通じ近江草津に、泉川を通じ山科木津に連絡する。近江軍はこのどれをも選択することが出来る。一番、平坦な甲賀道の押さえには田中臣足麻呂の軍を置いているが、いずれかの路に近江軍が現れたら、多臣品治の騎兵三千騎が急行する。
 五日夜半、近江朝廷の別働隊を率いる田辺小隅が甲賀から鹿深山を越えて倉歴(伊賀市柘植倉部)を襲った。東道将軍紀阿閉麻呂の手当てはぎりぎりのところで功を制した。甲賀道を押さえる田中足麻呂の兵は、百済人の精鋭で構成する田辺小隅の兵に陣屋は蹂躙された。田中足麻呂は兵を捨て、多臣品治が駐屯する莉萩野を目掛けて逃げに逃げた。小隅の騎兵は応援を阻止するためにその足麻呂を追った。
 六日の早朝、傷だらけの足麻呂が莉萩野の陣屋に逃げ込んだ。とたん、陣屋は騒然となった、が、もともと、伊勢や伊賀の武勇の者たちで編成された騎馬軍団の呼応は早い。日頃、彼らは里で盗賊達の警備を行い、人食いのオオカミやクマの駆逐をする。戦場の武勇の者たちは、身を整える前に弓を持ち、敵を探し射た。
 やがて、体制を整えた多臣品治が率いる騎馬兵千騎が倉歴を目指して駆けて出して行った。日が高くなる頃、近江朝廷の田辺小隅が率いる軍容が明らかになった。およそ、三百。
 一方、田辺小隅も倉歴の西方、莉萩野から土煙を上げ駆けて来る騎馬集団を見た。ここが限度と、小隅は兵をまとめ、元来た甲賀へと逃げ出した。その後、田辺小隅は甲賀の油日に砦を築き、そこから出ない。また、田中足麻呂も倉歴の陣屋を、さらに固め、近江軍の攻撃に備えた。甲賀道は両軍が睨み合ったまま、膠着状態となった。
 東道将軍紀阿閉麻呂は倉歴で近江軍の急襲にあったが、莉萩野に駐屯する多臣品治の騎馬軍団の威力と即応力に満足した。甲賀道、信楽道、泉川の東海道、奈良道、そして伊勢街道と広範な戦線をこの機動部隊で対応できると確信した。その確信の下、伊賀国で伊勢防衛を主眼とする紀阿閉麻呂は伊賀の名張に腰をどっしりと据えた。

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