万葉雑記 色眼鏡 三四九 今週のみそひと歌を振り返る その一六九
今回はちょっと目先を変えて、奈良時代の中級階級の雰囲気が判る話を取り上げます。
天平勝寶八歳丙申、二月朔乙酉廿四日戊申、太上天皇太皇太后幸行於河内離宮 經信以壬子傳幸於難波宮也 三月七日於河内國伎人郷馬國人之家宴謌三首
標訓 天平勝寶八歳丙申、二月朔乙酉にして廿四日戊申に、太上天皇と太皇太后と、河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)して、信(ふたよ)を經(へ)、壬子を以ちて難波の宮に傳幸(でんこう)したまへり。三月七日に、河内國の伎人(くれひとの)郷(さと)の馬(うまの)國人(くにひと)の家にして宴(うたげ)せる謌三首
集歌4457 須美乃江能 波麻末都我根乃 之多波倍弖 和我見流乎努能 久佐奈加利曽祢
訓読 住吉の浜松が根の下(した)生(は)へて吾が見る小野の草な刈りそね
私訳 住吉の浜松の根の下に生える、私が眺める小野の草を刈らないで下さい。
左注 右一首、兵部少輔大伴宿祢家持
注訓 右の一首は、兵部少輔大伴宿祢家持
注意 原文の「之多波倍弖」の「波」は、標準解釈では「婆」の誤記とし「之多婆倍弖」と校訂して「下延へて」と訓じます。歌意が異なります。
集歌4458 尓保杼里乃 於吉奈我河波半 多延奴等母 伎美尓可多良武 己等都奇米也母 (古新未詳)
訓読 にほ鳥の息長川(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ辞(こと)尽きめやも (古新は未だ詳(つばび)らかならず)
私訳 にほ鳥が息が長い、その言葉のような、息長川は水が絶えたとしても、貴方にお話しする物語は尽きません。
左注 右一首、主人散位寮散位馬史國人
注訓 右の一首は、主人(あるじ)散位寮(さんゐのつかさ)の散位馬(うまの)史(ふひと)國人(くにひと)
歌自体は特別な話ではありません。問題は兵部少輔であった大伴家持を自宅に招いた馬史國人です。それも太上天皇と太皇太后が難波離宮への御出座しの中で警備を担当する兵部少輔による御出座しの行事が終わったあとの訪問です。歌の標題に示すように個人的な休暇中の訪問ではなく、馬史國人から申し出があり朝廷の許しを得ての訪問です。可能性として、太上天皇の難波離宮への御出座しの時に兵馬の提供か、休憩所の提供などの申し出があり、その謝辞を示すために兵部少輔の派遣と思われます。
この馬史國人については、木簡の発掘成果や正倉院文書の解析からすると天平元年頃に舎人で出仕し、天平10年(738年)頃には少初位下の官位を得ています。さらにこの歌が示すように天平勝宝8歳(756年)3月7日時点の官職は散位(官位があるが無職)ですが、その後に不思議なことに勤務実績を持たない散位の立場なのですが天平宝字8年(764年)10月の除目では「馬毘登国人」の名前で従六位上から外従五位下への昇叙となっています。これら記録からすると、彼の官位の昇級速度は標準的な六年ごとの勤務考課によるものではなく、何らかの理由で特進したと考えられます。遣唐使の随員でも、戦争で絶大な武功を立てた記録もありませんから、馬史國人は氏族の名「馬史」が示すように馬の生産者集団の長として財をなし、蓄銭叙位令に従って官位を買ったと考えられます。規定では大初位までは5貫(銭5000文)で一階級、それ以降では従六位上までは10貫(銭10000文)で一階級の昇級が納税により与えられます。ただし、勅許を得ても官位が買えるのは従五位下までです。ちなみに奈良時代の標準的な馬の値段は7貫200文(銭7200文)との報告(経済史的にみたる上代牧馬:佐藤虎雄)がありますから、馬二匹で一階級は買えたことになります。従って馬史國人が馬の生産者集団の長だったら官位を買うことは難しい話ではありません。
馬史國人は大金持ちですし、馬生産者であれば、武闘派一族である大伴・佐伯一族を率いる大伴家持としても関係性を持つことには意義があることでしょう。また、家持は兵部少輔と云う役職の人ですから朝廷として兵馬を購入する責任者の立場でもあります。
このような関係でしょうか。集歌4457の歌では馬を飼うために大量な草を刈っている風景を詠ったのでしょう。また、この時代、貴族は競って良馬を求めたようで馬を所有する数について養老五年にはそれを制限する詔が出ています。ある種の馬バブルで大儲けした一族を代表する人物と推定されます。
特別な歌ではありませんが、唐突に万葉集に載る人の背景を探りますと、このような調べで遊ぶことができます。ただ、巻十七以降の歌に秀歌を探すのは野暮な話です。この歌二首は単に利害関係者が持った宴での儀礼的な挨拶歌だけです。
今回はちょっと目先を変えて、奈良時代の中級階級の雰囲気が判る話を取り上げます。
天平勝寶八歳丙申、二月朔乙酉廿四日戊申、太上天皇太皇太后幸行於河内離宮 經信以壬子傳幸於難波宮也 三月七日於河内國伎人郷馬國人之家宴謌三首
標訓 天平勝寶八歳丙申、二月朔乙酉にして廿四日戊申に、太上天皇と太皇太后と、河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)して、信(ふたよ)を經(へ)、壬子を以ちて難波の宮に傳幸(でんこう)したまへり。三月七日に、河内國の伎人(くれひとの)郷(さと)の馬(うまの)國人(くにひと)の家にして宴(うたげ)せる謌三首
集歌4457 須美乃江能 波麻末都我根乃 之多波倍弖 和我見流乎努能 久佐奈加利曽祢
訓読 住吉の浜松が根の下(した)生(は)へて吾が見る小野の草な刈りそね
私訳 住吉の浜松の根の下に生える、私が眺める小野の草を刈らないで下さい。
左注 右一首、兵部少輔大伴宿祢家持
注訓 右の一首は、兵部少輔大伴宿祢家持
注意 原文の「之多波倍弖」の「波」は、標準解釈では「婆」の誤記とし「之多婆倍弖」と校訂して「下延へて」と訓じます。歌意が異なります。
集歌4458 尓保杼里乃 於吉奈我河波半 多延奴等母 伎美尓可多良武 己等都奇米也母 (古新未詳)
訓読 にほ鳥の息長川(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ辞(こと)尽きめやも (古新は未だ詳(つばび)らかならず)
私訳 にほ鳥が息が長い、その言葉のような、息長川は水が絶えたとしても、貴方にお話しする物語は尽きません。
左注 右一首、主人散位寮散位馬史國人
注訓 右の一首は、主人(あるじ)散位寮(さんゐのつかさ)の散位馬(うまの)史(ふひと)國人(くにひと)
歌自体は特別な話ではありません。問題は兵部少輔であった大伴家持を自宅に招いた馬史國人です。それも太上天皇と太皇太后が難波離宮への御出座しの中で警備を担当する兵部少輔による御出座しの行事が終わったあとの訪問です。歌の標題に示すように個人的な休暇中の訪問ではなく、馬史國人から申し出があり朝廷の許しを得ての訪問です。可能性として、太上天皇の難波離宮への御出座しの時に兵馬の提供か、休憩所の提供などの申し出があり、その謝辞を示すために兵部少輔の派遣と思われます。
この馬史國人については、木簡の発掘成果や正倉院文書の解析からすると天平元年頃に舎人で出仕し、天平10年(738年)頃には少初位下の官位を得ています。さらにこの歌が示すように天平勝宝8歳(756年)3月7日時点の官職は散位(官位があるが無職)ですが、その後に不思議なことに勤務実績を持たない散位の立場なのですが天平宝字8年(764年)10月の除目では「馬毘登国人」の名前で従六位上から外従五位下への昇叙となっています。これら記録からすると、彼の官位の昇級速度は標準的な六年ごとの勤務考課によるものではなく、何らかの理由で特進したと考えられます。遣唐使の随員でも、戦争で絶大な武功を立てた記録もありませんから、馬史國人は氏族の名「馬史」が示すように馬の生産者集団の長として財をなし、蓄銭叙位令に従って官位を買ったと考えられます。規定では大初位までは5貫(銭5000文)で一階級、それ以降では従六位上までは10貫(銭10000文)で一階級の昇級が納税により与えられます。ただし、勅許を得ても官位が買えるのは従五位下までです。ちなみに奈良時代の標準的な馬の値段は7貫200文(銭7200文)との報告(経済史的にみたる上代牧馬:佐藤虎雄)がありますから、馬二匹で一階級は買えたことになります。従って馬史國人が馬の生産者集団の長だったら官位を買うことは難しい話ではありません。
馬史國人は大金持ちですし、馬生産者であれば、武闘派一族である大伴・佐伯一族を率いる大伴家持としても関係性を持つことには意義があることでしょう。また、家持は兵部少輔と云う役職の人ですから朝廷として兵馬を購入する責任者の立場でもあります。
このような関係でしょうか。集歌4457の歌では馬を飼うために大量な草を刈っている風景を詠ったのでしょう。また、この時代、貴族は競って良馬を求めたようで馬を所有する数について養老五年にはそれを制限する詔が出ています。ある種の馬バブルで大儲けした一族を代表する人物と推定されます。
特別な歌ではありませんが、唐突に万葉集に載る人の背景を探りますと、このような調べで遊ぶことができます。ただ、巻十七以降の歌に秀歌を探すのは野暮な話です。この歌二首は単に利害関係者が持った宴での儀礼的な挨拶歌だけです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます